君と見る桜(2)


「あとそうだ。ついでに苦情を申し立てるが、あの噂はなんだ?」

「噂? はて、とくに覚えはないけど、安倍春明がよりにもよって桐壺方の女房に入れ込んだのに振られたとか、聞いたような聞かなかったような」

「それだ、それ!」


 露骨にすっとぼける玄月を、渋く寄った太めの眉と、より鋭さを増した双眸が睨みつけた。


「忙しさにすべてを流してきたが、内裏でこそこそ噂しあう声が耳障りでなかったといえば嘘になる。その上、一部は妙な同情の眼差しと上からの助言を与えてきやがってな。苛立たしいことこの上なかったんだが?」


 今現在、内裏で流布する噂はこうだ。色事に興味を示さなかった安倍春明が、よりにもよって桐壺に新しく入った女房の元に熱心に通いだした。だが、その女房はくだんの事件に恐れをなし、引き留める春明の言も聞かず、彼を袖にして内裏を去ってしまったという。いかに嘆きくれようと、春明の術をもってしても人の心は変えられない。哀れ安倍春明。惚れた女に逃げられて、疲労困憊、傷心しきり。涼しい顔をしているが、夜ごと、彼女の琵琶の音を思い出しては袖を涙で濡らしている――というものである。


「お前の元を訪ったのは、きちんと秘密裏に処理されてたんじゃなかったのか? なぜ火消しをしてこなかった?」

「火消しも何も――……俺が、出火元!」

「お気に入りの桜の木にでも逆さづりにしてやるか……」

「待った待った、目が本気。やだやだ、怖い怖い」


 有無の前に符が変じた縄が、するりと足首に蛇のように絡んでくる。それをつま先でつついて避けながら、静謐に怒る春明を、玄月は慌ててなだめた。


「落としどころだよ、落としどころ。君と俺とで協力しました、とは言えないだろ? けど、藤壺の炎上騒動を君が治めたから、結果として、君が今回の化生を退治したことが知れ渡った。そうなると、俺の立つ瀬や、慶長側に先を越されたっていう、定周さだちか殿の気持ちのやり場がね。困るじゃん? 一応、君より先に事に当たってた訳だからさ」


「それは――確かに……。私も成果を横取りしたようで気にかかってはいた。が、それと噂とどう関係がある?」


 いったん聞く姿勢を見せながらも、ふたりの間では縄が生き物よろしく首をもたげ、様子を伺っている。『主、やっちゃいますか?』とでも言いたげな動きである。まだ油断できないな、と、そっと縄との距離を取りつつ、玄月は続けた。


「定周殿、まだ若いからさ。あと叔父甥関係の苦労があって、若干の性格の捻じれが見られるから、他人の残念な色恋話、大好きなのよ。で、早い話……君の醜聞で留飲を下げてもらおうと思ってね!」

「最悪の落としどころを思いついたな、貴様!」


 冷静と沈着に衣冠いかんを纏わせた男。それが内裏での春明の評価だ。それが玄月の扮装だとも気づかずに少将の君に熱を上げ、あげく振られて意気消沈していると聞けば、定周としては面白かろう。


「いやぁ、都合よく君が何度か訪ねてきてくれたからさぁ。筆跡も知ってるし、いろいろ丁度よくってね。って、ちょ! こいつ、おま、力強いな?」


 すかさず飛びかかってきた縄を抑え込み、玄月がじたばた激しく格闘しだす。その手足から、縄をけしかけた張本人は、すみやかに酒や肴の器を簀子の反対へと遠ざけた。そのまま騒ぎを他人事に、酔いを舌に転がしつつ、桜を眺めやる。


「それで? お前がないことないこと吹聴した噂が、女房たちの口に乗り、内裏中を駆け巡った、と……そういうことか?」


「まあ、概要はそんなとこかなぁ。うん……ほら、やっぱり、楽しんでもらえるようにって思うと、盛っちゃうじゃん? だから定周殿及び皇后にご披露した話だと、君は几帳を押し倒して迫ってきたり、声だけでも聴かせてほしいとみっともなく泣きすがってきたことになってる。あと、信憑性を増そうと思って、ちょっと筆跡真似て、しつこい恋文作って朗読してきちゃった。『あなたの顔が目の前に見えるようです。早くお会いしたい』みたいなことが延々と綴られ、うっわ! ちょ、待った! 本気だめ、本気なし!」


 足首を縛り上げた縄にずるずる簀子下へ引きずりおろされそうになって、玄月は慌てて長押なげしの端にしがみついた。


「天下の大陰陽師が大人げない!」

「それをいたずらに貶めて楽しむ輩に言えたことか! その偽書、とっとと火中しろ!」

「無理~! もう無理~! 定周殿が爆笑しながら持って帰っちゃった~!」

「お前もろとも定周も、一生唐櫃からびつの角に小指をぶつけ続ける呪詛をかけてやろうか!」

「地味! じっみに痛いやつ! 地味にすっごい嫌なやつ!」

「そんなに地味なのが嫌なら、派手に散る桜の木に、派手に吊り下げてやると言ってるだろうが。ほれ、とっと手を放せ」

「ぎゃ~! この人でなし~!」

「半分化生だからな」

「そこじゃない~!」


 長押にすがりつく玄月の指を一本、一本、春明が優しく外しにかかるのに合わせて、縄がぐいぐい足を引く。今にも桜の枝にぶら下げられそうで、玄月は大仰に悲鳴をあげた。


 春明邸の普段の静寂が嘘のようだ。玄月が姿を見せるだけで、この邸はとたんに騒々しくなる。


 仲良く争う主たちをよそに、渡殿わたどのの向こうからするりと現れ出た女房姿の式が、空になった酒器をそっと下げ、代わりに次のものを置いて去っていった。いつもの騒ぎだ。取り立てて、彼らが務めを変える必要はないのだろう。


「も~、本当に、こう加減をさぁ……。え? なんか痕残ってない? これ。平気?」

「お前の足首など誰も見んだろ」


 ひとしきりやりあったあと、なんとか逆さづりは免れた玄月が、足首をさするも、春明の答えはつれない。見向きもせずに、縄が戻った符を懐に、新たに運ばれた酒を自ら注いで飲みだした。


 薄情者めと軽くののしりつつ、玄月は乱れて顔にかかった髪をかき上げる。はずみで、絡んでいた花弁が数枚、はらはらと零れて、風に舞っていった。簀子の上で騒ぎまわっていたせいで、そこに散り落ちていた花びらがついてしまっていたのだ。


「しかし、噂の件は甚だ遺憾だが……此度の件はひとまず決着を見た、ということにはなったわけか」

「一応はね。化生は消え、慶長殿は怪異解決の貢献者となり、定周殿は私的な満足感を味わった」


 しれっと、何事もなかったように春明が回してきた杯を、やはり同じように取って答えつつ、「でも」と玄月は言葉をついだ。


「結局今回も、あの勾玉のことは、よく分からずじまいのままだ」


 化生に力を与える、美しい瑠璃色の勾玉。今回でついに六個目となったが、いまだその正体はようとして知れない。


「あれは、なんなんだろうねぇ……」

 ぼやく玄月の声音が、いつになく悩ましげに翳る。それも無理なからぬことだろう。ただの勾玉と見過ごせるはずもないのに、これほど集まっても、何の情報も得られないままなのだから。


「勾玉のことはまだ不明だが、あの化生、末期の瞬間、確か『安寧を』といっていた」

「安寧かぁ……なんというか、化生としては、らしからぬ発言かもね」


 化生は本来、騒乱を好む。その方が人の情が乱れ、彼らが糧とする《澱み》が増すからだ。


「どうも奴は女童めのわらわの姿に執着を持っていたようだからな……。ともすると、最初は内裏のうちにくすぶっていた幼子か、その親の嘆きの《澱み》が種となって、あの勾玉により育てられたのかもしれない。得られぬ安寧を求める化生として、な」

「なるほどね……。でも、仮に奴の正体はそうだったんだとして、さ。誰が育てたって話になるよね」


 化生は自然と《澱み》から生じ、育ちゆくモノだが、あの勾玉は違うだろう。あれは、自ずと生れるものではない。誰かが意図して作り、そして、与えたとしか考えられなかった。

 より強い化生となるように。より歪んだ怪異となるように。


「誰が、か……。そうだな。さらに疑問が増えるだけ、か。誰が、どうやって、なんのために――」

 言いながら、春明はどこか胸の奥に妙なざらつきを覚えた。

 あれと近いものを、いつかに見たことがあったような――そんな心地が、一瞬――……


「やめよ、やめよ。少なくとも今はやめよ、せっかくの花が曇る」

 沈みかけた春明の思考を、玄月の声が断ち切った。

「今は花を楽しもう。鮮やかで、最高の散り際だよ」


 相変わらずいい加減な、と呆れつつ、酒の場では彼の言い分の方が似つかわしいかと、春明も思い直す。

 好きだという言に違わず、化生を虜にする射干玉は、すでに桜の花に執心の様子だ。

 惚れ惚れと花吹雪を眺めやる横顔につられるまま、春明も庭の桜へと視線を移した。


 確かに愛でもせずにひっそり咲かせて終わらせるにはもったいない美しさだ。玄月が邸に上がり込むようになってからは、なんやかやと毎年花見が催されているが、それ以前はひとり散るだけの花だった。惜しいことをしていたものだ、と素直に春明は感じ入る。


「――来年は、無逸むいつ子遠しえんも呼ぶか」


 思わず、共通の友人の名が転がり出た。玄月と出会ってから、何かと彼に巻き込まれるうちに、親しくなった数少ない友と呼べる者たちだ。

 まだこの桜を、彼らに見せたことはなかった。それを見せたいと思えるなど――この邸の内に誰かを招き入れようと考えるなど――ずいぶんと、自分も変わったものだ。


(それも、すべて――……)


 君の孤独の良き友に――そう、記憶のうちに蘇ったのと同じ声音が、軽い調子で隣で跳ねる。


「お? いいね、積極的。連日どんちゃんしちゃお!」

「連日はせん。どんちゃんもするな」


 前向きな姿勢に気を良くした玄月の提案を、春明は冷たく切って捨てた。

 すかさず上がった不満の音色とともに、薄紅の雨が一段と華やかに降り注ぐ。


 一陣、穏やかに吹きすぎていった風が、淡い紅色の花弁たちを引き連れて、青い空へと舞い上がっていった。




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