冬の最中の出会いはきらめいて

前編

 緊張しないよう、鏡の前で色々と表情を作ってリラックスを心掛けた。このあとデートでもないのに、少しのお洒落・着飾りをして、街に出掛ける。どうしても外せない用事だった。初めて行く街ではないけれども、だいぶ久しぶり。だからネット上で調べて、何度か脳内リハーサルをしておいた。

「送っていかなくても大丈夫?」

 母がそう言ってくれたけれども、断った。もし頼んだら、そのまま最後まで着いてくると言い出しかねない。母からすれば私はまだまだ子供かもしれないけれど、さすがに親同伴は願い下げ。恥ずかしくて、かえって緊張してしまいそうなのよね。

 もちろん断る理由として、そんなことは口に出さない。幸か不幸か今は国政選挙の終盤戦。どこもかしこも気ぜわしくてうるさいけれども、都会に出ればより顕著になる。選挙カーだってたくさん行き交っているだろうから危ないわ、ってね。

 母は納得した。ただし、「だったらあなた自身も充分に気を付けなさいな」と注意喚起するのを忘れなかった。はい、肝に銘じておきます。

 身だしなみを整え終わると、最後に交通機関に遅れが生じていないことを再確認。うん、大丈夫。何しろ、大切なイベントだから。

 玄関ドアを開けると、外の空気はまだ冷たいものの、ここ数日よりは随分ましだ。

 暖かな陽射しにふと見上げると、青空に雲がぽつん、ぽつんと適度に浮かぶ。お出かけ日和だ、幸先がいいと思った。


 バスと電車、地下鉄を乗り継ぐことおよそ二時間。予定通りに、最寄り駅へと降り立つことが出来た。

 これまた前もって調べておいた出口に向け、歩を進める。途中、人があんまり行き来していないので、こっちで大丈夫なのかなと不安にならないでもなかったけれども、じきに解消された。地上に達してみれば、そこら中で大勢の人や車が忙しそうに動き回っている。騒がしいのは好きじゃないのに、このときばかりは騒音にほっとする。

 地上に出たところで、方角を定めるのに少し迷う。確証が持てないので、地図で改めて確かめよう。二度ほど顔を上げ下げし、食堂や外国語教室の名称が、現実と地図上で一致を見た。よし、こっちだ。

 ここから徒歩で十分もかからないはず。遅刻は完全に避けられた。時間が余るくらいだ。近くの書店か古本屋に入ってみたい気がするけど、どうしよう。仮に着くのが早すぎても、待つスペースはあると聞いているので、早く行って雰囲気に慣れておく方がいいだろうか。

 わずかな逡巡を経て、目的地を目指そうと決めた。初対面になる人とも早めに会って、出来ることなら仲よくなりたい。

 車道沿いにしばらく直進する内に、古書店が一つ、視界に入ってきた。大型チェーン店ではなく、個人がやっているに違いない、古びた小さな店舗。古書店とか古本屋ではなく、“古本屋さん”と呼ぶのがふさわしい感じ。どんな品揃えなんだろう、前を通り掛かるときにちらっと見てみよう、ううん、それをしてもし私の好みにぴったり重なったら、足を止めてしまう。ここはなるべく目をそらし、前を向いたまま……。

 そんなことを考えていたら、くだんの古本屋さんから人がひとり出て来た。横顔がちらっと見えただけだけど、かなり若いみたい。私と同じくらい? 学生服でもおかしくないのに、やや明るみのあるグレーのジャケットを着こなしていた。足元も茶系統の革靴で、これから女の人とデートなんだろうかと思わせる。

 すでにこちらに背を向けて、私と同じ方向へ歩き出していた。と、左の小脇に茶色くて四角い紙袋を抱えているのに気付く。多分、新書サイズの本だと思う。お店の人ではなく、十中八九、古本屋さんのお客さんで間違いない。何となく急ぎ足に見えなくもない。

 もしかすると、あの人も時間を潰すためにあのお店に入ったのかな。それで思い掛けず、探していた本か好みの本を見付けて、即購入。はっと気付いたら、デートの待ち合わせ時間に遅れそう。急いで店を飛び出したところ――だったりして。まあ、ぱりっとした格好なのに、本を抱えてそのままデートというのはおかしい気もする。適当な手提げを持っている雰囲気もないし、まさかコインロッカーに入れるとか?

 などと妄想を膨らませて物語を作っていると、前を行く人の歩くスピードが落ちた。遅くなったと言うより、普通のペースになったって感じがする。

 急いでたんじゃなかったのかしら。まさか万引きしたようには見えないから、古本屋さんから急いで遠ざかりたかった訳でもなさそう。

 となると、どんなことが考えられるだろう……。空想の物語が広がっていくのは、何とも言えず楽しい。

 そう、たとえば、私はよく見なかったけれども、さっきの古本屋さん、実はアダルトなものが主力商品で有名なところだったりして。そんなお店で私と同じぐらいの年頃の音子の人が、アダルトな本を買ったとしたら、一刻も早く店を離れたいと思うものなのかもしれない。年齢確認をごまかしてクリアしたなら、なおのこと。制服を着ていないのも、そのためだった。

 ……うーん、辻褄は合うような気がしてきた。けれども、私好みの物語ではないわ。少なくとも、登場人物が男の人ひとりだけだと無理。ここは女の子も登場させて、コメディっぽくしたいところね。

 さて他に考えられるとしたら……と周囲に視線を巡らせた私は、正面のビルの高い位置に、電光表示のデジタル時計が光っていることに気が付いた。

 ひょっとしたら、あの男の人は時計を持って来ていない、忘れてきたのかもしれない。時間つぶしに入った古本屋さんでも、つい夢中になってどれだけいたのか分からなくなってしまった。とにかく買い物を済ませ、急いで往来に出て、早歩きをしながら時間の分かるものを探す。そして大きなデジタル時計が目に留まり、待ち合わせまでは余裕があると分かった。その途端に歩く速さを緩めた――こっちの方が好みだわ。自分の作品に使うとしたら、まずはこっちを優先して考えようっと。ま、時刻を知りたいのなら、まず古本屋さんのご主人に尋ねるべきところを、どうしてそうしなかったのかという理由付けが必要になるかな。

 物語の端緒が出来た。前を行く男の人の背中を見つめ、ちょっとした感謝の念を送る。

 それからほんの三十秒ほど経ったとき、男の人が何かを落とした。ジャケットの下、見えなかった尻ポケットからはみ出てしまったらしい。そしてそのことに男の人は気付かないまま。心なしか、ここに来てまた歩みを早めたような気がした。

(あ、あのっ)

 ただでさえ、往来で声を出すのは苦手だ。でも、がんばってみた。一度、頭の中でリハーサルをしてから口を開く。

「あの、何か落とされましたよ?」

 男性を呼び止めようと、それなりに声を張ったつもりだった。けれども、折悪しく選挙カーが通り掛かった。スピーカーを通じて流れ出る、感情がこもっているんだかいないんだか分からない決まり文句の繰り返しに、私の声なんて簡単にかき消される。

 そうこうしている間に二十メートルほど先を行く若い男性は(私にとってタイミングの悪いことに)角を折れ、ビルの影に入ってしまった。見失わないように追い掛けたいところだけど、人目を憚らず走るのはあんまり好きじゃない上に、今日に限ってややヒールの高い靴を履いてきている。正直言って、さほど履き慣れていない。

 その前に、落とし物を放ってはおけない。まずは拾っておくことを最優先にした。青色をしたその平べったい物体、遠くからだと運転免許証かなと想像していたが、近付いてみたら違った。生徒手帳だ。やっぱり、学生だろうという私の見込みは外れていなかった。

 その先の角を曲がれば何とか追いつけるだろうから、中身を見る必要はない。そう、見るつもりはなかったのに、拾い上げるときに弾みで最初のページが開いてしまった。顔写真と名前が目に留まる。

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