1-1:夢の始まり 上

 気が付けば、何やらほの暗い場所にいた。辺りをボンヤリと見回すと、キラキラと輝く星のようなものが見える。


 なぜ、こんな場所に自分はいるのだろうか。先ほどまで何か夢のようなものを見ていたような気もするが――まとまらない意識の中で、ここに至る経緯を思い出そうとする。


 ふと、自分の吐く息が泡を作っているのが見えた。急にハッとし、慌てて息を止める。ここは水中のようだった。


 改めて、周囲をきょろきょろと見直してみる。水中というには、奇妙な浮遊感のようなものを感じる。上もなければ底もない、右も左もわからない。いや、息が苦しくなってきたのだが――。


「ぷっ……くくく、いや、そんな必死に息を止めなくても大丈夫ですよ」


 声のした方向に身をよじってみる。足元がおぼつかないので、振り向けないのだ――と、口元を抑えて楽しそうにしている黒い長い髪の女がいた。


「まぁ正確には、アナタは今、精神世界的なところにいるので、息を吸わなくても問題ないっていうのが正しいですかね? アナタが息を出来ないと勘違いしているから、苦しい感じがしていると思うのですが……くくく、しかしすごい形相……!」


 なるほど精神世界的な所、意味は分からないが夢のようなものか。


「いや、夢じゃないですよ」


 思考を盗聴された。


「女神ですから」


 目の前の女はエッヘンと控えめな胸を突き出した。彼女の纏う衣装は白い清廉な布とでもいうべきか、ともかく彼女の纏うどことなく神聖な雰囲気を見るに、なるほど確かに外見は女神らしい。


「話そうと思えばアナタも話せますよ。呼吸をしないから違和感あるかもしれないけれど」


 そうは言われても、人間なかなか染み付いた本能は覆しがたいもので、水中と思うと口を動かすのは憚られる。確かにここは精神世界的なところらしいし、別に話さなくても思考してくれれば通じるとのことだったが、やはり思考が一方的に読まれて話が進むのも違和感がある。なんとか意を決し、口を開いてみることにする。


「……あ、あー、本日は晴天なり」

「おー、良く発声できました」


 ぱちぱち、と女神は手をたたく。声を出すだけで褒められた。割と優しい女神なのかもしれない――いや、前言撤回だ、アレは下に見ているものをおちょくっているヤツがする目だ。


 仕切り直しのつもりなのか、女神はごほん、とわざとらしげに咳ばらいをし、キリッとした顔になった。しかし、あまり真剣な表情似合ってない。


「アナタの思考は筒抜けなのはお忘れなく。では改めまして、死後の世界へようこそ」

「あ、やっぱりアレですか、そういう感じですか」


 やはり、ここは死後の世界というものらしい。しかしそうか、自分は死んだのか。ふと、碌な人生でもなかっただとか、生前のことを思い出そうとするのだが――。


「……思い出せない」


 自分の頭を右手の人差し指でトントン叩いてみる。しかし、ここが特殊な場所なせいか音は返ってこない。音ですら返ってこないのだから、記憶が戻ってくるわけもなかった。


「五人に一人くらい、死んだ時のショックで記憶が飛ぶ人もいるんですよー」


 そのせいじゃないですかねー、と自称女神はへらへら笑っていた。


「いや、女神様の力でなんとかなりません? 記憶がないのはなんというか、違和感あると言いますか」

「失われた魂は戻せても、失われた記憶までは戻せないんですよ」

「いや、そんな遠い目で言われても。なんなら失われた魂を戻せるほうが凄そうなんだが?」

「より凄いことはできる。それが女神クオリティ」

「はぁ……アンタじゃ記憶は戻せないということはわかったよ」

「物分かりが良くて助かります。しかし、会話を初めて数秒で様付からアンタ呼びに格落ちされるのはあまり納得いきませんが」

「というか、失われた魂を戻す……ってことはアレかな、死んで召されるとかではなく、噂の転生的なやつか?」

「まぁ、概ねそうです。少し、順番を追って話しましょうか。まず、アナタは亡くなりました。死因は……」


 そこで女神は一度言葉を切り、俺の目をじっと見据えてきた。本当に記憶がないのか、試そうとしているのかもしれない。いや、死んだ時のことなど思い出すべきでもないのかもしれないが――凄惨な死に方だったらイヤだし。


 少し思い出そうとしてみるが、結局は自分の脳裏に降ってくる記憶は何一つなかった。


「やっぱり思い出せないな。死因、聞いておくべきか?」

「知りたいなら」

「一応、教えてくれ」


 俺の質問に、女神は目を閉じ、彼女自身の口元に人差し指をあてるしぐさをした。言うべきか、考えているのかもしれない――そして、女神は息をゆっくり吸い――この空間には酸素などないので、そのように見えるだけだが――目を開いた。


「トラックに轢かれそうな見ず知らずの女の子を助けて、身代わりになりました」


 死因を聞けば、なんとなく生前のことについてピンと来るものもあるのではないかと思ったが、残念ながらカスりもしなかった。言われてみれば、そんなことをしたような気がしないでもないのだが――やはり符合する記憶はない。そのせいか、まるで他人の話を聞かされているようだった。


「言うまでにずいぶん間があったな、嘘なんじゃないか?」

「いえいえ、本当ですよ。アナタはトラックに轢かれています。それとも何ですか、バナナの皮で滑って頭を強く打って死んだとか、そういう方がお好みで?」

「いや、間抜けな死に方じゃないほうが助かるかな……主に自身の名誉のために……それで、その女の子は無事だったのか?」

「えぇ、無事でしたよ」

「そうか……まぁ、それなら良かった」

「ふふ、そういうところです」


 口元を抑えて小さく笑う女神は、話をしている中で一番あどけなく見えた。最初に見た時、目鼻立ちは確かに整っているというものの、女神というほど――現実離れしていると言うほどではない印象だった。どちらかと言えば、普通に街中で見かけるレベルの可愛い子というか、そういうレベルの美貌。


 とはいえ、悠久の時を生きているのか、どことなく計り知れない雰囲気があるのは間違いなかったが、今の笑みは年相応というか、十代らしい外見に最も合っているように感じられた。


「おやおや、女神口説いてます? まぁ、単純に褒めているって訳でもないですけど」


 こちらの思考が読まれ、女神はからかいモードに移行してしまった。こうなっては話が進まないので、話題を軌道を修正することにした。


「えーと、つまり、俺の生前の善行が評価されて、もう一度チャンスがもらえる、とか?」

「半分正解、半分不正解です。まず、女神も暇じゃありません。アナタの行いは褒められることかもしれませんが、それだけでわざわざ手間をかけて転生させたりしません。つまり、アナタを転生させるからには、一つ仕事をお任せしたいのです」

「なるほど、魔王を倒せとか、そんなのか?」

「いえ、そんなことは依頼しません」


 男の子として生まれたからには――いや、死んだらしいが――魔王の一つや二つ倒してみたい。しかしそんな男のロマンは、そんなことという言葉の暴力で一蹴されてしまった。


「なんだ、魔王とかいないのか?」

「魔王はいます」

「いるのに!?」

「冷静に考えてみてください。人間を異世界転生なり召喚して、魔王を倒せるくらいの力を授けるなら、それはもう女神の力が魔王を上回っている証拠。それで魔王が邪魔なら、自分で倒しに行きますって話ですよ」

「いや、それはこう、女神は魔王に捕らえられていてとか、力を封印されていて、助けてくれる勇者を召喚するとか、そういうんじゃないかな、その、設定的に」

「設定とかいう恥ずかしい表現出すのやめてもらっていいです?」

「あ、はい、すいません」


 なぜだろう、記憶がないはずなのに心がチクっとした。もしかしたら生前に、こんな感じのことを話して恥ずかしい思いをしたことを、脳ではなく魂が覚えているのかもしれない。


 震える魂をなんとか抑え、いつの間にか足元に落ちていた視線を女神に戻した。


「それじゃあ、俺にしてほしい仕事ってなんだ?」

「はい、行脚してほしいなと」

「あんぎゃー?」

「生まれたての赤ちゃんみたいな声を出さないでください。つまり、アナタに私が……私たちが創造した世界を見て歩いてほしいのです」

「えーと……」


 まったく相手の真意が読めず、こちらも言葉に詰まってしまう。わざわざ復活させる手間をかけたという割には、頼むこともあまりに些末なのではないか。


「いいえ、これは私にとっては重要なことなのです。もう少し正確に言うと、アナタにはこの世界を見て回ってもらって……この世界が、この世界に生きる人たちが、アナタにとってどのようなものであるか、それを感じてきてほしいのです」


 女神はそこでいったん息を入れ――正確には吸うものもないので、少し間をおいて――続ける。


「先ほどのアナタの質問に対して半分正解、と言ったのはここからです。もう一度チャンス、という質問はアナタの見当違いですが、生前の善行について、見るべきところがあると思ったんですよ。アナタには、弱い者のために身を投げ出せるだけの倫理観がある」

「それって、俺だけが特別なのか? そうとも思わないが」

「えぇ、そうですね。もちろん、子供が路面で轢かれそうになっている時、アナタのように体が動く人は多くはない。しかし一方で、万に一人の逸材というわけでもありませんね。でも、今回はそこもポイントなのですよ」


 結局、何が言いたいのか良く分からない、そう思っていると、女神は人差し指をぴん、と立てた。ここがまとめポイント、ということなのだろう。


「つまり、一般的以上の倫理観を持った、それでいてとびっきりに特別な訳でない人に、私の統べる世界を見てほしいのです。

 いわゆる、戦争のない、衣食住や社会保障の整っている平和な地域と時代に生まれた人の一般的な倫理観から見た時、この世界がどう映るのか……私はそれを知りたい」

「つまり、俺みたいな人であれば良くて、俺である必要はないってことか?」

「そこに関しては、ご想像にお任せしますよ」

「はぁ……まぁ、俺がここにいる理由は分かった。だが、それだと記憶喪失はかえって厄介なんじゃないか?」


 実際、記憶があるほうが、何かを見て思考する、ということはしやすいだろう。しかし、俺の疑問に女神は笑うだけだった。


「いいえ、アナタは、自分が何者であったかというフィルターに惑わされずに、この世界を見ることができる。それに、自分のこと以外は、記録としてあるんじゃないですか? アナタはアナタの時代の倫理観と価値観を持ちながら、個人の状況に惑わされない。だから、ちょうどいいんです」


 確かに、こうやって会話が出来ているのだから社会常識とかいうものももちろん、空は青いとか、基礎教養的なものはきちんと脳に残っているようだった。


「ともかく、記憶がないと言っても、アナタという人間の本質は変わりませんし、記憶自体は私にとっては些末な問題です……もちろん、アナタにとってはそうではないでしょうけど」


 そこまで言って、女神は目を伏せて静かになった。もしかすると、俺の記憶が消し飛んでいることに、多少は罪悪感というか、きちんと蘇生できず申し訳なく思っているのかもしれない。


「いや、こうやってチャンスをもらえたんだ、単純に死ぬよりは恵まれてると思うし、そう落ち込まずにな? それにアレだ、お約束的に言うなら、きっとすごい能力的なもの、あったりするんだろう?」


 若干自分の口がネチャつくのを感じる。チートとかあるのもズルいかもしれないが、いやこれは女神直々の依頼なのだし、依頼を達成するために最低限の路銀というか、特権的なものは必要だろう――そう思っていると、女神の顔がパッと明るくなった。

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