第5話 夕食

「摂食障害の子か?」

「えっ」

 私の順番が来ると、調理カウンターの向こうから調理のおばちゃんが、その重い瞼の下から覗く目で、ギロリと鋭く私を見た。

「は、はい・・」

 多分、私は一目でそうと分かるほど痩せているのだろう。その自覚はないがなんとなく周囲の反応と言葉でそれは察していた。

「じゃあ、あんたはこれだ」

「・・・」

 そこには極端に量の少ない、その料理の入っている器の方が妙にデカく見える器の並んだトレイが差し出されていた。

「これだけはがんばって全部食べるんだ。いいね」

「はい・・」

 医者や看護婦ではなく、調理のおばさんに叱られるように言われていることに少し違和感を感じながら、私はトレイを持って、窓際のテーブルに座った。そこは他のテーブルからは、ぽつんと距離の離れた席だった。

「・・・」  

 私は、目の前のトレイに乗っている食事を見つめた。やはり、食べるのが少し怖かった。わたしはちょぼちょぼと、ご飯を食べだす。

 だが、環境が変わったからなのか、久しぶりに普通にご飯が食べれた。少量のご飯に、お味噌汁。ポテトサラダに、ほうれん草のお浸し。魚の煮つけが一欠片。量も少なく、呆気なく食事は終わった。でも、こんな風に普通に食事を終えるのはどのくらいぶりだろうか。もう思い出せないくらいに、久しぶりな感じがした。

「・・・」

 食べ終わると、私はすぐに、来た時と反対に、廊下を自分の部屋へと戻っていく。食事が終わっても、お菓子を食べたいとは思わなかった。恐る恐る自分の中の欲望に意識を向けるが、やはり、あの強烈に私を支配する魔性のような食欲は湧き上がってはいなかった。

「ふぅ~」

 とてもほっとしている自分がいた。もうあんなことしなくていいんだ。久しぶりの感覚だった。私は常に食欲と戦い、そして敗北し、その敗北感の中で絶望し、自分を責め、追い込んでいた。私は心の底から安堵した。


 ――インスタントラーメン、スナック菓子、チョコレート菓子、菓子パン、アイス、とにかくジャンクな食べ物を大量に買い物かごに入れるだけ入れる。とにかく安くて、刺激的で、お腹が膨れるものを買えるだけ買う。

 二つの買い物カゴいっぱいに溢れんばかりに入った食べ物の山に、コンビニのアルバイトも少し驚いた表情を一瞬見せる。袋一杯に詰めるだけ詰め、パンパンに膨れ上がったコンビニのビニール袋を両腕に抱え、一目散に家に帰る。

 帰って直ぐに、お湯の沸く時間ももどかしく、インスタントラーメンを作り、菓子パンやお菓子の袋を開け、それらを端から一心不乱にかき込んでいく。スナック菓子やインスタントラーメンの化学調味料や添加物の人工的な刺激が脳天に何とも言えない快感をもたらし、菓子パンやチョコレート菓子の甘みが口の中に広がる度に、堪らない愉悦を感じる。

「ああ」

 一心不乱に食べている時だけ、心が安らいだ。嫌な事を全部忘れられた。私は呼吸するのも忘れ、次から次へと目の前の食べ物をものすごい勢いで口の中に放り込む。一瞬でも食べることを止めてしまったら、虚しさで壊れてしまいそうだった。私は休む間もなく食べ続けた。

 お腹がはちきれそうに苦しくなっても、食欲は次から次に湧いてきた。食べたい食べたい。その欲求はどうしようもなく、私を突き動かした。もう苦しくて食べたくないのに食べたくてしょうがなかった。太るから食べたくなかった。こんなバカげたこと、もうやめたかった。でも、食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。私は立ち上がった。そしてトイレへと向かう。

 お小遣いだけでは足りず、お年玉などを貯めていた貯金も下ろし、それも使い果たすと、私は母の財布からお金を抜き取った。いつもリビングの壁に掛けてある籐で編んだ籠に入っている母の財布を手に取り、そこから千円札を一枚二枚と抜く。こんなことはしたくなかった。母のやさしい顔が浮かぶ。でも、私はその千円札をポケットに入れた。

 私は便器に顔をうずめ、吐いて、吐いて、吐いて、どうしようもない罪悪感に苛まれながら、胃液にえずき、涙を流した。死んでしまいたかった。このどうしようもない、ダメな自分を消してしまいたかった。この愚かな自分をボタン一つで消去してしまいたかった。私は胃液にえずき、罪悪感に苛まれ、私は身も心ももうぐちゃぐちゃだった――。


 部屋に帰っても、特にすることもなかった。急いで荷物をまとめたので、暇つぶしになるようなものは何も持ってきてはいなかった。部屋にはテレビもラジオもない。スマホも取り上げられてしまった。

「はあ」

 ため息が出る。時刻はまだ七時にもなっていない。共有スペースにテレビはあったが、行く気はしなった。知らない人の輪に入っていくことが、私は極端に苦手だった。

「・・・」

 吊り目の子の顔が浮かんだ。あんな子ばかりなのだろうか。不安になった。これからここで一人やっていくことに、絶望的な恐怖を感じた。

「お母さん・・」

 心細かった。堪らなく心細かった。あんなに憎んでいた母の顔が浮かぶ。私は弱い。そう痛感した。

「よおっ」

「えっ」

 突然声がして、私は部屋の入り口を振り返る。

「あっ」

 あの食堂で私を助けてくれた髪の長い子がそこにいた。その子が、ドアを開けたその入り口の端から部屋を覗いている。

「お前、何?」

「え?」

 その子はそのまま勝手に私の部屋に入って来て、ぶしつけに訊いてきた。口元には人懐っこい笑みが浮かんでいる。

「何でここ来たんだよ」

 そして、その子は私のベッドの前に来ると、そこに大きくジャンプして座った。なんて無遠慮な子なんだろう。私は思った。でも、不思議と腹は立たなかった。それよりも、むしろ歓迎している自分さえいた。

「せ、摂食・・」

「ああ、摂食障害か。ははははっ」

 その子が笑ったことに私は少し腹が立った。

「はははっ、あ、悪い悪い。最近摂食障害系が多いからな、またかと思ってさ」

 それを察したその子は、すぐに笑ってあやまった。その笑い方は、やはり何とも言えない人懐っこさがあった。

「あたしは境界性人格障害」

 その子はどこか誇らしげに自分から言った。

「境界・・?」

「境界性人格障害。反社会性人格障害って診断されたこともあったな」

 その子はもう一度言った。

「聞いたことないか」

「はい」

「タメ口でいいよ。ボーダーを知らないとはモグリだな」

「ボ、ボーダー?」

「心の病気の中では最強の病気なんだ」

「最強?」

「社会に仇なす人格なんだと。ははははっ、まっ、ここにいればそういうことも自然と詳しくなるさ」

 その子は体を回転させ飛び跳ねると、ベッドにうつぶせに大きく手足を広げてベッドに倒れ込んだ。

「やっぱふかふかだな。個室のベッドは」

 その子は気持ちよさそうに布団に顔を埋める。やっぱり遠慮も会釈もない。

「ボーダー・・」

 私はそんな彼女を見つめる。この子がそんなた大層な病気にはまったく見えなかった。

「この部屋よく来てたんだよ」

 その子が顔を上げて私を見た。

「そうなんですか」

「タメでいいって。よくここで一緒に寝たなぁ。あいつと。親友だったんだ」

 その子は子どもが何かを自慢するみたいに言った。

「前にこの部屋にいた人は退院したの?」

「死んだ」

「えっ」

 その子は、昨日の天気は晴れでしたみたいな気安さでさらりと言った。

「自殺だよ」

「自殺?」

 私はさらに驚く。

「ああ、自分で首吊って死んだんだ。ほらそこだよ」

 その子はなんてことないみたいに、窓を指差す。

「あそこにロープをかけてさ」

 その子は窓枠の端の出っ張りを指差している。

「・・・」 

「まあ、慣れるさ」 

 驚き茫然とする私にその子は、軽くそれだけ言った。ベッドに横になるその子は、今日会ったばかりの他人の部屋で芯からリラックスしている様子だった。

「自殺・・」

 私はもう一度呟いた。

「お前いくつ?」

 その子が私を見た。あらためて見るその子の目はキラキラと子どもみたいに輝いていた。

「十七・・」

「あたしの一個下か」

「十八?」

 私が聞き返す。

「そう」

 その子がうなずく。

「あたし、美由香」

 彼女はそう言って、細く長い腕を差し出した。

「真知子です」 

 私はおずおずと、自分の右腕を差し出した。美由香はそんな私を見て笑った。そして、力強く私の差し出した右手を握った。その手はホッカイロみたいにとても温かかった。

「まっ、仲よくやろうぜ」

「はい」

「ははははっ、そんなに緊張すんなよ」

「は、はあ」

「ここもなかなかいいとこだぜ。ははははっ」

「う、うん・・」

 そして、美由香は戸惑うように固まる、そんな私の反応を見てまたさらに笑った。

「・・・」

 私は、緊張と戸惑いの中で、彼女のその何とも豪快な人懐っこい笑い顔に、この時、魅入られていた。

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