羅針盤にまつわる話

胤田一成

羅針盤にまつわる話

 へえ、旦那様は随分ずいぶんの目利きの持ち主でございますね。その羅針盤にお手を伸ばすとは――中々、どうして、立派なもんでございますなあ。

 ただ、お気の毒さまですが、この羅針盤ばかりは、お譲りするわけにはいかないのです。ほら、この通り、針が狂っております。ええ、北を指すことも、南を指すこともありません。ぐったりとしていて役に立ちやしません。

 確かに見事な意匠いしょうではございます。アンテヰクという奴ですな。悠久の時を経た美しさというものがあります。しかし、なべて骨董こっとうと呼ばれる品には、「いわく」というものが付きまとう運命にあるようで――この羅針盤も御多分ごたぶんれずによくない噂がございます。

 ああ、丁度、雨が降りはじめたようですな。どうやら、その羅針盤に旦那様はご執心のようだ。その迷いを断つためにも、ひとつお話をしてみせましょう。

 その羅針盤は十八世紀ごろに、英国の富豪が特別に誂えさせた逸品だと聞き及んでおります。銀細工を巧みに用いた豪勢ごうせいな仕掛けで、今でこそ、こうしていたんではおりますが、職人に磨かせれば、立派な輝きを取り戻すことでしょう。

 しかし、先ほども申し上げたように、その羅針盤は狂っております。ほら、ちょっとだけ、この角の所が欠けているのが見えましょう。以前の持ち主が、この羅針盤を地面に叩きつけた際にできた傷でございます。それ以来、ぐったりと針が止まったまま、というわけです。

 えっ、その持ち主が宝物ほうもつそこなわせた理由が知りたい?

 へえ、特別にお話いたしましょう。というのも、その理由こそが肝心かんじんなのでございます。この羅針盤が壊されてしまった経緯いきさつを知れば、旦那様の心持ちも変わり、この品物のいやらしさを感じていただけるだろうと――。

 ハハハハハ、世の中には品物を押し付けない商売人もございます。いや、品物の正体を熟知していればこそ、安易には売れないという場合も多いのです。何も知らない相手に、何も知らない品物を押し付けるなんて、ゾッとする話ではありませんか。

 いや、お話がれてしまいましたな。この羅針盤の持ち主も、たいそうな大金持ちの家の御子息ごしそくでございました。東京の大学で天文学をおさめようとしていらっしゃったとか。青白いひたいをした学生さんで、すこやかな感じはしない方でしたね。

 きっと、あれはもとより気がまどうていたのでしょうなあ。初めは蔵から珍しい品が見つかったと喜んでいらっしゃったようですが、徐々に様子がおかしくなってきましてね。

 この羅針盤を手に握って、白昼から町の大路おおじ彷徨さまようようになりました。何やらブツブツとつぶやいて、他所様よそさまと肩が違ってもかまいやしない。ついには目を血走らせながら町中を駆け回る始末しまつです。全く、あれは狂人の沙汰さたですな。

 そんな折のことでございます。そろそろ、店をしまおうとしておりましたところに、その学生さんが大通りを駆けてやって来ましてね。いきなり、手にしていた羅針盤を地面に叩きつけたかと思いきや、ヒステリヰを起こして卒倒そっとうしてしまったのです。

 無論、私は学生さんを介抱しました。しばらくして、彼は気を取り戻しましたが、同時に私の胸倉むなぐらつかんで何やら奇妙なことを訴え始めました。彼が正気を失っていることは有名でしたので、私は無闇矢鱈むやみやたら仰天ぎょうてんしてしまうばかりで、最初は何を言っているのか分からないほどでした。

「この羅針盤を買い取ってくれ。じきに冥王星から使者が来る。これは信号を送っていたんだ。あいつは僕の脳を狙っている!」

 ええ、私は彼から羅針盤を買い取りました。全く、商売人とは強欲な生類しょうるいでございますなあ。意匠いしょうを一目見ただけで、この羅針盤が欲しくてたまらなくなった。私はこれを五銭で買い取りましたが、今となっては三銭出しても欲しいとは思いません。

 針が止まっているからではございません。旦那様、信じてくださらないとは思いますが、この羅針盤はね、夜になると鳴くんですよ。

 はい、オギャアオギャア、と赤子のように鳴くんです。すると、窓の向こうから、ブブブブとはねこするような音が聞こえてくる。あれは、一体全体、何の音なんですかねえ。

 その学生さんがその後でございますか――。次の日に死んでいましたよ。ええ、この店の前で無惨むざんに切りさいなまれて冷たくなっていました。

 不思議な傷でございましたねえ。まるで、鋭い鎌で切り刻まれたかのような。大方、「冥王星の使者」とやらがあやめたのでございましょう。アハハハ。

 あれ、旦那様、ご気色けしきが優れないようですね。これでも、この羅針盤が欲しいですか?

 アハ、アハハハ。いいえ、私は正気でございます。全部、本当のお話でございます。本当だから、恐ろしいのはありませんか。

 それでも、欲しいとおっしゃるなら、お譲りしましょう。おや――、もうお帰りですか。それもようござんしょ。それでは、さようなら。


                                                    〈了〉


(一九四一字)                         









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