第10話 業務時間外

翌日 18:45

仕事帰りの菫は悩んでいた。

(昨日来たのに今日も来ちゃった…しかも業務時間外…)

蓮司のアトリエのドアの前に立った菫の手には猫グッズが入った袋が握られていた。

「何してんの?」

「きゃ!」

後ろから声をかけられて驚きの声をあげてしまった。

「一澤さん、中にいるんじゃないんですか!?」

「買い物。入れば?」

「おじゃまします…」

菫がアトリエの中に入るといつも通りの室内で、猫がいる気配が無い。

「猫は…?」

菫の表情を見て、蓮司は不安を感じ取った。

「あー…あの子猫ね。病院に行ったら迷子の貼り紙があって…」

菫の表情が曇った。

「そうですか…もとの飼い主さんのところに戻れたなら良かったですね…。」

———ふっ

菫のしょげる様子を見て、蓮司は笑った。

「嘘だよ。迷子の情報にもいなかったし、病院行ったら虫だらけだったから野良だよ。いろいろ買いに外行ってたから奥でケージに入ってる。」

蓮司が奥からケージを持ってきた。

「じゃあ、飼うんですか?」

「うん。本当はもう猫…っていうか生き物は飼わないつもりだったけど。」

「良かったねー!」

菫がケージの中でタオルにくるまった子猫に話しかけた。

「スミレちゃんがこんなに喜んで会いに来てくれるなら飼わないわけにいかないでしょ。」

「あくまでこの子に会いに来たんです!」


「今日、会社大丈夫だった?」

蓮司が聞いた。

「…はい、猫の話してたらなんか大丈夫でした。といっても私も社長も外回りだったので、あんまり顔合わせずに済んじゃったんですけど。」

「そっか。ならとりあえず良かったね。」

(昨日のこと、責任感じてるのかな…一澤さんて意地悪なのか優しいのか、よくわかんない…)

「…昨日、聞いてもらって…少しすっきりしました。」

菫の言葉に蓮司は驚いた表情かおになった。

「…なら良かった。」

そう言って優しく微笑んだ。

「あ、な、名前!どうするんですか?」

菫は照れたように、すぐに違う話題を振った。

「こいつの?」

菫はうなずいた。

「スミレ。」

「え!?絶対やめてください!!」

「に、しようかなって一瞬思ったけど、そんな感じの反応になるだろうと思ったから違うの考えた。」

蓮司は笑って言った。

「スミレってSmileとも書けるし、こいつが来てスミレちゃんが笑ってくれたから…スマイリーって名前にした。」

「スマイリー…」

菫は子猫の顔を見ながら声に出してみた。

———ミャア

「かわいい!スマイリー!」

菫はふふっと微笑んだ。


翌日も次の日も、また次の日も、菫はスマイリーのことが気になって毎日仕事帰りに蓮司のアトリエに来てしまった。

「そんなに毎日来るならもうここに住めば?」

蓮司が苦笑いで言った。

「だって…気になる…」

「ムカつくなぁ、スマイリーばっか。家主は俺なのに。」

蓮司はスマイリーを抱えると、軽くにらむように言った。

「スマイリーに意地悪しないでください!」

「するわけないじゃん。」

そう言って、蓮司はスマイリーにキスをして床に下ろした。その仕草に菫は少しだけ色気のようなものを感じてしまった。

「絵の色が明るくなりましたね。」

蓮司が今描いている絵を見て菫が言った。

「スミレちゃんて本当によく見てるよね。」

「スマイリーが来て良かったですね。」

菫が無邪気な笑顔で言うと、蓮司は小さく鼻で溜息をいた。

「スマイリーがいるのは確かに楽しいけど、本当にそのせいだと思ってる?」

蓮司が急に真剣な眼差まなざしで菫を見据えた。

「…えっと…」

「そろそろ眼中に入れてくれてるかと思ってたけど。」

「……そ、そういう話は…契約違反…」

菫は目をらして伏し目がちに言った。

「業務時間外。」

「でも…」

———カリカリ…

何かを引っ掻くような音が聞こえた。

「え!?わぁ!スマイリーがキャンバスで爪研いでます!」

「え?うん、猫だから。」

焦る菫とは対照的に蓮司は平然と言った。

「猫だからって!作品!」

「いいよ別に。スマイリーが楽しそうな方がいいじゃん。きっとそのうち“これは大事なものだ”ってわかるよ。サクラも昔はそうだった。」

「え〜!」

(猫に甘い…)

「にしてもスマイリー、いつも俺の邪魔するよな〜。まぁ、前ほど鈍感じゃなくなったみたいだから進歩したかな。」

蓮司の言葉に、菫の頬が赤くなった。

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