第33話 喧嘩

「三万三千五百円です」

「全然足りないじゃない」

 玲子さんが美由香を睨むように見る。やっぱり、一万円じゃ全然足りなかった。

「どうするの?」

「どうしましょ」

 しかし、美由香はまったく反省する様子もなく、おどけた調子で言う。

「もうしょうがないわね」

 結局、足りない分は玲子さんが出すことになった。

「へへへっ、悪りいな」

 しかし、そんな言葉とは裏腹に、美由香は全然悪びれたところがない。

「もう」

 玲子さんは心底呆れている感じだった。

「まあ、いいじゃん、うまかったんだし。うまかっただろ?」

 美由香は私と真紀の方を見る。

「うん」

 私たちはうなずく。確かにおいしかった。とびきり。

 外に出ると、辺りはすっかり夜の街といった様相に変わっていた。酔っ払いや、いい感じの人たち、そういったものを求める男と女たち、どこか怪しい夜の街の雰囲気がそこにあった。

「今夜泊まるところは?」

 玲子さんが美由香を見る。

「さあな」

「お金は?」

「あるわけねぇだろ。全部使っちまったよ」

「どうするの?」

「さあな」

「さあな、さあなって・・、私だってもうないわよ。お金」

 玲子さんが少し声を荒げて、美由香に詰め寄る。

「・・・」

 みんな黙る。その場に何とも言えない空気が流れる。

「美由香はいつもそう」

 玲子さんが怒りを滲ませ言った。

「なんだよ」

「計画性がないのよ」

 玲子さんは完全に怒っている。

「いつもあなたに振り回されてばかり」

「お前は完璧主義者だもんな」

 しかし、美由香も負けん気が強く即言い返す。

「でも、完璧過ぎて病んで、入院までして、それでお前はここにいるんだよな」

「えっ」

 美由香の言葉を聞いて私は驚く。初めて聞く玲子さんの病状だった。

「・・・」

 玲子さんは悔しさとも悲しさともつかない表情で口元を噛みしめていた。私は、そんな玲子さんの表情を見て心配になる。しかし、美由香はそれでもやめない。

「だけど、お前はプライドが高くて、病んでる自分が認められなくて、いつまでも未練がましく、昔の栄光を追いかけてんだろ」

 玲子さんの口元は震えていた。

「精神病んでんのに、病んでない振りして気取りやがって気に入らねぇんだよ。お前のその人を見下した感じ」

 美由香が玲子さんを上から怒鳴るように言う。その言葉に普段温厚な玲子さんの表情が変わった。

「病気を自慢しているあなたに言われたくないわね。あなたこそ強がっているけど、病気に逃げ込んでる弱い人間でしょ」

 通行人の多い繁華街。通り過ぎていく人々が大きな声で言い争う二人を見ていく。

「あなたは弱い人間だわ」

 美由香の核心的な部分だったのだろう。あの美由香が表情を変える。

「あなたは本当は弱い人間だわ。そうよ。あなたは弱い人間。病気の中にしか生きられない弱い人間なのよ」

 怒りにかられた玲子さんは畳みかける。すると、さっきまで明るさが嘘みたいに、美由香は、かわいそうなくらい、傷ついた暗い表情をする。初めて見る美由香の弱さだった。

「お前だって弱い人間だろ」

 美由香がぼそりと言い返した。その言葉に玲子さんも、表情を変える。玲子さんも傷ついていた。

「・・・」

 私たちの中に悲しい沈黙が漂う。

 悲しかった。弱い者同士、病んだもの同士、責め合い傷つけ合うなんて悲し過ぎた。そんなの惨め過ぎる。それは、堪らなく醜く悲しいことだった。

「やめてよ」

 堪らず私は二人の間に立って言う。 

「やめてよ。喧嘩なんて」

 私は泣きそうになっていた。喧嘩は嫌だった。せっかく、せっかく、みんなで楽しかったのに・・。こんなのすごく悲しい。悲し過ぎる。

 真紀も心配そうに美由香と玲子さんをオロオロと交互に見上げている。さっきまでの楽しい雰囲気は完全に冷めきっていた。


――幼い頃、私の両親はケンカばかりだった。やめて欲しかった。ケンカなんかしないで欲しかった。仲よくして欲しかった。両親の怒鳴り合う声を聞くだけで、堪らなく悲しく、幼心に傷ついた。「やめて」「やめて」ケンカなんかしないで・・――


 二人は口論をやめた。

「・・・」

 しかし、何とも言えない冷たく鋭いナイフがその場の全員の胸に突き刺さるような沈黙がその場に流れていた。今までが楽しかっただけに、その沈黙が辛かった。

「しょうがねぇ。あそこ行くか」

 その沈黙を破るように、美由香が言った。

「あそこ?」

 私は美由香を見た。だが、美由香は、それに答えることなく、一人歩き出していた。

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