君と見る桜(1)



 自邸にあるはずのない人の気配に、春明は眉を顰めた。


 春明の邸には、家司けいしや女房はおろか、雑事を担う雑色ぞうしきもいない。少年の頃は師の邸に住み込んでいて不要であったし、青年となり己が邸を構えてからは、式神がすべてをこなしてくれる。己が出自を思えば、生活のうちに他人に踏み入られるのも迷惑で、一切雇入れなどしていなかったのだ。


 広い邸のうちは、彼ひとりであるはずだった。それがどうして、こうも紛いようなく、邸内から琵琶の音色が響いてくるのだろう。

 音を辿れば、堂々とした闖入者は、母屋たる寝殿の北面の簀子に、のんびり腰を下ろしていた。


「・・・・・・何をしている?」

「花見?」


 かかった声に驚きもせず、撥を持った手がつれづれに弦を弾いて、春明を振り仰ぐ。さすがにもう女官の姿ではなく、淡紅の簡素な布衣ほいだが、相変わらず長い髪は結びもされず、少し線の細い背に、女人のように流されていた。傍らには酒と肴。持ち込んだのではなく、ここで用意されたものらしい。


 式神は役目に純粋だ。主の不在に気を利かせ、すっかり顔馴染みとなったこの男を、疑いなく客人として案内し、素直にもてなしてしまったのだろう。しかも、この男がここで桜を眺めるのは、何も今年に始まった話ではない。式神らにとっては、毎年の習い、というわけだ。


 春明は深い嘆息を落とした。

 だが、気にせぬ声は暢気なものだ。


「愛でる者がいないのがあわれでね。今年もこうして訪いに来てやったんだよ」

「見る者がいないわけじゃない。ここしばらくは、例の内裏の化生の後始末で、戻れていなかっただけだ」


「それは可哀想に。官人は大変だ。でも桜の盛りは短いからね。放っておくと、すぐ葉だけになるよ。こと、このあずまの方で見つかった薄紅の種は、散りだしたらあっという間だ。そこが潔くて華やかでいいけどね」

 隣に座り込んだ疲労のうかがえる直衣姿に、もてなされた杯を勧めながら、玄月の視線はゆるりと満ち足りた様で桜を眺めた。


「毎年思うけど、君、よくぞ趣味よくこいつを植えてくれてたよね」

「この地に元からあった。私は梅の方が好ましいが、まあ、桜も悪くはない。わざわざ伐るものでもないだろう」

「君が賢明でなによりだったよ。俺は、桜の方が好きだからね」


 戻ってきた杯に、玄月は微笑む口元を寄せる。その心地よげに細められた視界に、眩く薄紅の雨が過っていった。まさに、いまが最期の花盛りだ。


 風に舞い遊び、杯のうちへ迷い込んできたひとひらを、指先で柔らかに掬い上げながら、玄月は問う。


「それで、戻れたということは、事はひと段落ついたのかい?」

「ひとまずは、な」

 さかな唐菓子からがしに手を伸ばしつつ、春明は頷いた。


 姿を消した女房たちの躯は、骨と衣ばかりとなって、清涼殿せいりょうでんの庭の片隅で見つかった。攫った片端から、すぐさま喰らっていたらしい。残念ながら、無事に戻れた者はひとりも出なかった。


 だがそこは、無念ではあるが、春明としては予測の範囲内だ。

 問題であったのは、見つかった場所が清涼殿ということだった。


 死の穢れは、もっとも忌まれ、嫌われる。その穢れが、大樹帝が日々の暮らしを送る清涼殿に、あまた放り棄てられていたのだ。当然のように、多くの殿上人てんじょうびとは恐れ、凶事の兆しと慄いた。不吉であるゆえ、いまの殿舎を壊し、新たに作り直すべきだという案も出たほどだ。



「それを大樹帝がいまのままで構わないと仰ってな。殿舎の新造は、民をいたずらに疲弊させるだけになる。穢れを祓えばそれで十分だ、とな」

「さすが、聖帝と名高い当代だ。下々を慮ったご高配」


 讃えるように玄月は杯を掲げた。そのままそれを半分空けてから、春明へと手渡す。


「まあ、それはその通りだが……」

 残った酒を杯の内で弄びながら、春明は眉をしかめた。土の質感が残る素焼きの粗い目の上で、濁り酒が甘い香りを放って揺れる。


「そのため我々はじめ、高位の神官、神職まで呼び出され、昼夜を通して祓い清めの儀礼大会だ。おまけにこちらは藤壺周りの穢れ祓いの祭儀も行わされてな。しばらく内裏を出るのも叶わなかった」


「それはそれは、お気の毒様。相変わらず、宮仕えってのはご苦労なことだ。俸禄の分、しっかり苦労を味わっておくれ」


 鮮やかな黒の瞳は楽しげに細まって、他人の不幸を気楽に笑った。非位非官は寄る辺なさを嘆かれることが多いが、こういった宮中の祭儀に駆り出され、酷使されずに済むあたりは、羨むべきところだろう。おおやけに縛られぬ呑気な男を横目でにらみつつ、春明はぐいっと一息に杯をあおった。


「結局、藤壺中宮は里下がりされることになったしな。どうせ不在となるなら、あの念入りな祓いはなんだったんだ……!」


 激務を強いた中宮の父、慶長への憤りは、いまだふつふつと消えずにあるらしい。眉間の皺を深める春明に、まあまあと酒を注ぎながら、玄月は空いている手で掴んだ春明宅の唐菓子を、遠慮なく大口に放り込んだ。


「あんなことがあった後だ。宮中に留め置きたくないというのも仕方がないさ。他にもなにかと理由をつけて、里下がりする女御ばかりらしいじゃない? 桐壺皇后も、ご懐妊の件もあったし、予定より早く里下がりされたよ。少納言殿のことが堪えているようでね。その思い悩みようを、定周殿がいたく心配されたってのもあるけど」


「お前が卜占ぼくせんで、此度は男宮だと占ったのもあるだろ。何か事があっては、と思うのも当然だ」

「断言はしてないよ。『かもね~』ぐらいの調子を、ちょっと堅苦しい感じで伝えただけ」

「『かもね~』でも十分だ。定周は腹の御子に家運をかけるつもりなんだろ」

 酒の残る杯を渡しつつ、思い出された労苦に、春明はまた重い溜息をついた。


「お前の卜占の話を漏れ聞いてからしばらく、慶長が荒れて実に面倒だった……」

「ああ、あれねぇ。どこから漏れたんだろうね。基本的にどこでもひとりふたりは、口の軽い女房がいるから、そのあたりかなぁ。『ここだけの話』ってので、みんなに知られちゃうやつ。広まったと知って、こっちも大変だったんだよ。主に定周殿が。君に呪詛られたらまずいって大騒ぎで」


「そう言いつつ、どうせお前、その対策をあれこれ神妙な顔で進言して、暴利を貪ったんだろ?」

 春明がじとりと胡乱な視線を隣に流すと、からりとした声が「はっはっはっ」と高らかに笑った。否とも是とも言葉にはしていないが、それが答えだ。


 ふたりが酒を酌み交わす仲だと知らぬ者には、春明は慶長側の陰陽師に他ならない。それも、都随一と箔までついている。『安倍春明の呪詛』という響きは、さぞ恐ろしいものだったに違いない。いかほど報酬を巻き上げられたのか、春明は定周への同情を禁じえなかった。


「ま、定周殿は妹可愛さに聞く耳を持てなかっただろうし、あえて言う必要もなかったから、伝えはしなかったんだけどさ。もし君と俺が外面通りの関係だったとしても、俺は呪詛の心配はないと思ったよ。慶長殿は強引だが愚かではない。大樹帝の寵姫の子、まして初めての男宮となる可能性のある腹の子に、下手な手出しをしたりはしないだろう。むしろ、桐壺皇后やその子を呪詛したって噂される方を嫌がって、そっちを潰していきそう」


 当代の大樹帝の御子は、まだ皇后腹の姫宮ひとりしかいない。その姫宮も、慶長への憚りがある中で、大樹帝がたいそう可愛がっているのは誰もが知ることであった。


「それはその通りだが、一方で、男宮でなければよいと願う気持ちが誰より強いのも事実だろう。それこそ、胸に抱いているだけで、呪詛となってしまうほどにな」


 強い思いは、陰陽の術などに頼らずとも、時に力を帯び、《澱み》と変わり、呪いとなる。


「いまのままでは、姫宮の後ろ盾である定周たちが、力を盛り返す見込みはほとんどない。しかし、大樹帝は姫宮を大切にしておられる。これから生まれる御子も、同じように思われるだろう。そんな大事な宮たちの健やかなる成長と、安寧な行く末を望むなら、他に候補が現れないうちに立太子させ、早々に譲位を……とお考えになってもおかしくはない」


「それはまぁ……そうだろうねぇ。即位しても、先代のように早々に追い落とされることもあるから、安泰とは言い難いけどさ。とはいえ、一度でも大樹帝の位にあった相手は、藤氏といえども、そう無下にはできない。その血縁で同母たる姉宮も、ね。ただの内親王や親王として生きていくよりは、ずっと安心だ」


 治天の君たる大樹帝の娘に生まれたとて、その先行きに暗雲が垂れ込めないとは言い切れない。いつぞやの御代にも、姫宮が攫われ、そのまま大路に打ち捨てられて、死肉を犬がむという出来事があったそうだ。


「いかなる身に生まれようと――とかく、この御垣の世は生きづらい」

 薄紅の唇が、歌うように微笑んで、酒へ口づけた。

「楽しく生きるのも一苦労だ」


「お前の楽しくは、どこか刹那的だがな。改めろ」

「言いがかりだなぁ。明日を渇望するからこそ、今日を面白く生きると決めている」


 釘を刺す春明に笑って返した指先が、己が前髪についた花弁を風へと離した。くるくると踊りながら、それは柔らかな青空へ、華やかに昇っていく。


「どうせいつ死ぬともわからないなら、いまが楽しければいい……っていうのもありだけどさ。それは結局、つまらぬ世と憂いて、明日を望めなくなるのと大差ない。俺は、死の瞬間、この楽しい日々があともう一日欲しかった、と思えるように生きてく方がいいんでね。楽しさの消費ではなく、持続と貯蓄を心がけてる。今日の花見だってそうさ」

 怪訝に見やる春明の手に杯を握らせて、玄月は唇に鮮やかな喜色を纏った。


「また来年もこうして君と花の盛りを楽しみたい――俺にとっては、そう思える時間なんだけどね」

 薄紅の花が、のどかな春の光に眩く輝き、雨と散る。


 人の邸に勝手に上がり込み、無断で飲み食いし、悠々と厚かましく、この男はまた同じことをしたいと言う。

 春明は頭を抱え――溜息と同時に、手の杯を玄月の前に突き出した。


「……来年こそは事前に報せろ」

「善処しま~す」

「その程度確約しろ!」


 誤魔化すように酒を注ぎながら、まったくその気のない返事を寄越す男を春明は𠮟りつけた。


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