第32話 寿司

「世の中には奇特なおじさまがいるもんだな」

 美由香が手に持っている一万円札をひらひらさせながら言う。

「なんか怪しいことしたんじゃないでしょうね」

 玲子さんが疑惑の目で美由香を見る。

「そんなことしてねぇよ。ただ、ちょっと、会話をしただけだよ。会話をね」

「なんか口車でだましたのね」

「なんでそうなるんだよ。善意だよ。善意」

「ほんとかしら」

「ねえ、何食べるか決めようよ」

 ケンカになりそうだったので、私は二人の間に入った。

「なんでもいいぜ」

 美由香が言った。

「・・・」

 しかし、いざ何を食べるかとなるとみんなすぐには思い浮かばない。

「とりあえず、歩くか」

 美由香が言った。

「うん」

 私たちはすっかり暗くなった空の下のネオンに光り輝く街を歩き始めた。

「・・・」

 街は夜の街へと変貌していた。そんな華やかな街を歩くと、様々な誘惑が私を不安にさせる。そこには、欲望とそれを最大に膨らませる装置としての熱気球のように膨張した享楽への魅惑があった。

 レストランの料理見本を見るだけで、私の喉はゴクリと鳴った。やっぱりどこまで行っても、食べ物や食事、飲食店は私を不安にさせた。

「・・・」

 でも、人間はたべることからは絶対に逃げられない。そのことが私のこれからをさらに暗澹とさせる。

「寿司食おうぜ。寿司」

 美由香が突然思いついたように言い出した。

「お昼にも食べたじゃない」

 玲子さんが言う。私もそう思った。

「あんな偽もんじゃなくて本物だよ。本物、本物の寿司だよ。ちゃんとした人間がちゃんと握ったさ」

 しかし、美由香はもう決まったみたいにノリノリだった。

「おっ、ここがいいじゃん」

 そして、ちょうど歩いていた駅前の飲食店街の中ほどに、立派なお寿司屋さんが現れた。

「なんか高そうだよ。大丈夫?」

 私が暖簾を見上げ美由香に言う。

「大丈夫だよ」

 だが、美由香はさっさと入って行ってしまう。

「・・・」

 みんな不安だったが、お金を出すのは美由香だし、仕方なく私たちも続いた。

「適当にお任せで握って」

 カウンターに座ると、美由香がノリノリで言った。

「はいよ」

 大将は威勢よく答える。

 出てきたお任せの握りの中から、美由香がいきなり大トロを口に放り込む。

「うまい」

 そして、その直後、美由香はうなるように言った。

「うまい、やっぱ違うな。本物の寿司は」

 美由香は、首をしきりにかしげながら言う。私もそれに続いて、その今まで見たこともない厚みと脂ののった大トロを口にいれる。

「おいしい」

 滅茶苦茶おいしかった。今まで、私は回転ずしかスーパーのお寿司しか食べたことがなかった。しかし、そんなものとは次元が違うレベルで全然違っていた。ネタの質、厚み、噛み応え、味、すべてが別次元に最高だった。

「うまうま」

 隣りの真紀も満足そうだった。不満げだった玲子さんもそのおいしさには、感心している。

「あっ、ビールね」

 美由香が給仕の女性に言った。

「ちょっと」

 玲子さんがたしなめるように言う。

「いいじゃん」

「調子乗り過ぎよ」

「大丈夫だよ」

 そして、ビールが運ばれてきた。

「お前も飲むか」

 美由香がビール瓶を持ち、私を見る。

「・・・」

 私は、戸惑いながらうなずいた。

「・・・」

 その注がれたグラスから透けて見える黄色い液体を私は見つめる。そして、恐る恐る口をつける。

 初めてのビールだった。すごく苦くて、全然おいしいとは思はなかった。何でこんなものみんなおいしそうに飲むのだろう。私には全然分からなかった。

「うまうま」

 しかし、隣りで真紀が、以外にもビールを普通に飲んでいる。多分、以前から飲んだことがあったのだろう。

「ちょっと」

 すると、玲子さんが真紀がお酒を飲んでいる姿に、眉間にしわを寄せる。

「いいだろたまには。病院じゃ飲めねぇんだから」

「そういう問題?」

「お前はいちいちマジメなんだよ。たまにはいいだろたまには」

「たまにはねぇ」

 しかし、全然納得のいっていない表情の玲子さんだった。

「うまうま」

 その隣りでは、自分のことなのに我関せず真紀はビールをガンガン飲んでいる。

「大将、ジャンジャン握って」

 そして、美由香は、まったく悪びれることなく、調子に乗ってさらにお寿司を注文する。

「はいよ」

 大将は相変わらず笑顔で威勢よく答える。

「もう、本当に大丈夫なの?」

 玲子さんは呆れながら美由香を見る。

「大丈夫?」

 私も隣りから訊く。

「大丈夫だよ。だから、お前たちもガンガン食え」

「う、うん」

 不安だったが、しかし、やはりお寿司はおいしい。そのおいしさにいつしか不安もどこかへと吹っ飛んでいく。そして、さらに、霜降りのトロ、ウニ、いくら、高そうなネタが次々握られ、私たちの前に置かれていく。それを私たちは次々口に入れ、その至福を味わう。やっぱり、最高においしい。最高に幸せだった。

「ビールも飲め飲め」

 美由香が言う。

「うん」

 そして、少しずつ口をつけていくと、不思議となんとなくビールもおいしく感じられて来た。そして、何となくいい気分になって来る。これがお酒に酔うということなのか。初めての体験だった。

 なんだかすごく気が大きくなったような気がして来た。今まで常に不安と人の目が気になっていた私だった。私の一部にまでなり始めていたそれを感じない。なんて気持ちいいんだろう。そんな世界があることすら想像できないほど常に不安と視線に脅かされていた私に、この世界はすばらし過ぎた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る