第26話 散策


「これが藍影様のお姿なんですね」


 感慨深そうに紅玉はつぶやくと藍影の首あたりの鱗を撫でた。この姿で人の手が触れたのは藍影が幼い頃、まだ母が存命だった時以来だ。その優しい手つきは母のものと似ているようで違う。当時を思い出した藍影は目を細めて「そうだよ」と答えた。


「白慈や玄琅にもこの姿がある。本来なら天帝が即位する時にしかこの姿は見せないんだよ」

「なぜ私に見せてくれたんですか?」


 紅玉は首を傾げた。


「君には私の全てを知っていて欲しいからね」

「けれど特別の姿なのでは……?」

「別に構わないさ。この姿は大きいから生活に不自由なんだ」


 確かに龍の姿は神聖で美しいがとてつもなくでかい。鼻先から尾の先まで目測だが一町(百メートル)は優に超えている。その体に合った大きさの殿舎を建築するのも、調度品を用意するのも一苦労だろう。


「人型と違って、この姿に終わりはないんだ。死ぬまで成長し続けるからね。玄琅なんてこの姿になろうものなら春国を押し潰してしまうな」


 後半に呟かれた言葉に紅玉は想像をする。黒龍帝というからには漆黒の鱗を持つ龍の姿だろう。藍影の十倍以上も生きてきて、「春国を押し潰してしまう」という言葉から——。


(無理だわ。想像できない)


 巨大な龍なのはわかったが具体的な想像は難しかった。


「もし興味があれば彼らに頼んでみるといい」

「ご迷惑では……」

「迷惑ではないと思うよ。玄琅は特に『人間なのに肝が据わっておる』と大喜びするはずだ」


 それは想像できた。関わった時間は短いが好々爺な彼は面白ながら頷き、龍の姿を見せてくれるはずだ。


「さあ、散策に出かけよう。私の鱗を掴んでいなさい」

「痛くはありませんか?」

「痛くないよ。この姿は痛覚が鈍いし、矢や剣を通さないぐらい鱗は強固だから君が掴んだぐらいで抜け落ちたりしないさ」


 そう言われても怖いので紅玉は、ゆっくりと鱗を持つ手に力を込めた。ざらりとしてそうで、実際は繭のように滑らかだ。ひんやりとして気持ちがいい。

 紅玉が鱗を掴んだのを確認すると藍影はゆっくりと空を飛び進んだ。雲を裂き、鳥と並行したと思えば、急降下して地面すれすれを飛んでいく。町の上を通り過ぎる時に皆が藍影を眺めていた。幼子が藍影を指差せば、隣にいる大人が注意する。

 だが、その顔には恐怖はない。藍影の性格をよく理解しているから怒らないことを理解しているようだ。紅玉に耳に届いた声はどれも平和そのもの。祖国のような罵声は一つたりとも混じっていない。

 幸せな気持ちのまま市井を後にすると大地の終わりが見え始め、緑の先に大海が広がっているのが見えた。森の匂いに潮の匂いが混じり合う。はじめて見た海に紅玉は目を輝かせた。


「紅玉、この姿は恐ろしいかい?」


 いいえ、と紅玉は即答した。悩むことはない。藍影は恐ろしさとはかけ離れている。恐ろしいとは対極にいる人だ。

 藍影は海面に映る自分の姿を横目で見ていた。気のせいかどこか憂いた目をしていた。


「恐ろしくはありません。とても安心します」


 紅玉は心の底から答えた。


「安心、か」


 藍影は嬉しそうに喉を鳴らした。その振動が肩に乗る紅玉にも伝わったようで、紅玉は小さく悲鳴をあげた

 興奮しすぎた、と藍影は反省する。


「すまない。嬉しくて、つい」

「嬉しい、……その、私もです」

「紅玉もか?」


 反省したのも束の間、また嬉しくて喉を鳴らしてしまった。

 先程ので学習した紅玉は鱗を掴む手に力を入れていたので耐えた。


「す、すまない」

「いいえ、私は平気です」


 あの、と紅玉は気遣わしげに声をかけた。


「我が儘を言ってもいいですか?」

「なんでも言ってくれ!」

「えっと、残り少ない日数を藍影様と過ごしたいのです」


 自分と過ごしたいというのは、とても可愛らしい願いだ。少ない期間というのは現実を突きつけられたようで悲しい気分になるが……。


「紅玉、君がよければこの国でずっと過ごさないか?」


 紅玉は言葉をかみしめるように小さく「この国で?」と聞き返した。耐えるように瞼を固く閉ざす。


「……私がいると、藍影様にご迷惑を」


 堅い声に藍影は「そんなことない」と叫んだ。紅玉がこの常世に残るなら嬉しい。

 それに、えややまい、戦、差別が蔓延はびこる現世にいるより、ここで藍影の庇護下の元、のびのびと暮らした方が幸せのはずだ。

 そう伝えると紅玉は瞼を持ち上げ、前を見据えた。


「藍影様、私は——」


 紡がれた言葉は、藍影にとって嬉しくも悲しいのもだった。

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