第3話 水の御殿


「到着いたしました」


 するすると帳が持ち上がる。差し込んできた日差しに、夷狗は両目を細めた。

 視界に入るのは清らかな水面と、その上に浮かぶ多くの建物。その周囲のは千を超える睡蓮が花を綻ばせ、その下には百を超える錦の鯉がひれを優雅に動かせて泳いでいる。澄み渡る大空を舞うのは雲雀ひばりだろうか。


「青龍帝はこの奥の御殿におられます」


 鮮やかな緑色が青と溶け合う様子を眺めていると歌流羅は一等豪華な殿舎を指差した。

 そこを目指して屋形船は進む。不思議なことに睡蓮は意識があるかのように両端へ移動し、道をあけた。


「春国はいかがですか?」

「とても、素敵な場所だと思います」

「あらあら、花嫁御前もそう思われるのですね。五大国で一番美しいとされるのが、この春国でございます」


 まあ、と歌流羅は続ける。


「花嫁御前はすぐいなくなってしまわれますけれど」


 その言葉に潜む棘に、夷狗は気づかないふりをした。





 屋形船が殿舎の前にとまるとどこからともなく雲雀やすずめ欄干らんかんに降り立ち、軽やかにさえずった。

 歓迎されてはいないな、と夷狗はうなだれる。つぶらな瞳は真っ直ぐに自分を見て、少ししてから隣の小鳥へ視線を移す。そして、なにやら囁きあう。意味は分からないが、まるで新たな生贄を見定めているような行動だ。

 そんな鳥達から夷狗は顔を隠すように歌流羅の後を追いかけた。


「あらあら、我が国の民が失礼を。主人の花嫁となるお方を一目見ようとしているだけですのでお気になさらないでくださいませ」


 国民? この鳥達が?

 夷狗の疑問に気が付いたのか歌流羅は袖で口元を隠し、くすくすと笑う。


「国民でございます。この世界を彩る草花に虫、鳥……命あるもの全て、青龍帝が守るべき民なのです」


 そうだ、と言いたいのか鳥達が大きくくちばしを開き、歌をうたう。

 優しい調べを聴きながら回廊かいろうを進むと殿舎と殿舎を繋ぐ廊橋ろうきょうの先に大きな扉があった。

 漆黒を基に金と青色の塗料で饕餮紋様とうてつもんようが描かれている扉を、歌流羅が叩こうとした時、


「誰だ?」


 玲瓏れいろうな声が問いかけた。


「歌流羅でございます。花嫁御前をお連れいたしました」

「……入れ」


 ふみをしたためていたのか房室へやの主人は筆を手にしたまま、夷狗達を出迎えてくれた。

 歳のころは十代後半から二十代だろうか。きめ細やかな雪白の肌、首元でゆるく結ばれた濡れ羽色の髪は銀河のように光を放っている。影が落ちる目元は涼やかで黄金に輝く瞳が際立っている。すっと通った鼻梁びりょうに、色付く唇——完璧と形容するしかない美貌は性別の判断も難しい。透き通る声も女性的のようにも、声変わりがまだの少年のようにも聞こえる。


「こちらへ」


 龍帝は座った体勢のまま、前方の空いている椅子を指差した。

 歌流羅に背を押され、夷狗はそこに腰掛ける。


(……女性?)


 龍帝が姿勢を正したことで胸元に現れたわずかな膨らみから女性であることが分かった。花嫁として送られてきたので龍帝は男性とばかり思っていた夷狗は微かに両目を大きくさせる。


「君の名は?」

「夷狗と申します」


 龍帝は片眉を持ち上げた。


「字はどう書く」


 言葉では言い表せず、夷狗が困っていると歌流羅が筆と紙を持ってきてくれた。読み書きはできないが名前の漢字は覚えてる。笑いながら姉達が教えてくれたから。

 つたない字で書いたものを差し出すと龍帝の眉間の皺は更に深くなる。


「それは蔑称べっしょうではないか。私を馬鹿にしているのか?」


 馬鹿にしているつもりはない。これが正真正銘、自分の名前だ。そう伝えたいけど言葉に表すと不敬になると考え、無言で首を左右に降る。

 すると龍帝はまず『夷』を指差した。


「これは未開の人間、『狗』は文字通り動物の意味だ。君は斎帝国の皇女なのだろう? なぜこの字をつけられた」


 両目がすっと細められる。金眼がさらに煌々こうこうと輝き、夷狗を貫く。

 夷狗は俯いたまま、考える。

 女帝は生まれた我が子が赤い髪を持っていることから父親は誰かを知った。斎人が至高と考える女帝は己が腹で蛮族の子供を育て、産んだこと酷く後悔し、嘆き、悲しんだ。何度も殺そうとしたが周囲からの反対もあり、蔑称をつけて育児放棄することでその殺意を心の奥底へと押し留めたそうだ。


(素直に伝えてもいいのかな)


 花嫁に送られた娘がだと知った龍帝は侮辱と受け取る可能性が高い。そうなれば夷狗のせいで祖国は加護を失うかもしれない。


「嘘偽りを言えば、どうなるか分かっているな」


 すごんだ物言いに怖気づく。覚悟を決めた夷狗はぽつぽつと話し出す。


「……私の父が、蛮族の男だった、ので。母はこの字をつけました」

「母というのは女帝か?」

「はい」

「君は女帝のことをどう思っている?」


 夷狗は顔をあげた。

 龍帝はどこか寂しそうな目をしていた。


「恨んでいるのか?」


 その問いかけにたっぷりと悩んだ末、首を振る。


「……いいえ」

「そうか。……単刀直入にいうが私は君を食べるつもりはない」

「——え」

「元々、我ら四龍帝が花嫁という生贄を食すのは神気を高めるため。太古と比べ、現在の人間を食しても得られる神気は無に等しいのだ」


 龍帝は夷狗の顔色を見ながら淡々とした口調で続ける。


「龍帝の即位の際に花嫁が送られてくるのは悪習として残っているにすぎない」

「他の四龍帝はぺろりと食したようですけれど」

「歌流羅、黙っていろ」

「あらあら、失礼いたしました」


 主人の叱責にも歌流羅はどこ吹く風。軽やかにくんひるがえすと壁際まで下がった。


「他に帰る場所はあるかい? 父君がご存命ならばそこへ送らせよう」


 夷狗は首を振る。顔も知らない父は母を陵辱したことで一族郎党、酷刑に処されて亡くなった。

 他に頼れる者といえば、夷狗の身の回りの世話をしてくれた乳母がいたが、貧民の出である彼女の元に身を寄せることはできない。花嫁として送られた自分は斎では死人扱い。彼女に迷惑をかけることになる。

 かといって、斎帝国から離れた土地に頼れる者もいない。野宿しようにも知識も経験もない夷狗はすぐの垂れ死んでしまう。

 悶々もんもんと夷狗が悩んでいると、頭痛がするのか龍帝は眉間を揉む。


「花嫁が来たら斎へ返そうと思っていたのだが、君は返さない方がよさそうだ」

「……すみません」

「謝る必要はない。しかし、困ったな」


 眉間から指を離した龍帝は頬杖をつく。


「君はどうしたい?」

「どう、とは……?」

「国に帰りたければ女帝に説明しよう。他の国へ行きたければ、そこの権力者に話を通すことも可能だ。どうしたい?」

「……分かりません」

「分からない?」

「今まで、ずっと母が決めてくれたので、どうすればいいのか分かりません」


 龍帝は凪いだ眼で夷狗を見つめた。心の奥を探るような視線に耐えきれず、夷狗は視線を逸らす。

 すると今まで静観していた歌流羅がどこか楽しそうに笑い、肩をすぼめた。


「問い詰めても彼女には意思というものが存在しないようですね」


 ぱんっ、と小気味よい音が響く。

 急な音に夷狗は驚いた。音がする方向を向くと歌流羅が両手を合わせていた。先程の音は両手を合わせた時に出たものと知り、ほっとする。殴られるわけではなかった。


「どうでしょう? この春国の民に迎えては」


 夷狗と龍帝の視線を受けた歌流羅は微笑み、両手を広げた。


「帰る場所も、頼れる者がいないのならこうするのが一番ですわ。青龍帝も同じ考えだとお見受けいたします」

「確かに、それも一つの案だ。君はどうしたい?」


 夷狗はくちごもった。どう答えればいいのかが分からない。悩んだ末、ちらりと龍帝を盗み見る。

 龍帝は静かにこちらを見ていた。


「私は……」

「分からないのか?」

「はい。食べられる、ものとばかり思っていたので」


 そうか、と龍帝は呟いた。


「ならば、しばらくここで暮らし、何になりたいか考えるといい」

「何になりたいか?」

「ああ、人の道とは多岐にわたる。それを知るのもまた一興というものだ」


 龍帝は唇をほころばせた。繊細な硝子がらす細工のように完璧すぎる美貌が微笑み、夷狗は頬に朱を散らす。気のせいか頬を含む顔全体が熱い。


「そうだな。君が自分のを理解するまで、仮の名を授けよう」

「名前、ですか」

「この地で蔑称を口にするのは許さない」


 優しい声音で、はっきりと告げる。


「……そうだな。紅玉、という名はどうだろうか」


 龍帝は夷狗の髪を一房掴むと「君にぴったりだ」と笑みを深くさせた。

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