第7話 禁域にて
「ここは禁域。
眉間に寄った皺が、彼女の怒りを表している。
「歌流羅に言われなかったのか?」
記憶にはない。が、聞いていないと断言もできない。
紅玉は否定の意を表すため首を振ると拳を握り、次に来るであろう衝撃に耐えようとする。
しかし、いつまで経っても罵声や暴力が訪れないことに不思議になり、そっと顔をあげた。清らかな黄金の瞳がまっすぐに紅玉を見つめていた。貴人の許可もなく、視線を交わすことは斎では無礼な行為とされている。龍帝に対して無礼を働いてしまった、とすぐさま下を向いた。
「……私が恐ろしいか?」
「い、いえ……」
——恐ろしい。
存在してはいけない自分が、この世で高貴な人の前に立つなど。嫁入りが確定して仕込まれた礼儀作法も簡易なもので、姉達のような優美さは皆無。彼女を不快にさせない振る舞いというものがわからない。
「私は怒ってなどいない」
(分かっているわ。だって、龍帝様の眼は、みんなとは違うもの)
優しい光を
「面をあげなさい」
「……はい」
言われた通り、顔をあげた紅玉はその灰色の瞳を大きく見開かせた。
龍帝——藍影の指先には、ここまで連れてきてくれた雛雀の姿があった。なにやら抗議をしているようで、ほわほわの翼を一生懸命はためかせ、
雛雀の言葉が理解できるのか藍影は、ふむと顎に指を当てて考える仕草をした。
「そうか、君が連れてきたのか。ここは入ってはいけないと言っただろう」
ぴ! と雛雀が鳴く。そうだ、と言っているように聞こえた。
「この子は君を気に入っているみたいだ」
雛雀が止まった指先を紅玉の方へ向けながら、藍影は唇と目元をほころばせた。神々しいほど整った美貌に華やかな笑みが浮かぶ。紅玉は胸を抑えた。気のせいか心臓が慌ただしい。
「……私を、ですか?」
「ああ、君が落ち込んでいるように見えたからこの桜を見せたかった。悪いのは僕だ、と。君を叱らないようにと言っている」
おずおずと紅玉が手を差し出すと雛雀が軽やかに指先に飛び移る。
そして、また両目を細めて歌い出した。
「この子がここに来て、こんなに楽しそうなのは初めてだ。君がよければ、これからも仲良くしてあげてほしい」
「……はい、喜んで」
もう片手で雛雀を優しく包みながら紅玉は微笑み、すぐさま笑みを消し去った。
(気色が悪い顔を見せるのはよくないわ)
あれだけ散々家族に言われたのに笑いかけてしまったことを後悔する。龍帝の御前にでても
藍影は妙なものを見るかのように紅玉を見下ろしているが特に糾弾はせず、鳥居を指さした。
「さあ、ここから出なさい。庭を散策したいのなら別の場所を歌流羅に案内させよう」
「……すみません」
藍影は
彼女の思いやりに紅玉の胸は暖かさを増してゆく。
「……あの」
この短い逢瀬ももうすぐ終わってしまう。そう思うと同時に唇から声が漏れてしまった。
「どうかしたのかい?」
足を止めた藍影は、紅玉を驚かせないようにかゆっくりと振り返り、優しく笑い首を傾げた。拍子に藍色がかった黒髪がさらりと胸を撫で落ちる。
「えっと……」
視界を遮る髪を耳に掛け直す仕草が色っぽくて紅玉は急いで視線を反らした。
藍影は急かすことはせず、紅玉が自ら話し出すのを待ってくれた。
「……この子の、名前を知りたくて」
呟かれた言葉に藍影は顎に手を当てる。
「名前か……」
「名前が分からなくて、どう呼べばいいのか、その知らなくて」
「この子に名前はないんだ」
「名前が?」
「いや、理解していない、といったほうが正しいのかな……。現世で生まれた生物は死を迎えるとその魂が常世に来ることは知っているかい?」
知りません、と紅玉は首を振る。
「この子は生まれてすぐ亡くなり、両親は名をつけなかった。常世に来た際に私が仮の名をつけても名前というものをいまいち理解していないのか反応を返さない」
「理解……」
「仮の名は
「とてもよいお名前です」
「君はそう思ってくれるのか」
藍影は小さく笑う。
「歌流羅には仰々しいと不評だったんだ」
なんでも、雛雀はまだ幼子。もう少し分かりやすい言葉の方がいいのでは? 発音が難しいため覚えれないのでは? と言われたらしい。
現に雛雀は己の名前を理解していないため、別の名を与えるか迷っていたと藍影は語る。
「私は、その……とても素晴らしいお名前だと、思いました」
「君が良ければ
「私なんかが、いいんですか……?」
「そのような言い方は良くない。自分を卑下にするのはやめなさい」
「……申し訳ございません」
さっと顔を白くさせると紅玉は俯いた。
垂れ下がる髪で表情は読めないが、今にも泣きそうな雰囲気を察知した藍影は慌てて弁明する。
「怒っているわけではない。自分の価値を
「私に価値なんて……」
「価値のない人間はいない。自分は無価値だと誰かに言われたのか?」
紅玉は唇を固く引き締める。
その様子を見て藍影は嘆息した。
この地は禁域と呼ばれる歴代の龍帝が眠る場所——つまり、
まして、雛雀が連れてきたのは現世とまだ繋がりがある娘。一刻でも早く、追い出さなければ取り返しがつかないことになるのだが、力づくで追い出せば彼女との間にある溝がより深くなるだろう。
そう考えた藍影は感情を抑えた声で「女帝か?」と問いかけた。
と同時に紅玉の肩が跳ね上がる。胸元で握る拳に力が入るのを見て、予想が的中したことを理解した。
「私達は黄帝によって創られた
「……土塊」
「創世記録を聞いたことがないのか?」
「い、いえ! 姉が教えてくれたので簡単な内容は知っています。ただ、龍帝様もと言われて驚いてしまって」
「私達、四龍帝は黄帝によって創られ、君達を治めているが本質は同じさ。黄帝の
「……同じ」
「ああ、同じだ。さあ、こちらに」
言い終えると紅玉の背中に手を当てる。できる限り優しく触れたつもりだったが紅玉は体を強張らせた。灰色の瞳は不安で揺らめき、常より顔色が悪くなる。
その行動が示す意味を、今までの行動から察した藍影は表情は穏やかだが内心ではふつふつと湧き上がる怒りを抑え込む。
(何故、実の子をここまで痛めつけれるのか理解ができぬ)
どうにか紅玉の不安を取り除くことはできないだろうか。きっかけを探すべく懐や袖をまさぐると紙の感触が指先をかすめた。
「——これを」
桃色の包み紙を取り出すと紅玉の手に押し付ける。
紅玉は目を大きくさせると包み紙と藍影を交互に見つめた。
「先程、知人が訪ねてきたんだ。そいつからもらったものだが、私は甘いものは好まない」
「私なんかがいただいて、よろしいのでしょうか?」
「君だからあげるんだ」
紅玉は困っているのかなかなか包み紙を解かない。
痺れを切らした藍影は包み紙の紐を解き、中から飴玉を取り出した。それを小さな朱唇に押し付ける。
「ここに来てからなにも食べていないだろう。食べなさい」
うっすらと唇が開き、飴玉が口内へ招かれたのを見届けた藍影は嬉しそうに笑った。
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