陰陽の双璧


 脳の奥で、どろりと熱いものが蠢く感覚がした。鼓動が不規則に乱れ、痛みとともに胸のうちで暴れる。

 勾玉は、春明の胸のうちに滑って、溶け消えた。


 九つ。九つ、身のうちに揃ってしまった。

 力が入らず、思わず地に着いた膝が、なお震えている。銀色の髪が乱れて流れ落ちた先。暗い地面により暗く浮きあがった己が影に、九つ、尾が揺れていた。

 胸元を押し潰さんばかりに掴み、身体を抱く。どくどくと駆け巡るナニカを抑え込もうとするが、冷や汗が滲み、呼吸が苦しくなるばかりだ。


 その時、視界の端に、なにかが過ぎった。黒い、羽根だ。

 中身をい交ぜられるようにぐらぐらと揺れる頭で、かろうじて春明は空を見上げる。

 赤い空のどこからともなく、黒い羽根が花舞うように落ちて来ていた。


先触さきぶれの烏ですわ」

「――天帝の還御かんぎょか……」

 踊る白露しらつゆの声に、静謐に大樹帝が呟く。


「よい趣向でございましょう? 昔語りになぞらえて、吾子が帝となるのを祝福するように」

 白い指先で舞い落ちる羽根に戯れながら、くすくすと白露は肩を揺らした。

「この羽根は、いま、この国の隅々、津々浦々まで降り注ぎ、あなた様の言葉を借りるなら、生きる苦しみごと、人間たちの命を祓い清めましょう。少々早うございますが、夏越なごしの大祓えということで」


「ああ……そうだな。苦痛も悲しみも、すべて……終わりだ」

 白露の言葉を半ば虚ろに流しながら、大樹帝は空を見つめた。

 還御を祝う羽根が落ちる空。それを仰ぐ横顔は、ひどく穏やかで――死人のように、ほの暗かった。


「あなた様が願い、妾も叶えられて嬉しゅうございますわ。望月の欠けたることもなき御身でなお、届かぬ焦がれを凝らせた、あなた様のじょうの《澱み》。妾にはありがたきものでありました」


 じろりと、帝は一瞬、笑う白露を睨み下ろした。

 褒めたたえる口ぶりで、嘲る響き。だが、誹りも受け入れなければならぬだろうと、彼は視線を空へ戻した。


「……遠くない明日を、苦しみながら生かされ続けるのなら、いま、安寧を――そう願ってしまうのは、仕方のないことだろう」

 誰に言うともなしに、低い声はささやく。

 彼は、安寧を、渇望したのだ。


 化生と共謀し、世人の行く末を憂いながらその命を切り捨てる道を選んだのは、ただ、安らかであって欲しかったからなのだ。何ものにも、脅かされないでいて欲しかったからなのだ。


 幼く、いとしい子どもたちが、小さな小さなぬくもりが、冷たい悲しみや苦しみに、晒されないでいてほしかった。ただただ、幸福の中で笑っていて欲しかった。真実抱いていたのは、そんなささやかで遠大な望みだ。けれど――


「この御垣みかきの世は、心穏やかに明日を臨むには、あまりにも希望がない」

 それは、己が一番よく分からされていた。

 この世を統べる王の地位にあったとて、なにひとつ、思うままに守れない。


「それでも――己が胸の痛みで、明日を摘み取ってはいけないだろう……」


 はっと帝は、かすか捉えた声に、視線を空から引き戻した。

 地に這いつくばりながら、血濡れた口元を拭う男。取り繕うじゅつを保てず、あらわになった瘦せぎすの姿。だが、落ちくぼむ眼窩でなお凛然と、その瞳が睨みつけてくる。螺鈿散らした射干玉の瞳。星の光を宿した――明日を指し示す瞳。


「それが賢明な優しさなのか、愚かな恐れなのか、明日芽吹く花を見なけば、わからないでしょう?」

 ふらつきながら立ち上がる、青白い顔。折れそうに衰えた腕。無残なというべきな――そんな有様なのに、悠々と笑みを携える。だからだろうか。病にその身を喰い荒らされていてなお、魅入られる。だが――


「大樹の末、どくがいい」

 それは化生には不吉に映ったらしい。刺々しく言い捨てた白い影が、茫然とした帝の半歩前へと進み出て印を切る。瞬間、空を一閃。白露の前に現れ出た鏡から、閃光が貫き迸った。


 それを鮮やかに薙がれた薄紅の袂とともに、描き現れた紫の糸の盾が、籠目に結ばれ防いで守る。と同時に弾かれそれれて分散した、閃光の残滓ざんしが、大地を抉り、遠い殿舎でんしゃを打ち砕く轟音が轟いた。


 そこにあわせるかのように、赤く血が花と散る。ひび割れるように走った、枯れ木のような腕への裂傷。自分で紡ぐ術の威力に、彼の身体はもう、耐えられないのだ。

だらだらと腕からしたたり、地面を染め、広がりゆく小さな血だまりに、膝を折ったままの春明は目をむいた。


「玄げ、」

「この有様だ。どうせ俺は永くはもたない」

 呼び声を遮って、長い黒髪が振り向いた。

「そしてこのままいけば、君は完全に勾玉に取り込まれて、化生の王にさせられる」

 振り仰ぐ春明の金色の双眸に、いつかのように――いつものように、彼は微笑んだ。


「いまは君を保っていてくれているけれど、君がその器に引きずられて、君として失われてしまうのなら――それは、俺はいやなんだ」

「……その時は、お前が、私を殺せ。約束、しただろう?」


 なにか、この先にこの会話を進めてはいけないような焦りが込み上げてきて、春明は囁いた。思ったよりも力がこもらなかったのも、涙混じりの縋るような響きになったのも、身の内で猛る勾玉の力を押さえるためだ。そのせいだ。

 けれど、玄月はそれを笑い飛ばす。


「無理な相談だなぁ。だって、ほら、こんなんじゃ、さすがに君に勝てる気がしない」

 再び次々と空から落ち来た流星のような白露の攻撃を、その指先から滑り出た糸がことごとく防ぎ止める。だが、糸が空を踊るたび、絡み合い形を成すたび、玄月の身から悲鳴のように血が吹き出た。


 それでもなお、春明の身体は動いてくれない。いや、動かせないのだ。白露の呪縛は、もう解けている。だが、どくどくとずっと、身の内を餓え乾いた欲動のようなものが脈打っている。少しでも身じろぎすれば、目の前の友すら手にかけてしまいたくなるような、冷たく獣じみた衝動が蠢いている。


 視界が赤く滲むのは、空のせいか、友のせいか――己がせいか。思わず、唇を噛みしめた。その春明の人ならざる狐の耳へ、柔らかく笑う声は言う。


「あの雨の日みたいな……君じゃない君を見せつけられるのは、一度きりで十分だ」

 また弾き返された白露の鏡の閃光が、千々に空に広がって、玄月の細い横顔を照らす。その輝きを散らした瞳が、眩く笑った。

「だから、この身をこのまま君の器として、譲れる術を探していた。そうすれば君は――その魂に見合った、人としての器を手に出来るから」


 化生は、人を喰らい、己の肉体を強化する。

 だが、いくら人を喰らっても、化生は人にはならない。なれない。死した身体を喰って、そこに宿った陰陽の気を集めているだけだからだ。どれほど人から陰陽の気を奪おうと、それを溜める先は化生の自身の肉体だ。だから、器そのもののしつは変わらないのである。


 けれど、もし、生きたままの肉体を――器を、譲る人間が現れたとしたら――? 

 それは、器そのものを、化生のものから人間のものに変えるということだ。陰陽のまったき、人間の肉体。それが、与えられるということだ。

 化生が、人になるということだ。

 ただし、それは当然――器を譲った人間の死を意味する。


「君の魂は、まがうことなく俺と同じもの。ただその器だけが、化生と死人でありあわせられた、陰の器だ。しかもいまは、勾玉の力でその器を強化されたせいで、君の魂が、器に引きずられていきそうになっている」

 形が、在りようを結びつける。春明の身はいま、帝に成り代わる化生の王の器。けれど――

「君は、ナニカを統べる帝の器なんかじゃない。この世を守る、陰陽師がお似合いだ」


 震える春明の唇が、追いつかない思考が、なにも紡げないのをいいことに、美しい星空の瞳は言い募った。

「俺を君の器にしろ、春明。その方法はもう、見つけてある。君が寝ている間に、ちゃんとね」

 やせ細った腕は、春明の前に白木のあつらえの小刀を差し出した。


(ああ、お前は本当に……いつもそうやって――)

 君がいるなら大丈夫、と――はた迷惑な信頼を押し付けて、思うがままに、やりたいままに、春明に後を託して飛び出していってしまう。軽やかに。鮮やかに――


「……お前、なにを頼んでいるのか分かってるんだろうな?」

「君が頼んでたの同じ事だよ」


 ――なにかあった時は、殺してほしい。そう彼に願った。いくどと託した。確かに、それと同じことだ。

 正確には殺す――のとは少し異なるのかもしれない。けれど、器をもらい受ければ、彼は、いなくなる。器を失くした彼の魂は、手の届かない場所にいってしまう。もう二度と――会えなくなる。


「俺はもし、必要なんだったら、出来たのだったら、君を殺したよ」

「でも、果たせなくなっただろうが……」

 微笑む玄月に、俯く。


 分かっている。やつあたりだ。彼はそれが致し方ない定めなら、それしか道がなく、己が力で及んだならば、なにより春明の意思を汲んだ。荷が重いとぼやきながらも、きっと、彼が願いに応えてくれた。

 ただ、いまは――そのやせ細った腕では、それは叶わないというだけだ。だがら、告げるのだ。

 己が身を、春明の器にしろ、と。


「どうせこのままでも、君の一部にされるのは同じだしね。でも、病で削られ、殺され、化生の君のどことも知れぬ一部で消耗されるより、君の意思で、俺の願いで――安倍春明あべのしゅんめいと共に歩みゆける道の方が、ずっと心躍るだろう?」


 朗らかな声に、春明は視線をあげた。前を向けば、射干玉の奥に、いまなお明日示す星の輝きが瞬いている。


「俺はこんな目で生まれてきて、世を呪ったこともあったけど、たくさんの人に――君に、出会えてよかった。楽しかった。だからこの世は、明日も続くべきなんだ」

「――明日を望め、か」

 春明は、かすか口端を引き上げた。


 その手の差し出す刃を取れば、春明は彼を喪う。けれど、彼と紡ぐ明日は、潰えない。このまま化生になれば、それも、失ってしまうだろう。

 友になろうと差し出された手を取った日から、驚くほど目まぐるしく、しょうもなく、騒がしく重ねてきた日々。それを、絶たれてしまう。

 楽しく、心地よかった彼の隣。そこにあったすべてを――


(なかったことには、したくない、な……)

 差し出された小太刀へ、ゆっくりと春明は指を伸ばした。


 それに、遠くから焦った叫び声が、鋭くかかる。

「吾子、つまらぬ言葉に騙されるな! そなたが帝となれば、世のことわりはそなたの思うがまま。死人しびとのひとりやふたりごとき、蘇らせることも出来ようぞ!」


 ちらりと、春明は己と同じ金色の目が、焦燥に見開かれているのを見た。

 なるほど、それは確かに、誑かすには十分な甘言だ。もう彼岸にいってしまった友を、天運が終わりを示す彼を、再び、この世に呼び戻せる。ただし――人ならざる、モノとして。

 一瞬よぎった暗い願望に、ふるりと春明は首を振るった。


「……それは望んではならぬ、ゆかしき未来だ」

 見つめる射干玉の瞳は、病に衰えたその姿でなお、美しい。それは彼が、人として生きて、そこにあるからに他ならない。その輝きを、己が願望だけで、穢し貶めるわけにはいかない。


 白木の小太刀を春明は手に取った。


 瞬間、拒むように春明の尾が逆立ち、身の内を破るような激痛が、どくりと脈打つ。しかしそれを、ふたりを囲んで足元から滑り昇った、紫の糸の結界が、淡い光の粒子を振りまいて鎮めた。


 小太刀から離れた玄月の手のひら。それがそのまま、彼の胸元へとあてがわれる。


「春明。その身に宿された、勾玉の力を反転させろ。化生の力を、陰陽全まったきこの身の力で、人の力へと変えてやれ。天下の陰陽師の器には――この俺こそがふさわしい。だろ?」

「ああ、お前が願い、この安倍春明が承った」

 地に屈したままだった膝をあげ、立ち上がる。鞘から引き抜けば、凛と清冽な刀身に、紫の光が星のように淡く煌めいた。


 吾子、と噛みつく声が、遠くした。

「正気か? ただの人間の器が、それも病に侵された器が、吾子の溜めに溜めた陰陽の力に耐えきれるものか……!」

 麗しい顔が、牙を剥き、毛を逆立てたおどろおどろしい威嚇の形相に歪む。

 それに、玄月が口端を引き上げた。病に枯れ、ひび割れた、弱々しいはずのその唇が、なお鮮やかに、不敵に、笑みで彩られる。


「おあいにくだ。俺を誰だと思ってる? 俺は、天下の陰陽師・安倍春明と並び立てる者。双璧と謳われた陰陽師――芦屋玄月だ」


 紫の光を帯びた刃が、応えるように閃いて、ふたりの影が折り重なった。

 肩にかかる重み。春明の耳元をくすぐる、いまわの吐息。それが、楽しげに揺れた。


「共に、楽しい明日を。頼んだよ――春明」

 刺し貫いた胸元から、ひとかけら、ふわりと薄紅の光がこぼれ落ちた。




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