同じ瞳で



 まるで、桜吹雪だった。玄月の胸元から鮮血の代わりにこぼれた光は、一瞬にして、薄紅の嵐へと変わった。その光を纏いながら、玄月の身体がはらはらと花びらへと変わっていく。指先から、胸元から、長い黒髪から――。彼の身体は花へと変わり、風に戯れ、舞い散って――最期に、いつもの微笑みを残して、消えていった。


 その桜花が溶けた光の奔流が、抱きしめるように春明を包み込む。光とともに、軽やかに風が吹き踊り、春明の銀色の髪を巻き上げた。

 と、同時に、それが黒く染まり戻り、九つ尾が煙のように消えていく。


 どれほど力を注いで作りあげたものであろうと、化生の器。死人の器。その歪みある器では、まったき陰陽の器には敵わない。生きる人の身は、ただぞれだけで――しなやかに強い。


 化生の名残を、死人の残滓を飲み込んで、春明の身体が人の器へと変わりゆく。

 やがて、光の花嵐が収まって、静かに開かれたその瞳は、もう、母たる化生と同じ色ではなかった。螺鈿散らした、射干玉の黒。星の煌めき宿した、夜色の瞳。


 紫の糸の結界も気づけばほどけて消え、春明の手のひらから、粉々に砕かれた瑠璃色の破片が零れ落ちた。

 化生と死人の身体を繋ぎ止めていたもの。いまはもはや――春明には不要となった、器のくさびだ。


「――新たな帝は生まれない」

 低い声が、静かに、しかし明瞭に告げた。

「お前たちの野望は潰えた。御垣の世は、終わらない。明日は――続く」


 その声音は変わらず春明のもの。その顔立ちも、背格好も、彼のまま。ただ、そう、ただ――その譲られた器の持ち主の置き土産だとでもいうように、白露たちを睨み据える双眸だけが、彼の友のものだった。見るものを虜にする、星空の瞳。


 すでにその瞳に魅入られ、ことをただただ見守っていた大樹帝が、そっと唇を噛んだのが、春明の目に映った。だが――


「まだ、終わらぬ」

 呻くように囁く声がした。

 白露しらつゆ花薄はなすすきの袂が翻る。砕かれた瑠璃色の勾玉の破片が、とたん、光を帯びた。一陣吹き荒れた風に乗るように、粉々となった勾玉の粒子が、白露の手元へと流れ込む。


 それはひび割れながらも、九つの勾玉の姿を取り戻し、そして――

 掌中きょうちゅうによみがえったそれを、白露は大樹帝の胸元へ、その腕ごと突き立て、埋め込んだ。

 帝の口元から、鮮血がこぼれる。血に濡れた白銀の髪から、化生のまなこがぎらぎらと不気味にのぞいていた。


「天を地に、地を天に。この世を呪い厭い、《澱み》を生み出し続けながら、手離さぬとは笑わせる。安穏と怠惰な死に沈め、人間ども。この苦痛にまみれた御垣の世は、妾たち化生の方が心地よく過ごせよう」


 大樹帝の身体が、貫かれた胸元からあふれた、黒い羽根の渦に飲まれた。揺らめきながら、その羽根の渦は巨大な影となって膨れ上がっていく。見上げる春明の視線の先で、人のような影が苦悶しながら身を折り、抱え、そのまま瞬く間に形を変えて、枝葉を伸ばした黒い巨木へと変じていった。


 揺する巨大な枝から舞い落ちるのは、葉ではなく、黒い烏の羽根。それが稲妻のごとき光を放って空を引き裂き、大地に走った根が、轟音とともに地鳴りを起こした。

 天を、地を――粉々に打ち砕こうとでもいうように。飲み込もうとでもいうように。


 大樹は枝を振り回して黒い羽根をまき散らし、暴れる太い根が、地面をひび割れさせる。その亀裂から、あとからあとから、《澱み》の濁流が吹き上がり、そこから生まれかけの化生たちが、うぞうぞと蠢き現れ出でてきた。


吾子あこ、その器が馴染み切らぬいまなら、まだ、間に合う」

 赤黒い空の元、瓦解していく世の有様を満足げに眺めまわした化生の笑みが、ゆるりと春明へ向き直った。


「母の手を取れ、吾子。そなたを元の強き器に戻してやろう。そんな人間の身を得て、いったいなんになる? 死にぞこないの残した器など、そなたには似合わぬよ」

 躊躇いもなく歩み寄り、嘲りでなく手を伸べる。そのすらりと不気味な美しい手へ、春明はひとつ、深い断絶のため息をおとした。


「――貴様には、名すら覚える価値のない、つまらぬ人間の器であるのかもしれないが……」

 ――君の孤独の、良き友に。

 その微笑みの隣にあった格別の心地よさは、たとえわずかな時間だったのだとしても、共に歩み続ける限り常永久だ。それ以外に、なにを、求めようというのだろう。


「私にとってこの身は、我が友、天下一の陰陽師・芦屋玄月のもの――手離せなど、するものか」


 春明の指先が印を結んだ、瞬間。蒼銀と紫の光が絡み合い、強烈な閃光となって白露を射抜いた。

 とっさに彼女が幾重も生み出した鏡の盾すらことごとく砕き割って、一筋にその首元を貫き打ち抜く。


 金色の目が、信じられぬものを見たとばかりにばかりに見開かれた。赤い唇が、なにかを呟き動いたが、切り離された喉からは音が紡げなかった。そのまま銀色の髪を振り乱して、宙へと放られた頭が塵と消え、倒れ込んだ身体が大地に触れる前に煙となる。


 化生を貫いた閃光は、隆線を描いて空を駆け、天地へ分かれて滑り流れた。

 天に広がるは蒼銀の五芒の星。地を覆うは紫の糸紡ぐ籠目の紋。

 眩くもやわらかな輝きが、天から注ぎ、地から湧き上がり、赤黒い空と澱んだ空気を、祓い清めて飲み込んでいく。


「〈射干玉の 瞳見つめる 御垣世みかきよよ 紡がれ続け 言祝ぐごとく ――急急如律令〉!」


 涼やかな声とともに、天地を繋いで迸った光の奔流。その目を射る輝きに、大樹がひび割れ、幹から蒼い炎が燃え上がった。それは根を伝い、枝を渡り、光とともにあまねくすべてを飲み込んでゆく。


 一帯を包み込んで、淡くあたたかに燃え上がる、蒼い焔。

 そのただなか。春明の見守る先で、ぼろぼろと崩れる大樹の影のうちから、やがて、ひとつの人影が浮かび上がった。

 ぽっかりと、穴の開いた胸を押さえ、乱れた髪で、静かにおもてを上げる。


「……御垣の世は、終わらせられぬか……」

 穏やかな、しかし、深く悲しみをたたえた声が、掠れてこぼれた。

「あなたは摘み取るより先に、少しでも育めるよう、足掻くべきだった」

 それが望めぬわけではなかったはずなのだから。どれほどかそけき、苦難の道であろうとも。


「もう遅い。……私は終わる。なにもかも――守れぬまま……」

 指先から、じわりと蒼い炎が大樹帝の身体を這って、柔らかに燃え上がった。苦しみはない、荼毘だびの送り火。しかしその顔は、辛そうに憂いたままだ。

 ひじりみかど。多くの民の姿を見つめ、声を聞き、そして――その聡明さゆえ、この世の生き苦しさに絶望したもの。


「我が子たちを、この御垣の世に残すのは、ひどく、無慈悲なものではないだろうか……?」

 幸せに、大きくなれ――そう願えない明日なら。幸せなうちに、苦しまず――摘み取ってしまった方が、優しさなのかもしれない。

 それでも――


「――また来年も、お前と花の盛りを楽しみたい」

 ぼそりとこぼれた春明の言葉に、怪訝に帝が眉を寄せる。

「そう、明日を恋うる出逢いが、どうしてないと言える?」

 帝の顔を翳らせる、暗く悲しい明日の影が見えないわけではない。けれど春明の瞳には、楽しみと共に今日を歩み、明日を待ち望んだ友の笑い顔が、焼き付いている。


 翳ろう寂しさをわずか溶かして、いとおしげに細められた瞳。その射干玉の黒に、帝は目を見開いた。

(ああ、そうか……)

 蒼い焔に包まれながら、ぼやける視界になお鮮やかな瞳に思う。

(あの瞳が美しいのは――)


 翳りある世でなお、かそけき光で明日を手繰り寄せようとする、決意宿す瞳だから。

 今日を呪い、明日を恐れる。《澱み》渦巻く己とは対極の――

(いや、それを飲み込み、受け入れた……)

 己が届かず、望みたかった瞳だから。こうも、狂おしく惹かれる。


「……明日の安寧を、我が子たちに」

 か細く、その瞳に託して、大樹帝の身体は炎に飲まれ、骨と果てた。


「――悲しみで今日を費やし、明日を潰す……。確かに、つまらぬ生き方だ」

 哀悼でむくろに祈りの印を切り、しかし春明はそうこぼす。


 いつの間にか晴れ渡った空は、真昼の色。抜けるような爽快な青に、太陽を浴びて白銀の雲が眩く浮かんでいた。

 心地よいほど晴れやかな空。その眩しさを、ひとり射干玉の瞳で見つめ上げて、春明は口端を小さくほころばせる。

「楽しく明日を望め。そうだったな――玄月」


 君はいない。

 ただ、君と同じ瞳で、明日を見ている。







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