夢の潰え

 1922年6月、日本はシベリアからの撤兵を決定した。これに際し極東共和国との交渉を行うことになったが、その席にはソビエトの代表もモスクワから招かれることになった。しかし、のちに満州国の都となる長春で開かれた会見において、極東共和国の代表は一言も発言せず、議事を取り仕切ったのはモスクワの代表者であった。


 この長春会議は結局のところ何の合意にも至ることなく破談に終わってしまうのだが、いずれにせよ10月25日、日本軍は撤退を完了した。日本軍が去ったウラジオストクには極東共和国人民解放軍が入った。


 その直後に、極東共和国という形骸は用済みになった、とモスクワ中央部は判断した。11月13日から15日にかけて開かれた人民代議員大会において同国はソヴィエト・ロシア社会主義共和国連邦との合併を決議、16日、併合が行われた。ここに極東共和国という、一人の放浪者が夢見た自由の楽土は完全に潰えたのであった。


 その後のクラスノシチョコフについてもう少し語っておこう。彼はレーニンの政権のもと、新経済政策ネップの推進を担当する幹部となった。この時点では、レーニンの期待と信任もあり、彼はまだ自分に未来があると信じていた。


 彼の命運を最後に狂わせたものはレーニンの病であった。1922年5月、レーニンは最初の脳卒中発作を起こし、健康状態に致命的な打撃を受けた。このときはかろうじて回復したが、まもなく二度目の発作を起こし、そして三度目の発作によって完全に再起不能の状態に陥った。


 これによってソビエトの権力は、最終的にヨシフ・スターリンの掌中に収まった。レーニンが三度目の発作を起こしてから約半年後、クラスノシチョコフは突如として逮捕され、ボリシェビキを除名された。形式的な裁判が行われ、六年の禁固刑を宣言された。


 獄中で持病の肺炎を悪化させたクラスノシチョコフは療養のためクリミア半島に移され、そこで閑職を得た。彼は仕事熱心な人間であり、何もしない生活には耐えられなかったのである。やがて党籍に復帰し、モスクワにも戻ることができた。


 しかし、戻るべきではなかった。1937年、スターリンによる大粛清の嵐の吹き荒れるモスクワで、クラスノシチョコフはまた逮捕された。そして、反革命活動とスパイの罪といういわれなき罪を着せられ、11月26日、銃殺刑に処せられた。享年五十七歳であった。


 のち、フルシチョフによるスターリン批判が行われたとき、クラスノシチョコフに対する有罪判決は他の多くの人々とともに撤回され、表面的な名誉回復が図られた。だが、彼の墓がようやく娘ルエッラの手でモスクワに建てられたのは、ソ連崩壊を経た1992年になってからである。今もなお、保守革新いずれの勢力からも、彼の功績が取り立てて評価されるというような話は何もない。


 アレクサンドル・ミハイロヴィチ・クラスノシチョコフ。彼の夢の共和国が潰えてから、2022年11月16日、すなわち昨日で、百年が経過した。

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夢の潰え きょうじゅ @Fake_Proffesor

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