第12話 暗い廊下の向こう
「さっ、上の病棟に行こうぜ」
美由香は、老齢者たちの病棟に飽きると、さっさと階段の方に歩いてゆく。この病棟にはあまり関心がないようだった。
「うん」
私たちも後ろに続いた。
三階に上がろうと、二階の入院病棟の奥へと入っていった時だった。
「あっ・・」
突然、目の前に、奥へと伸びる薄暗い廊下が現れた。
「・・・」
私は思わず立ち止まる。目の前に現れたその廊下は普通じゃない空気を感じさせた。何か独特な薄気味悪い雰囲気が漂い、見るものを圧迫する。
「この奥には何があるの?」
私は美由香を見る。
「北館」
「北館?」
「そう、この奥は、北館につながっているんだ」
「北館て?」
「別棟だよ。北側にある」
「・・・」
そういえばもう一つ北側に同じような建物があった。
「そこは、なんなの?」
「さあ、あたしも知らない」
美由香は肩をすくめ両の掌を上に向けた。
「えっ」
「行ったことないんだ」
「・・・」
美由香は、ロックがかかっていても、次々突破してどこへでも行ってしまうが、その美由香ですらが行けない場所なのだろうか。
「この先にエレベーターがあって、そこで一回地下に下りるんだ。そして、地下道を歩いて、またエレベーターに乗って北館に上がる。地上からは行けないようになってる。ここしか道がないんだ」
「・・・」
なんでそんな手の込んだことになっているのだろうか。何かは分からないが、うすら寒い不気味なものを感じた。
「なんでそんな」
「さあな」
「何があるの」
「玲子お前知ってるか」
「知らないわ。何も」
玲子さんも首を横に振る。
「まあ、一つ分かっていることは」
美由香が再び口を開く。
「うん」
「北館に行ったら終わりってことだな」
「終わり?」
「ああ、って言われてる」
「・・・」
私はもう一度廊下の先の暗い空間を見つめた。そこは飲み込まれてしまいそうな、何か不気味なブラックホールの入口のような不穏さが漂っていた。
「ここはやばいぜ」
美由香はどこか楽しそうに私を見た。私たちは別棟の三階奥へとやって来た。
「楽しいぞ」
「・・・」
確かになんだか雰囲気が違う。
「何なの・・?」
恐る恐る私は美由香に訊く。
「ふふふっ」
しかし、美由香は不敵な笑みを浮かべただけで、そのままさらに奥へと入っていく。
その時、私の横を身長が二メートルはあろうかという、海坊主のような大男がぬぼーっと通り過ぎて行った。頭は丸坊主で、肌の色が死んだ人みたいに白かった。そして、やはり、目がこの世界を見ていなかった。
「・・・」
私はその人を目で追いながら、何とも言えぬ恐怖にかられる。
「大丈夫?美由香」
私は怖くなって美由香の背中に声をかける。
「ここは気違い病院だぜ」
しかし、美由香はそんなの当たり前だろと言わんばかりに言う。
その時、ふと廊下の脇に目が行った。そこには長椅子が置いてあり、そこに一人の女性が座っていた。だが、その女性は、正確には老婆は虚空の一点を見つめたまま固まっている。完全にあちら側の世界に行っている目だった。口元からはよだれが流れている。私はさらに怯えた。
「いわゆる廃人てやつだな」
美由香がそんな私の視線に合わせてその人を見ながら言った。
「あれでまだ四十代なんだぜ」
「・・・」
私はこわごわもう一度、その人を見る。どう見ても老婆だった。頭のその乱れた長髪は真っ白で、顔のしわは濃い。そして、その目の奥は完全に何かのスイッチが切れていた。
「もう、行こうよ」
私は怖くて早くここから出たかった。
「ギャーッ」
その時、どこからともなく女の人の叫び声が聞こえた。
「何?今の?」
私も叫び出したいほどに驚き、背後の声のした方の部屋を振り向く。
「・・・」
しかし、中で何が起こっているのかは分からなかった。
「もう帰ろうよ」
私は美由香の腕をつかむ。私の恐怖は、限界まで来ていた。
「そうよ、帰りましょ。美由香。悪趣味だわ、他の病棟を覗くなんて」
玲子さんも加勢してくれる。
「大丈夫だよ。これからが楽しいんじゃねぇか」
しかし、美由香はまったく聞く耳を持とうとしない。
そこにまた、誰かが私たちの方に歩いて来た。それは長髪を後ろで束ねた、大柄でかなりがたいのいい男の人だった。
「・・・」
私はその人を見上げる。見るからに怖い人だった。見ると、半袖の腕からびっしりと描き込まれた刺青が見える。オシャレ目的のタトゥーとは明らかに違う、本格的なあちら側の人のものだった。
「美由香ぁ」
美由香の袖を引く。私はもう一刻も早く帰りたかった。すると、その男がそんな私たちの前に立った。そして、私たちを見下ろす。
「・・・」
その男の人は見上げるほどの高さだった。私の背筋は震え、その恐怖は絶頂に達していた。
「帰りたい・・」
私はただ、帰りたかった。一刻も早く自分たちの病棟に帰りたかった。
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