第4話 独り言
『あらあら、お間抜けなお顔ですこと』
衣擦れが聞こえなくなり、ほっと息を吐いたのも束の間、涼やかな水音とともに軽快な笑い声が聞こえた。
「……歌流羅。盗み見はよせ」
龍帝——
すると、ぷるぷると揺れてそこから歌流羅の声が
見られて困るものではないが、盗み見られていると言うのはいささか不愉快だ。
「斎の皇女を
『ええ、今しがた。このような素晴らしい房室を、と感動しておりました』
「あの房室をか?」
藍影は自分の耳を疑った。蔑称をつけられた花嫁にあてがったのは今はもう使われていない、こじんまりとした広さの房室だ。
「皇女だと聞いていたが偽物か?」
『いいえ、きちんとあのうるさい女帝の血を継いでおりましたわ』
「なら、なぜあのような態度をする?」
『あのような?』
「ことあるごとに俯き、視線を交えない」
『癖になっているようですね。お迎えにあがった時から花嫁御前は周囲の目を逃れるように体を丸め込んでおりましたもの』
そして、家族は——特に女性陣はその様子を見て嘲り笑った。
その言葉を聞き、藍影は思いっきり顔をしかめた。
「人間という生き物は、いつの時代も、くだらないことで争い合うのだな」
『ええ、それが人間という生き物でございます。自分と毛色が異なるというくだらぬ理由で他者を害し、
くすくす、と忍び笑いが水球から聞こえる。いつものように
「人間嫌いのお前が、なぜ彼女を匿おうと言ったんだ?」
藍影は花嫁を現世に送り返すつもりでいた。斎帝国は無理でも、青龍帝として現世の統治を任されている藍影なら、他の国へ庇護を命ずることもできる。
それを覆したのは歌流羅の「春国の民に迎えては」という一言があったからだ。
「現世へ行くのも嫌がっていたではないか」
先代である父が藍影の補佐として歌流羅を創りあげた時から、彼女は現世と人間を蔑んでいた。なんでも「自分達に似せた姿のくせに、偉そうな態度が気に食わない」らしい。
藍影としては父の跡を継ぎ、龍帝となることは決まっていたので歌流羅が人間嫌いでも補佐をしてくくれば何でも良かった。
その、藍影が知っている人物の中でも一番と形容していい人間嫌いが、自分から迎え入れようといったのは青天の
『嫌ではありますけれど、少々可哀想と思いまして』
「可哀想?」
それはいつぞや言っていた「立場を理解できない可哀想な人間」という意味で言ったのだろうか。
藍影が渋い顔をすると、それを見たのか水球の向こうで歌流羅が笑う気配がする。
『誰かに愛されたいと願っていても、誰にも愛されず、死を望まれるなど可哀想な存在でしかありませんわ』
「一人もいないわけではないだろう」
いいえ、と歌流羅はきっぱりと否定する。
『誰一人、彼女が花嫁となることを悲しんではおりませんでした』
淡々と、抑揚というものを感じさせない声音に藍影は眉をひそめた。腹心が人間相手にここまで言うのは初めてだ。
「気に入ったのならば、あの皇女の世話はお前に任せる」
『元よりそのつもりでございますわ。さすがのわたくしでも、連れてきてそのままにはいたしません』
「お前は飽き性だからな。人間は民とは違い、有限な存在だ。しかと面倒みなさい」
『はいはい。承知いたしました』
ちゃぽん、と涼やかな音と共に水球が四散する。歌流羅が術を解いたのだろう。
藍影はだらけた体勢のまま、天井を仰ぎ見る。
(皇女というより、
先代が隠居したと同時に即位した藍影は、己の花嫁が来るのをずっと待っていた。食すためでも、迎え入れるためでもない。花嫁をすぐさま現世に返すためだ。
しかし、斎帝国から送られてきたのは十代半ばの少女だった。燃える赤髪に静かな灰色の瞳が印象的であるが、その痛々しいほど痩せこけた
(あれでは食事を与える必要があるな)
常世は神の世界。神気に満ちた空間は空腹を覚えることはない。
それは、肉体の変化がないことを意味する。
あの貧相な身体を健康体にするには食事を与える必要がある。祖国で満足に食べ物を与えられていないのなら固形物は避けたほうがいい。胃が拒絶し、苦しむのはあの娘だ。
——そこまで考えて、藍影は
(あれの世話は歌流羅に任せた。私が関与することはない)
自分は龍帝の仕事をするまで。
そう考えた藍影は筆を手にすると文を
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