ニンジン頭の髑髏

天ノ川夢人

第1話

 暑い夏の真昼に、私は銀座の交差点で信号待ちをしている。昼食に鰻丼を食べようと腹を空かしている。職場の昼食は一人ずつ時間をズラして取る事になっている。今日は珍しくトップで飯を食いに行く。

 信号機が青になる。私は群集と共に横断歩道を渡ろうと足を踏み出す。突然、頭から胸にかけて、黒いヴィニール袋をすっぽりと被らせられる。私は慌てて袋を払い除けようとする。私は背中に何か硬い突起物を押しつけられ、「騒ぐと殺す」と姿の見えない低い男の声に言われる。男は背後から私に、「そのまま前に歩いて行け」と命令する。私は突然頭からヴィニール袋を被らされただけでも動揺している。私は恐る恐る歩き出す。五、六歩も歩くと車らしき空間の中に背後から押し込まれる。私は頭から横倒れにシートの上に乗る。私は後から車内に入ってきた者に脚を押される。私は後部座席と思われる座席の上にきちんと腰かけさせられる。袋の中はとても息苦しい。私は後ろ手に手錠をかけられる。何者かがヴィニール袋の中に手を入れてくる。その何者かが私の目にアイマスクを嵌める。ヴィニール袋は間もなく頭から取り外される。私は漸く不安な息苦しさから解放される。役に立ちそうなのは聴覚と嗅覚だけだ。まさかこんな事になるなんて思いも寄らない。私は一体誰に何処へ連れていかれるのか。全く身に覚えのない出来事である。車の中には一体何人同乗しているのか。

 車が発進する。運転手と右隣にいる男の存在は想像出来る。助手席には誰がいるのか。私は車内の物音に耳を澄ます。車の移動を体感しようと全身の揺れを意識する。

「一切交通違反はするな」と私の前の席から男の声が聞こえる。運転手は何の返事もしない。恐らく黙って命令に従っているのだろう。車内には私の他に三名いる訳か。

「俺を何処に連れていくつもりだ!」と私は目隠しをされたまま、思い切って車内の者らに話しかける。後部座席の私の右隣にいる男が硬い突起物を私の右のこめかみに突きつけ、低く野太い声で、「黙ってないと殺すぞ」と言う。どうやら後部座席の右隣の男は背後から迫った男であるようだ。

「まあ、普通はそれぐらいの質問はするさ。あんたは正常だよ」と前の助手席の男が明るい口調で言う。

 もしかして、こいつら、私の知り合いなのか。私は人の怨みを買うような事は何もしていない。何時、誰に怨まれるかなど想像の域を超えているか。

「なあ、あんた、俺達の声を憶えようとしちゃいけないよ」

「ああ、はい」と私は怯えた声で返事をする。

「なかなか無傷で帰してやるのは難しくてね」

「はい」

「もうちっと話しなよ」

「はい」

「俺達が恐いかい?」

「はい」

「そうか」と助手席の男が軽い口調で言って笑う。

 こいつらは私に何の危害も加えるつもりがないのか。

「何で拉致されたと思う?」と助手席の男が私に訊く。

「判りません」

「ううん、もう一寸お話しようよ」

「はい。でも、何にもしませんから、どうか俺を殺さないでください」と私は今にも泣き出しそうな震える声で言う。 

「あんたを殺すなんて一言も言ってないよ」

「でも、先、私の隣にいる方が俺を殺すと」

「そいつはそいつの考えがあるのさ。人の存在を一緒くたにしちゃいけないなあ。もっと人間らしく希望を持たなきゃ。判るね?」

「はい」

 何だ、こいつらは!仲間意識や上下関係などないと言うのか。いやっ、確か助手席の男は運転手に対して命令口調だった。

「独りで考え込んじゃダメだよ。もっと我々に関わってくれないと」

「ああ、はい」

「そうしてくれないとこっちが寂しくなっちゃうんだよ」

「はい」

「もっと言うとね」

「はい」

「俺があんたを連れてきた訳じゃないんだよ」

「はい」

「車の中にいたら、隣の男があんたを連れてきたんだよ」

「はい。あのう、なら、助けてください」

「何で?どうして僕が君を助けなくちゃいけないの?どうして見も知らぬ人の事を僕が助けなくちゃいけないの?そういうのは隣の人に言いなよ。やだなあ、一寸話しただけなのに、直ぐ頼ったり、甘えたりするんだからあ」

「済みません」

「本当にそういう自分の悪いとこ判ってる?」

「はい、済みませんでした」

「謝れば良いと思ってるでしょ?それは良いんだよ。恐い相手には誰しも従うものだからね」

「はい」

 こっちは厄介だ。頭のおかしな奴かもしれない。何か麻薬かなんかで頭がおかしくなっているのか。

「また何か独り考え事してたでしょう?」

「はい」

「何か怒ってるの?」

「・・・・」

「やれ!」と助手席の男が無感情な声で命令する。その途端、右隣の男が私の頭を何度も硬い物で殴りつける。

「痛い!痛い!赦してください!」と私は堪らなく叫ぶ。私は強く腹を殴られ、息が詰まったように前屈みになる。更に俯いた顔の鼻を下から殴られる。

「止めてください!もう悪い事はしませんから!」

 右隣の男の暴力がぴたりと止まる。自分で止めたのか、それとも助手席の男が止めるようにと無言の合図を出したのか。助手席の男は右隣の男にも命令口調だった。助手席の男はこの三人の中のボスであるに違いない。

「あのう、僕もう、何か難しくて、どうしたら良いのか全く判らないんです」

「また甘えたな。やれ!」と助手席の男が指図する。

 右隣の男が私の顔を拳骨で連打する。私は休みなく顔面を殴られ、気が遠くなってくる。

「・・・・済みません!」

 右隣の男の暴力がまたぴたりと止まる。なるほど。止めてくださいとか、済みませんと言えば、右隣の男の暴力は止まるんだな。右隣の男の荒い息遣いが聞こえる。

「あのう、これから何処に行くんですか?」

「一寸、ドライヴでもしようかなって思ってね」

「ああ、良いですね」

「そう思う?本当にそう思う?」

「はい」

「じゃあ、何処に行きたい?」

「ええ・・・・」

「静かな所が良いでしょ?人がいるところは喧しくて疲れるからね」

「人のいないところは嫌です!」

「何、わがまま言ってるんだよ。俺達が静かなところに行きたいんだよ」

「あなたも静かなところが良いんですか?」と私は右隣の男に訊く。先、助手席の男が人間を一緒くたに考えてはいけないと言ったから、敢て周囲の人の意見を求めたのだ。

「俺に質問はするな。今度質問したら殺す」と右隣の男が低い声で言う。

「はい、すみません。もう質問はしません」

「あんた、仕事何してる人?」と助手席の男が私に訊く。

「ああ、カメラマンのアシスタントです」

「ふううん。どんな写真撮るの?」

「ああ、まあ、記念写真とか、依頼のあったものなら何でも」

 助手席の男の返事がない。無理に話しかけるのは良くない。細かい行き違いでいちいち暴力を振るわれるのも堪らない。助手席の男が起きているのなら、何か話さないといけない。助手席の男は眠ろうとしているのか。車の騒音で助手席の男の呼吸する音までは聞こえない。車内の様子を目で確かめる事も出来ない。運転手はまだ一言も話していない。車は走り続ける。静かな所に行きたいと、先、助手席の男は言っていた。もう静かにしていたいのか。このまま黙らせてもらえるのか。助手席?この車、日本車だろうか?先、一切交通違反はするなと助手席の男が運転手に言っていた。車は走り続ける。車内には冷房が効いていて、静寂が満ちている。


 誰かが呼んでいる。

「おい!起きろ!」と助手席の男の声が聴こえる。

「ああ、寝ちゃってました」と私は即座に答える。私は目覚めてもアイマスクを嵌められた闇の中にある。

「あんたも意外と図太い神経してるね。ずっと眠ってたのかい?」

「はあ。何か、昨日余り寝ていなかったもので、何だか眠くなっちゃって」

 右隣の男が車のドアーを開ける音がする。右隣の男は手錠を嵌められたままの私の右腕を掴み、「外に出ろ」と低い声で言う。私は言われるまま、引っ張られるままに車外に出る。足下は石ころか何かでゴツゴツしている。周囲は静まり返っている。昼なのか夜なのかも判らない。どのくらい寝ていたのか。それが判らず、どれくらい銀座から離れているのかも見当がつかない。私は背中に硬い物を突きつけられながら、押されるようにして前を歩いていく。自分の足音の他にも別の足音が聞こえる。全部で何人だろう。

「止まれ」と背後の男が私に命令する。後部座席の右隣にいた男の声だ。私は直ぐにその場で立ち止まる。真ん前でドアーの鍵を開けるような音がする。鉄の扉が開くような音がし、壁に荒っぽくドアーがぶち当たるような音がする。

「入れ。足下に段があるから気をつけろよ」と背後の男が私に言う。

 私は一歩足を大股に踏み出し、段差のないコンクリートのような地面に足を着ける。背後のドアーが閉まる大きな音が鳴り響く。風はない。とても静かな室内だ。靴を脱ぐようにと言う指示はない。倉庫のような建物の中だろうか。私は真っ直ぐに歩いていく。背中に突きつけられた硬い物はそのままだ。もう何歩も真っ直ぐに歩いている。かなり広い空間だ。

「止まれ」と背後の男が私に命令する。私はぴたりと立ち止まる。

「座れ」と背後の男が私に命令する。私は怪我をしないように注意しながら、ゆっくりと腰を地面に下ろす。

「おい、こっちに来い」と左斜め後方で先まで私の背後にいた男の声が聞こえる。泣き声のような男の声が、「ああ・・・・、ごめんなさい」と左斜め後方の後部座席の右隣にいた男の声の方で言う。泣き声のような男の声は他の三人とは全く別人の声である。いいやっ、運転手の声はまだ聞いた事がない。

「のろのろしてると殺すぞ!」と後部座席の右隣にいた男の怒鳴り声が左斜め後方から聞こえる。拳銃を発砲する大きな音が二発立て続けに鳴り響く。

「あああ!」と泣き叫ぶ男の声がする。

 やはり、私の背中に突きつけられていたのは拳銃だったのか!

「ほらほら、さっさと動け!」と後部座席の右隣にいた男が言い、その直ぐ後に拳銃を一発発砲する音が鳴る。

「あああ!」と先と同じ男の叫び声がする。まさか、また撃ったのか!

「この野郎」と後部座席の右隣にいた男が言い、砂袋を蹴るような音がする。

「どれどれ」と助手席にいた男の声が言う。掠れた呼吸のような小さな悲鳴が聞こえる。「生きている限り、痛いなら叫びなよ。ほら!」

「ああ・・・・」と力なく小さな悲鳴が聞こえる。また砂袋を蹴るような音が何度も続く。

「もう玉も切り落として、女の子になるか?うん?」と助手席にいた男の声が言う。「ほれ、ほれ、ほれ」

 何かされている筈の男の叫び声が聞こえない。

「これじゃあ、何度やっても、ただ肉の塊に穴開けてるみたいで詰まんないよ」と助手席にいた男の声が言う。私は振り返って自分の目で背後の状況を確認したい。何が起きているかも見届けられずに人の命が殺められる場に平然といる事は出来ない。

「捨てに行くか。終わっちゃってるよ、こっちは」と助手席の男の声が言う。

 神様!と私は心の中で頭上の神様に救いを求める。名もなき頭上の神様こそが私が幼い頃から信じている神様なのだ。

 何か重い物を引き摺るような音と、遠ざかる二人の足音が聞こえる。ドアーを開ける音がし、続いてドアーを閉める音がする。室内はそれきり静まり返る。

 私は胡坐を掻いたまま、身動きもせずにコンクリートの上に坐っている。誰か助けに来てくれないか。冷汗で背筋と額が冷たい。鍵を閉める音はしなかった。背後で誰かが物音一つ立てずに私の様子を観察しているのかもしれない。室内の左の離れた所で犬が二回吠える。犬がいるのか。犬らしき小さな生き物がコンクリートの上をカサカサと小走りに走ってくる。犬らしき足音が私の方に近づいてくる。犬らしき濡れた生温かい舌が私の顔を何度も嘗める。室外の音は全く聞こえない。男三人は既にこの場を去ったのか。私は頭上の神様を静かに想い、神様の救いを求める。

 物音一つしない。気が狂いそうになる程この静寂が怖い。恐怖のあまり、全身が冷汗でびしょ濡れになっている。意識が朦朧としてきた。何だか頭がくらくらする。発熱したのか。このままでは座っているのも辛い。倒れたところで、おらおら何横になろうとしてんだと背後から言われるに違いない。もしかしたら、三人の中の一人がアイマスクをした私の顔の真ん前にしゃがみ込み、じっと私の様子を間近で観察しているのかもしれない。私は真ん前から「おい」と呼びかける男の声を想像する。私の警戒心は更に強まる。私の胡坐を掻いた左の太腿に犬のふさふさと毛の生えた尻尾が触れる。犬は尻尾を振り、荒い呼吸を休みなく続けている。


 ああ!いけない!とはっとして顔を上げる。何時の間にか前屈みになって眠り込んでいた。これはいけない。何て俺は不注意なんだ。今は昼なのか、夜なのか。もう一時間は経ったろう。いいや、五分か十分か。もしかして、一瞬眠り込んで、頭が垂れた途端に目を覚ましたのか。頭をガクリと垂れた記憶はない。ゆっくりと頭が垂れて眠りに落ちたのか。夢すら見ない熟睡状態にいたようだ。おお!背筋にゾクッと寒気が走る。ああ、こんな時に風邪を引くなんて!ああ、やっぱりそうだ。喉がイガイガする。鼻で呼吸していると、鼻の穴の中に風邪を引いた時の妙に臭い鼻糞の臭いがする。体がピリピリと痺れる。風邪には人一倍弱いのに、何でこんな時に・・・・。

 大体、あの人通りの多い銀座のド真ん中で、何で人間一人が突然拉致されるんだ。東京の人間の常識では全くそんな危険性には注意していない。東京は人口が極端に密集している上、世界的にも最も治安の良い首都として知られる。逆に指名手配犯が身を隠すには恰好の街だともされている。そういった点からしても、私は本当に運が悪い。

 ううむ。物音はしないな。脚と尻が痺れを超えて感覚がない。よし!

「あのう、動いても良いですか?」と私は助手席にいた方の男に確認する。声が風邪声になっている。

 返事はない。坐ったまま様子を見て、右回りに体を動かす。目隠しをされて何も見えないまま周囲の気配を窺う。誰も何も言わない。犬が私のお尻の辺りに鼻を寄せている。私は右に体を倒し、コンクリートの地面に顔を擦りつけてアイマスクを上にずらす。目に光が入る。漸く周囲が見える。倉庫のような室内だ。入口の左右にある窓外に血のように赤い夕焼け空が見える。室内にも西日の黄色い夕陽が射している。私は周囲をぐるりと見回す。誰もいないじゃないか!

 後ろ手に嵌められた手錠はそのままだ。私は脚を伸ばして脚の感覚を戻す。ゆっくりと脚だけで立ち上がる。眼下には虐待されていた男のものと思わしき、夥しい量の血痕が乾かずに広がっている。入口の方へと引き摺られたような血の跡がある。私は血痕の上を避け、入口の脇の窓から外の様子を探る。車も止まっていない。勇気を絞ってドアーの前に後ろ向きに立ち、後ろ手に手錠を嵌められた両手でドアーのノブを回す。ドアーは難なく開く。

 倉庫を出る。赤い夕焼け空の下に広がる閉鎖された工場址のような荒れ果てた敷地を歩いていく。

 舗装された殺風景なアスファルトの車道に出る。左右を見て、どちらに進むかを冷静に考える。答えは出ない。私は交番を探しにあてずっぽうに左の方へと歩いていく。砂や石を載せたトラックが何台も前後に走り去る。左右に広がる雑草で一杯の埋め立て地のような空き地の間の舗装道路の端を歩く。プレファブの小さな管理人室のような建物が見える。

 私はその小さなプレファブの建物の前に立ち、窓に顔を近づけると、「すみません」と中にいる管理人らしき老人に声をかける。その老人は直ぐに窓を開け、「どうしましたか?顔が腫れ上がって、鼻から血が流れてますよ」と心配そうな顔で訊く。

「ここ、銀座からどのくらい離れてるんですか?」

「銀座って、東京のあの銀座ですか?」

「はい」

「いやあ、どれくらいかな・・・・」と老人は考え込む。

「じゃあ、ここ、何県ですか?」

「千葉県です」

「はあ、そうですか。すみませんが警察を呼んで戴けませんか」

「あっ、はい、判りました」と老人はきりっとした顔つきで言うと、早速電話をかける。私は周囲から聞こえてくる騒々しい工事の音を聞きながら、ここに連れてこられた時には全く聞こえなかった騒音に奇妙な違和感を感じる。そうか。私はここに来る時の車内でも一時眠り込んでしまったのだ。

「警察は直ぐに来ますよ。中でお待ちになりませんか?」と管理人らしき老人が私に言う。

「いいえ、私はここで待ちます。私の事はご心配なく」

「そうですか。何か冷たいものでもお飲みになりますか?」

「ああ、ありがとうございます。頂きます。あのう、手錠を掛けられて監禁されてたところを逃げ出してきたものですから、今も後ろ手に手錠が嵌められているんです。すいませんが、そのお茶を私の口に近づけて、私に飲ませて戴けませんか?」

「ああ、はい。判りました。そんな事はお安い御用ですよ」と人の良さそうな老人は言うと、右脇にあるプレファブのドアを開け、外に出てくる。老人は手に持った冷たいお茶のペットボトルの蓋を開け、私の口に近づける。老人は冷たいお茶をゆっくりと私に飲ませる。私はそのペットボトルの冷たいお茶で乾いた喉を潤す。

「ああ、生き返った!ありがとうござます」

「いえいえ」

「あのう、申し訳ないんですが、私のシャツの胸ポケットに入っている煙草とライターで、私に煙草を吸わせて戴けませんか?」

「ああ、はい、判りました。判りました」

「すみませんね」

 管理人の老人は私の胸ポケットから煙草とライターを取り出すと、パックから煙草を一本摘み出し、私の口に銜えさせる。老人はライターで私が銜える煙草の先に火を点ける。私は先端から白い煙の出る煙草を口に銜えたまま、もぐもぐとくぐもった発音で、「ありがとうござます」と何とか老人に礼を言う。私は煙草を肺一杯に吸い込み、煙を吐く。私はゆっくりとアスファルトの上に腰を下ろし、管理人室のプレファブの壁に凭れる。

「私は中にいますから、何か御用が御有りでしたら、遠慮せずに呼んでください」と老人が言う。私は煙草を銜え、もぐもぐとくぐもった発音で、「ああ、はい。ありがとうございます」と礼を言う。

 赤い平和な夕焼け空に羽ばたくカラスの群れが小さな黒い影のように横切り、陽気な声で啼く。


 私はパトロール・カーのサイレンの音で目を覚ます。また何時の間にか眠り込んでいたようだ。パトロール・カーで到着した警察官が私の前にしゃがみ込み、私の眼を見て、「どうしましたか?」と迷いなき張りのある声で訊く。

「仕事場の銀座の交差点で突然何者かに拉致されまして、この近くの倉庫に監禁されていました」

「立ち上がれますか?」

「後ろ手に手錠をかけられてまして、一寸立ち上がるのが困難なんです」

「手錠をかけられてるんですか。どれどれ。ああ、本当だ。じゃあ、一寸起こしますよ」と警察官は言って、私の両脇に両腕を通し、抱き抱えるようにして、「よいしょ!」と掛け声をかけて立ち上がらせる。「これから署に同行して戴いて事情をお聞かせ願いたいんですが、宜しいでしょうか?」

「ああ、はい。判りました」

 私は警察に保護され、パトロール・カーに乗って近くの警察署に向かう。


 私は警察で事情聴取を受けると、病院で簡単な治療を受けてから、パトロール・カーで自宅に送り届けられる。

 その後、私の両手に嵌められた手錠が三日前から行方不明になっていた横浜の警察官の物であるのが判った。倉庫内で私の背後で虐待されていた男がその警察官である可能性は強い。現場にあった血痕や毛髪をDNA鑑定すると、行方不明になっていた横浜の警察官の物と一致した。

 その後、行方不明になった警察官の捜査が続行された。私は病院の精神科で簡単な診察を何度か受けた。二日後には早くも職場復帰した。問題なのは犯人が捕まらない事だ。あいつらが捕まらない事には何時また拉致されるか判らない。それを考えると私の不安や恐怖は一向に治まらない。仕事でもしていないと、不安や恐怖に押し潰されてしまう。一時実家に帰ろうかとも考えた。この精神状態で実家になど帰ったら、家族のいる安心の中で一日中蒲団を被って引き籠りになってしまう。

 毎朝酷い悪夢で目覚め、日中は背後への異常な不安に悩まされる。恋人には何の連絡もしていない。向こうもどういう訳か電話一つかけてこない。私は恋人の笹野夏輝に電話をかける。

「ああ、夏輝?」

「ああ、清川さん、忙しいんでしょう?あたし、気を遣って、電話するのを慎んでいました。大変な目に遭いましたね。御体は如何ですか?」

「ああ、一寸、大変な事に巻き込まれてね」

「TVでニュースは見ました」

「そうか。なら、話は早い」

「あんまりあの事件については話したくないんでしょう?」

「そうなんだ。自分の中で封印したい出来事なんだよ」

「別に嫌な事を無理に話す必要はありませんよ」

「色々と気遣わしてゴメン」

「恋人なら、それくらいの事は当然です」

「どんな事が起きようと、君だけは無事でいて欲しい」

「あたしの心配なんてしないでください。あたしが清川さんの心のケアをしなければいけないんです」

「ありがとう。しばらく様子を見て、会わないようにしたいんだ」

「判りました。辛抱して時期が来るのを待ちます」

「夏輝、愛してるよ」

「あたしも清川さんの事愛してます」

「それじゃあ、また連絡するね」

「はい」


 夜中に煌々と灯を点けたまま、アパートメントの部屋の炬燵に足を入れ、仰向けに横たわっている。何事もなく過ぎる時間の中で奴らの事を想っている。得体の知れぬ敵に対し、私はただ怯えるばかりだ。事件以来、絶え間無く張り詰めたような不安の中にいる。

 玄関の戸のノブを回す音が聴こえる。私は左隣にあるダイニングキッチンの方に顔を向ける。私は暗がりの玄関の戸をじっと見つめる。こんな時間に誰だ。私は不安な気持ちで玄関の戸の様子を窺う。玄関の戸のノブを回す音が一向に止まない。私は左肘を突いて半身を起こす。玄関の戸のノブを回す音は確かに聞こえている。ノブの回し方がぎこちない。子供かな。あいつらの仕業だろうか。誰かがガッ、チャッ、ガッ、チャッと、休まずもたもたと鍵のかかったドアーのノブを回している。私は真上にある蛍光灯の白い紐に手を伸ばして引く。私は灯の消えた部屋の中でさっさと眠る事にする。玄関の戸のノブを回す音が一向に止まない。私は自分の不安な現実から逃れるように眠り入ろうとする。耳が冴え、玄関の戸のノブを回す音から意識を離せない。突然、隣の部屋の玄関の戸を蹴る騒音が隣人の部屋との壁越しに聞こえてくる。私は真っ暗な部屋の中で、恐怖のあまり炬燵から飛び起きる。何だ!何が起きたんだ?

 私は物音を立てずにそっと炬燵から出る。忍び足で玄関の戸に近づく。玄関の戸のノブは動いていない。玄関の戸に近づくと、ノブを回す音が消える。私は玄関の戸の覗き穴から外の様子を窺う。アパートメントの共用廊下にアラブ系の黒装束の外国人達が五、六人いる。その中の一人が私の部屋の玄関の方に振り返る。穴から覗いている俺の眼を黒装束の外国人の一人が反対側の穴から覗き見る。まるで私の姿が見えるかのようににやりとこちらに向かって笑う。私は驚いて背後によろめき、玄関に尻餅を搗く。玄関の戸の外では外国人達が聞き覚えのない外国語で話をし、わっと大笑いする。どうやらあいつらではなさそうだ。

 アパートメントの角部屋に住む私の唯一の隣人は三〇代ぐらいの極普通の勤め人だ。とても物静かな独身男性である。アパートメントは二階建てである。隣人との関わりは朝のゴミ出しの時に挨拶を交わす程度だ。それ以上話すとしたら、天気の話をするぐらいだろう。隣人はいつも七三に分けた清潔そうな短い髪型で、銀縁の四角い眼鏡を掛け、そこそこ良いスーツを着ている。顔は自信に満ちた知的な印象を受ける。

 私は玄関から離れ、炬燵に戻る。私は暗い部屋の中で目を瞑り、再び眠る事に集中する。階下の一階と同じ高さの路上から車のホーンの音が聞こえる。その途端、共用廊下から隣人の玄関の戸を破壊するような騒音が聞こえ、「来るな!来るな!誰か助けてくれ!」と隣人が部屋の中で叫ぶ声がする。私は炬燵から出て、固定電話の受話器を手に取ると、一一〇番を押し、急いで警察に通報する。

「頼むから許してくれ!殺さないでくれ!」と隣人の叫び声が聞こえる。

『もしもし、どうしました?』

「ああ、すみません。隣の人が大変な目に遭ってます。助けてくれとか、殺さないでくれって助けを求めてます」

『お名前とご住所を教えて戴けますか?』

「ああ、ええと、名前は清川正人です。住所は新宿区**町*ー*ー*の三日月荘二○三です」

『それでは直ぐにそちらに向かいますので、くれぐれも家の外には出ないようにしてください』

「はい、判りました」と私が言うと、警察は直ぐに電話を切る。私も電話を切る。

 隣人の声がしない。共用廊下からの物音もしなくなった。私は玄関の戸にそっと近づき、戸の覗き穴から再び外の様子を窺う。

 共用廊下には誰もいない。斜め左の隣人の玄関の戸が外され、共用廊下の手摺のある壁に立てかけてある。隣人の様子を見に行こうか。いいや、うっかり家の外に出て、中からあの外国人達が出てきたら殺されるかもしれない。私は炬燵の部屋に戻り、隣人の部屋側の壁に耳を当てる。何の話し声もしない。殺されたのだろうか。あいつら何者だろう。あいつらと同じ集団なのか。私は炬燵に戻り、恐怖に震える体を温める。

 あの出来事以来、背後に壁がない事がとても不安だ。酔い潰れて誰かに連れて行かれるような事を想うと、怖くてうっかり酒にも酔えない。この三日間、私は一切油断の出来ない緊張した精神状態で過ごしてきた。

 警察遅いなあ。

 玄関のインターフォーンが鳴る。私は急いで玄関に向かい、玄関の戸の覗き穴から外を見る。

 警察だ!私は玄関の戸を開ける。

「隣ですよ!早く様子を見てください!」

「通報された清川さんですか?」

「はい、そうです」

「隣の部屋には誰もいません。御安心ください」

「ああ・・・・、そうなんですか・・・・」

「大丈夫ですか?気分が悪いんじゃありませんか?」

「ああ、いやあ、一寸動揺してまして」

「犯人はどんな人物で、何人いましたか?」

「えっとう、黒装束のアラブ系の外国人が五、六人いました。その中の何人かは黒いサングラスをかけてました。背丈は皆、一七〇センチぐらいの同じような背恰好で、全員痩せ型の体形でした」

「髪型は?」

「普通の勤め人みたいな長さの短い髪でした」

「年齢は幾つぐらいでしたか?」

「ううん、多分、その中の一人は二〇代ぐらいなんじゃないですかね。私が戸の覗き穴から外の様子を見ていたら、覗き穴の向こうから私に向かって笑いかけたのがいるんです。その人物が二〇代ぐらいじゃないかな」

「他の者は幾つぐらいでしたか?全員男性でしたか?」

「いやあ、他の奴の年は全く判りません。全員男だったかどうかも判りません」

「そうですか」

 事情聴取している警察官の背後で大勢の警察関係者が隣室を出入りしている。

「それでは通報と情報提供をして戴き、ありがとうごさました」と警察官は言い、玄関から少し離れてトランシーヴァーで何処かに報告する。私は玄関の戸を閉めて部屋に戻る。私は炬燵に足を入れ、再び冷えた体を温める。私はゆっくりと目を閉じ、また直ぐに目を開ける。気持ちが落ち着かない。不安で一杯だ。これでもう本当に安心して良いのか。警察は本当に私の身を護れるのか。あいつらは奴らと関係ないのか。


 一週間後、私は恋人の笹野夏輝と地方へ小旅行に出かける。夏輝は私がプロポーズした婚約者である。

 目的地に到着した我々は山の麓にある旅館に宿泊する。そこで我々は一緒に温泉に入り、風呂上りに浴衣姿で涼しい夜風に当たる。我々は星空を眺めたり、よく冷えた美味しいビールを飲んだり、夕食時に地酒を飲みながら、旬の野菜天ぷらを食べたり、楽しく結婚式や新婚旅行について語り合う。

 翌朝、我々は宿の近くにある湖を見に行こうと、二人で空気の冷たく澄んだ霧深い森の中を歩く。夏輝は野生の栗鼠が樹木の幹を駆け上がる様や、珍しい鳥が木の枝に止まって囀る様を見かけて大はしゃぎしている。我々は大きさの異なる綺麗な色形をした花々や茸の様々な色や模様を写真に撮って楽しむ。私は夏輝が楽しそうにはしゃぐ姿を見て、夏輝と一緒にここに来て良かったと思う。この自然豊かな森を抜けたら、大きな美しい湖があると聞いている。私は夏輝の前で黙々と森の土を踏み締めて歩く。

 私はふと夏輝の声がしない事に気づく。私は夏輝がちゃんと私の後についてきているか振り返って確認する。私は不安な気持ちで周囲を見回す。いない!夏輝がいない!何処か木陰で用でも足しているのか。私は霧深い森の中で夏輝の名を大声で呼ぶ。夏輝の返事はない。私は夏輝を捜し歩く。私の呼び声に夏輝の返事はない。何処かで倒れたか、意識を失っているのか。猿が椰子の木の高い所から椰子の実を人の頭の上に落として気を失わせるような事がある。崖から転落したとか、深い穴に落ちたとか、何か大変な事故が起きたのか。誘拐?まさか!まだ朝早く明るい時間帯だ。私は夏輝を見失った周辺を捜し歩く。夏輝はフェアリーテイルの主人公の少女のように、綺麗な珍しい蝶蝶を夢中になって追う内にどんどん私から離れていったのか。夏輝は不意に目的意識が逸れて、勝手にふらふらと離れていくような女ではない。勿論、そういう面が全くないとは言えない。私とて夏輝の全てを知っている訳ではない。

 原色の花々が辺り一面に点在する。夏輝は花の写真を撮っていた。スマートフォンで写真を撮る事に夢中になり、花々が咲き乱れる方に歩いていったのか。夏輝は湖に行く予定があった事も知っている。赤や橙の花々が咲き乱れるこの辺りに来たのなら、どんどん奥地に惹きつけられる事もあり得る。強烈な花の甘い香りが漂ってくる。木々の形に野生味が増し、険しい様子を見せ始める。ああ、ここで崖に足止めを喰らう訳か。ここから転落する可能性もない訳ではない。崖の向かいに素晴らしく大きな滝が見える。滝の飛沫が風に運ばれ、ひんやりと顔にかかる。滝の下方に大きな虹のアーチがかかっている。ここで引き返す事もあろう。ここから私の歩く先に出ようと、斜めに向かう事はあるか。毒キノコでも口にして何処かに倒れているのか。綺麗に来た道を引き返して私に追いつこうとするなら、木々の間を縫うように歩く事はしないだろう。ここは私も綺麗に来た道を引き返そうか。私も方角が判らなくなってしまった。ああ、腹が空いてきた。夏輝も空腹を覚えた頃だろう。自然の果実などを口にしたなら、腹をこわすかもしれない。喉も渇いてきた。足の方はまだ当分歩ける。森の中を彷徨い歩く裡に湖の畔に出る。岩場に清水が流れている。そのまま飲めるのか。都会育ちには自然環境は未開の領域だ。水道はないのか。

 湖の周囲は広い。私はここに出るつもりで歩いてきたのではない。ああ、対岸に釣り人がいる!私は湖を回り込み、釣り人に近づく。

「あのう、**旅館にはどの辺りから向かうと良いんでしょうか?」

「**旅館は向こうだよ」と釣り人が私が回り込んだ左回りとは反対の右回りの中間地点を指差す。

 夏輝も方向が判らなくなった可能性がある。

「ここに肩まで髪に黄色いワンピースを着た二十代ぐらいの女性が来ませんでしたか?」

「さあ、見かけませんでしたね」

「そうですか。ありがとうございます」

 ここは一端旅館に戻ろう。

 結局、私は夏輝を探し切れず、昼の一時過ぎに宿に戻る。私だけ宿に引き返した事が裏切りに思えてくる。宿の女将が玄関に出てくる。

「御連れの女性が先に宿を出られましたよ」と女将が言う。「御連れのお客さんから御手紙をお預かりしています」

 私は女将から夏輝の手紙を受け取る。私はロビーのソファーに腰かけ、手紙を読む。

『清川正人様へ。私、今の清川さんには存在しない女なんだって思いました。私、森の中で一人浮かれて清川さんに話しかけてたの。一寸おしっこするから待っててって言ったのに、おトイレ済ませたら、もう清川さんがいなかったの。判る?必要ない女ならば、そう言ってくれれば良いの。清川さんは誰でも良いから自分を見守ってくれる人を傍に置きたいんでしょ?私、こんな関係がずっと続くなら別れたいの。清川さんが一番私を必要としてくれている時期にこんな話をするのはどうかとも思うんだけど、誰でも良いなら、私を選ばないで!勝手な女でごめんなさい。さようなら!どうかお元気で!』 

 私はスマートフォンで夏輝に電話をかける。

『はい、もしもし、笹野ですが』と夏輝が電話に出る。

「ああ、夏輝?清川です。一体、どうしたんだよ!手紙は読んだよ」

『手紙に書いた通りよ。頼りにならない女でゴメンなさいね』

 何とかして夏輝を留まらせようと、言葉を探す。夏輝の手紙の内容を思い出しながら、夏輝を引き止める理由が自分を見守ってくれる人を傍に置きたいだけである事に気づく。

「夏輝の気持ちはよく判ったよ。俺にはもうお前に何も言ってやる事が出来ない。お前は例の事件の影響下のある俺とは付き合いたくない訳だろう?」

『そんな!でも、あたし達、別れるべきよ』

「うん」

『じゃあね。元気でね』

「うん。お前も元気でな。幸せな結婚をしろよ」

『うん』と夏輝は言い、電話を切る。

 私は部屋に戻り、渇いた喉を潤す。旅館の女将が部屋に来て、「食事はどうなさいますか?」と訊く。

「ああ、では、食事をお願いします」

「畏まりました」と女将は言って、部屋を去る。

 昼食には鳥の唐揚げや山菜の天ぷらが出る。私は合掌し、「いただきます」と言って、食べ始める。空腹とは言え、本当に美味い飯だ。鳥の唐揚げは甘辛く味付けがされている。甘辛の味付けが癖になりそうだ。新鮮な野菜天ぷらに添えられたタレも温かいだし汁風のさっぱりとした味わいがとても良い。雑穀米の御飯も味わい深く、見た目にも食欲をそそる。

 腹ごしらえもしたし、汗を流しに温泉にでも入るか。気晴らしに予定通り二泊泊まっていこう。私は自分のためにここに来たのだろう。夏輝は私に愛のない事を感じ取った。私自身本当に気の休まる時がない。何時また拉致されるか知れないと思うと不安で一杯だ。私はあの警察官のように殺されるのか。あいつらは私一人口封じに殺す事など訳ない事だろう。

 私は脱衣所で服を脱ぎ、ひんやりと肌寒い入浴場に入る。軽く湯で体を流し、熱い湯に浸かる。視界は湯気で白くぼやけている。体の疲れが熱い湯に癒される。精神的にクタクタに疲れている。ああ、良い湯だ!久々に気が紛れる。


 温泉の洗い場に素っ裸で仰向けに寝転がっている。私は温泉に入り、悴む脚を温める。温泉の照明の光に虫が群がっている。影のように黒い三人の男が温泉に入ってくる。目の白目までも黒いのか、容姿の細部がまるで判らない。奴らなのか。ぼんやりとした影のような三人組だ。三人は温泉の左端に並んで腰を下ろしている。彼らの顔がよく見えない。向こうはこっちの視線に気づいているのか。私は視線を湯に落とし、俯いた視界の端で向こうの出方を窺う。風呂を出れば良いのかと、素早く湯船から立ち上がる。 

 私はふと目覚める。温泉の湯の中でうたた寝をしていたのか。起きていれば、絶えず不安で、眠れば、悪夢を見る。悪夢だろうと夢は夢に過ぎない。絶え間ない不安と恐怖で体の芯まで凍えている。ゆっくりと体の芯まで温まろう。何故、奴らが追ってくると思い込んでいるのか。私は無事逃げ果せたのではないか。この今の自分の安否の確かなところが判らない。考えても判らない事をあれこれ考えても仕方ない。もっとグッと深く寛がねばならない。温泉に入っている間ぐらい、ゆったりと寛げば良い。


 森から河原に出ると、流れの急な川の向こう岸に夏輝が立っている。

「こっちに来れるか?」と大声で夏輝に訊く。川の音で声が聞こえないらしい。夏輝も何か言っているようだ。仕方ない。俺が向こうに行き、夏輝を背負ってこちらに戻ってくるしかない。私はズボンを膝上まで上げ、川に入る。川の真ん中辺りで川の底が深くなる。夏輝が不安げな眼差しで私を見守っている。私は夏輝を救出しようと川の中を進む。私は苔に足を滑らせ、川の中に倒れる。夏輝は両手で私を押し返すような身振りをする。私が訳が判らずにいると、夏輝は踵を返し、対岸の森の方へと駆けていく。私は何とか川の中から起き上がる。川の流れが激しく、これ以上前には進めない。夏輝は森の中に姿を消す。背後に恐ろしい気配を感じ、背筋に寒気が奔る。咄嗟に振り返る。

『写真撮るよ!』と姿なき子供が明るい声で言う。私はカメラのフラッシュの白光を顔面に受ける。

 私はハッとして目覚める。危うく湯に溺れるところだった。私は急いで湯船から出て、服を着る。温泉浴場の暖簾を潜ると、直ぐ右にジュースの販売機がある。私は販売機で缶の『コカ・コーラ・ゼロ』を買う。私は販売機の前で『コカ・コーラ・ゼロ』を飲む。はっきりしない口の中が炭酸に焼かれ、胸から首へと爽やかな気持ちが上昇する。

 私は部屋に戻る。私は窓辺の椅子に腰かける。窓辺の木の柵に烏が一羽飛んできて止まる。私は烏に自分の不安を読み取ってもらおうと心を開く。烏は素早く飛び立つ。何でこんな酷い目に遭うのだろう。烏にも忌み嫌われた。額の辺りにまた疲れが溜まっている。


 カードのゲイムは終わっている。私はロイヤル・ストレイト・フラッシュで勝った。蒼白い顔をした三人の男はそれぞれ手持ちの札を凝視している。

「ゲイムは私の勝ちですね。これで終わりです」と私がそれとなく三人に言う。三人の事はよく知っている。昔からの親しい仲間だ。いやっ、待てよ。正確には違う。最初は三人共に人間的な癖が強くて、付き合うにも酷く苦労したんだ。よく思い出せない。そもそも何時の間にこいつらとゲイムなどしていたのか。記憶がはっきりしない。名前は何だったか。思い出せない。背筋に寒気が奔る。ああ!なるほど!落ち着け!仕方ないだろ!正面の白目を剥いた男は助手席のあの男だろう。助手席にいた男が奇妙に冷静な口調で、「あなたが買って、我々のゲイムが終わる筈はないだろ」と言う。

「ほらっ、立て!」とあの時、背後から迫った男が私の右脇に腕を通し、もう一人の見知らぬ男が私の左脇に腕を通す。私はよろけながら、二人に立ち上がらされる。私は助手席の男の後から赤茶けた暗い照明の廊下を進む。素足で歩く廊下は泥でぬかるみ、足首まで冷たい水が溜まっている。不潔なモーテルだ。前方には豆電球一つの灯に照らされた電気椅子の死刑室が見える。私は助手席のあの男に、「嫌です!死にたくないです!許してください!」と必死に泣き声で命乞いをする。

「ビビーッと良い痺れが来て、頭もショートするんだ。ぽっくりと逝けるよ。楽しみにしてろ」と助手席の男が俺の前で背を向けたまま言う。

「お願いですから助けてください!」と私は泣きながら赦しを請う。

「何で俺にお願い事なんかするの?そんなに人に甘えちゃいけないよ。お母さんに甘やかされて育てられたんだろ。そんなだからビーッとされるんだよ。判った?」

「ごめんなさい!赦してください!」と助手席にいた男の慈悲の心に訴える。

 私は泣きながら目覚める。窓から赤い夕焼け空が見える。私は窓辺の椅子に腰かけたまま、煙草に火を点ける。喫煙は幸せだった頃の思い出と沢山繋がっている。煙草も一日二箱吸っていたのが一日に三本ぐらいに減った。一日中不安に悩まされ、煙草を吸う事まで忘れてしまうのだ。鞄から『ポテト・チップス』のコンソメ味を取り出し、再び窓辺の椅子に腰かける。寝ても覚めても悪夢の中にいるようだ。警察は奴らを捕まえられるのか。あんな白昼堂々と路上にいる者を拉致する人間達だ。次から次へと拉致して殺人を繰り返しているのかもしれない。私のような逃げた獲物を追うような事は奴らの楽しみを増長させるに違いない。『ポテト・チップス』を平らげ、腹を満たすと、スマートフォンで小田和正の『自己ベスト』を聴く。


 私は森の奥へと夏輝を探しに出かける。風の音のような微かな耳鳴りがする。何かが言葉もなく行く手の危険を伝える。何が何でも夏輝を探さなければいけない。夏輝は必ずこの近くにいる。清らかな森の様子に悪しき気配が帯びてくる。足下には赤や青の無数の原色の蛇が蠢いている。蛇を踏まずに前に進む事は出来ない。樹々の根元には結跏趺坐を組んだ修行者達の白い木乃伊が座している。何処か遠くから経を読む女の声が聞こえてくる。よく聴くと、夏輝の声だ。私は草木を掻き分け、先へと進む。霧がどこからともなく漂ってくる。ひんやりとした空気が頬を濡らす。私はすっかり濃い霧に包まれ、辺りの様子が判らなくなる。木の根を踏みつけているのを足の裏に感じる。聞き慣れぬ経を読む夏輝の声の方向が不確かだ。まるで森全体が私を軸にして回転しているようだ。私は元来た方角も判らなくなる。何か不確かな相手にずっと意地悪されているような気持ちになり、涙が溢れる。微かな耳鳴りが耳を劈くように高くなる。その耳鳴りのせいで心身のバランスが崩れる。私はよろめいて、土の上に膝を突く。貧血を起こし、目の前が真っ暗になる。ゆっくりと眼の中に光が射し、また濃い霧の中で意識が冴えてくる。夏輝の経を読む声の方角が前方に定まる。私は足下に注意しながら、夏輝に近づこうと前に進む。濃い霧の中から抜け出すと、一寸先は崖で、私は遥か地の底を見下ろす。背筋に寒気が奔る。危うく転落するところだった。

「清川さん、私はここよ」と崖の中腹辺りから夏輝の声が言う。「清川さん、あなたの想いが私の体を大きくして、洞窟の穴の中で体が引っかかってしまうの!私を想わないで!心を無にして!」

 コップの中の水をストローで泡立てるような音が段々と大きくなり、大きな低い男の笑い声に変わる。助手席にいたあいつの声である。姿はなき声が立ち塞がる。私は声の壁を突き抜け、「夏輝、今、君のいる洞窟に下りていくから待ってろ!」と崖を見下ろして言う。

私は急な崖の斜面を下りていく。岩壁は苔でぬかるみ、滑り易い。

「清川さん、今、御日様が出ているの?それとも御月様が夜を照らしているの?」

「外の様子が見えないのか?」

「ここは真っ暗闇よ」

「夜だよ。月は見えない」

「清川さんの後ろで笑っている女は誰?」

 私の背筋におぞましい寒気が奔る。私は背後を振り向かず、慎重に崖を下りていく。頭の直ぐ後ろから悪しき女の笑い声が聞こえる。私は苔に足を滑らし、崖から転落する。

 私はハッとして目を覚ます。目覚めると、外はもう薄暗い。窓辺の椅子の上で何時の間にか居眠りしていたようだ。私は煙草を一本口に銜え、一〇〇円ライターで煙草の先に火を点ける。スマートフォンで時間を確認すると、夕の四時を過ぎている。夏輝は一人で家に帰ったのか。私は夏輝との恋が終わった現実も受け止められていない。私の心には何時また奴らに拉致され、殺されるか判らないという不吉な妄想が渦巻いている。私は奴らに泳がされているのか。奴らはとっくに私を逃がしているのか。私の身は安全なのか。私の心は絶え間ない死の恐怖に怯え、奴らへの恐怖心に縛られている。こんな精神状態で生きる人生が幸せな筈がない。奴らは悪魔なのか。私の不安が想像上の悪魔を作り上げているのか。私は静かに目を閉じる。神様、私は奴らが憎いです。奴らが警察に捕まるか、死ねば良いと願っています。あいつらは悪魔でしょう?私の心は悪魔の法則に縛りつけられています。人間が悪魔などに打ち勝てるものでしょうか?神様は悪魔の存在規模より大きな存在なんでしょう?神様の宇宙に悪魔のような人間が潜んでいるんです。私はそれが怖いんです。神様には悪魔が小さ過ぎて見えないんですか?と頭上の神様に語りかける。

 あの事件により、私の被害者としての存在はTVや新聞で日本全国に知れ渡っている。私の身の安全は警察や同じ日本にいる人達が注意深く見守ってくれている。

 私は足下に落ちた『ポテト・チップス』のコンソメ味の空袋を拾い上げ、ゴミ箱に捨てにいく。

 私は浴衣を携え、再び気分転換に温泉浴場に向かう。私は温泉の脱衣所に入り、脱いだ服を籠に入れ、入浴場に入る。軽く湯を体に流し、湯船に浸かると、どっと心配不安の気疲れが溢れ出る。湯の温もりに浸り、ゆっくりと心を落ち着ける。私は心を無にする努力をする。湯が温かくて気持ちが良い。毛穴から不安や恐怖が抜けていく。私は不意に目を覚ます。私は旅館の部屋の窓辺の椅子に腰を下ろしている。私は何時の間にか眠り込み、夢を見ていたのか。酷く現実認識が混乱している。悪夢ではなかった。微妙に受け入れ難い現実になっている。何処からが夢だったのか。頭が混乱して思い出せない。私は再び目を覚ます。温泉の湯船の中だ。ああ、私は湯船の中で眠り込んだ訳か。

 私が風呂から上がると、夕食の時間になる。夕食はすき焼きだ。仲居さんが夕食を出して、部屋を去ると、「いただきまあす」と言って、胸の前で合掌する。随分と豪勢なすき焼きだ。肉が大人の掌から垂れ下がる程大きい。国産の和牛らしく、とても柔らかくて美味しい。よく冷えたビールを喉を震わせて飲む。

 夕食を平らげ、煙草に火を点ける。畳に横になり、不慣れな寝煙草をする。昔、家での喫煙が台所の換気扇の前になる以前、よく父がこうして居間で寝煙草をしていた。何ともバランスの悪い姿勢の喫煙である。火の元が気になって、碌に味わえない。私は煙草を灰皿に押しつけ、火を消すと、部屋を出て、階下に降り、玄関脇のジュース販売機で微糖の缶コーヒーを一本買う。私は缶コーヒーの栓を開け、ゆっくりと缶コーヒーを味わう。缶コーヒーを飲み干すと、空き缶をゴミ箱に捨てる。缶コーヒーを買うのに、これで一〇〇円を使った訳だ。この出費を自ら抑えられる人もいる。学生の時に中古レコードを買い集めていた頃は、一枚でも多く中古レコードを手に入れようと、この出費を頑なに抑える事が出来た。この軽い気持ちで缶ジュース、缶コーヒーを飲む出費は手頃な気分転換になる。

 ロビーにはテーブル・ゲイムが四台置かれている。四台とも家族連れの団体客が賑やかに子供達と一緒に占領している。事件前はあんな風に夏輝との子と遊んでいる自分を自由に夢見る事が出来た。今は違う。本当なら、夏輝との恋を再び続ける事だって出来るのだ。背後から黒いビニール袋を頭に被せられ、『騒ぐと殺す』と言われた時に、命を懸けてでもあの黒いビニール袋を払い除けて、犯人の顔を見るべきだったのか。この絶え間なく不安な精神状態を殺されずに済んだと解すべきなのか。これでは何時奴らが近づき、擦れ違っても判らない。

 私は再び階段を上り、自分の部屋に戻る。私は窓辺の椅子に腰かける。何か心癒される音楽を聴こう。スマートフォンに取り込んだエンヤのアルバム『ア・デイ・ウィズアウト・レイン』を直出しする。座敷に置いてある鞄からかりんとうを一袋出す。それを持って窓辺の椅子に再び腰かける。かりんとうのほろ苦い黒糖の味が悲しみの心に染み入り、心癒される。美味しい!本当に警察はあいつらを逮捕出来るのか。アパートメントの隣人を拉致した外国人達は何者だろう。

 二十代前半ぐらいの女性が部屋に入ってくる。女性は部屋を見回す。性格の明るそうな、なかなかの美人女性である。その女性が窓辺の椅子に腰かけた私を見る。女性は部屋の中を再び見回す。

「何か?」と私が声をかける。

「えっと、ここ、私の部屋じゃありませんか?」と女性が言う。

 ああ、私は他人の部屋に勘違いして入ったのか!私は椅子から立ち上がり、居間に置かれた鞄を見下ろす。

「ええと、この鞄は私のです。ここにあなたの持ち物はありますか?」

「ああ、いえ!済みません!部屋を間違えました!」と女性は言って、慌てて部屋を出ていく。

 やはり、部屋は間違えていなかった。微妙に混乱の長い人だった。私は本当に大丈夫なのか。人の混乱した現実認識をそのまま受け入れて、自分も混乱している。私には他人の部屋に間違っていつくような確認不足がある。私は何事も起こらないようにと祈るような気持ちで日々を生きている。私は鞄の中を調べる。鞄の中の下着も確かに私のだ。芥川龍之介の『羅生門・鼻』の新潮文庫も私のだ。私は部屋を間違えてはいない。この旅館に来て畳に置いた鞄も一度も移動させていない。旅館の人が何かの理由で別の部屋に私の荷物を運ぶ事はあり得る。あの女性は部屋を間違えたのだ。私は間違いなく自分の部屋にいるのだ。私は部屋を出て、廊下から部屋の入口を見る。大した確認もせずに見知らぬ旅館の部屋に入っているな。夏輝の後に続いて、何も考えずに部屋に入ったのだ。細かい旅館の作りは何も気に留めていない。部屋番号は二○三か。この部屋に番号がある自体知らなかった。二階建ての旅館の階段を上り、廊下の左突き当たりの部屋とだけ記憶していたのだ。私は再び部屋に入る。

 隣の部屋には蒲団が敷かれている。私は歯を磨き、早目に寝床に入る。寝ても覚めても悪夢なら、眠っている方が良い。奴らの事は終わったのではないか。何時までも悪夢のような日々を続けているのは私の方ではないか。何でこんなところに一人でいるのか。夏輝が一緒だから出来た気分転換であろう。ここが安全な場所なら、ずっとここにいたい。いっそ精神科に相談しに行こうか。精神安定剤で不安を解決するのか。それは違うだろう。


 夜明けの海が青白く光り輝いている。私は温かな砂浜に横たわっている。周囲に壁がない。私は背中の砂を搔き出し、砂の中に体を埋めようと試みる。寝ながら一搔きずつ穴を掘っていたら、時間がかかって仕方ない。私は起き上がり、砂浜に大人が一人横たわれるぐらいの穴を掘っていく。何故、無防備に奴らのいる背後に背中を晒しているのか。じゃあ、どうすれば良いんだ!

 私は酷い苛立ちの中で目を覚ます。私は蒲団から出て、窓辺の椅子に腰かけ、煙草に火を点ける。朝食を済ませたら、ここを出る訳だ。背後から刃物で背を刺されて死ぬとか、突然、背後から車に轢かれて死ぬ訳か。何処かに身を潜めて、怯えながら生活するのか。何れ殺されるにしろ、死に対する心の準備がいるのだ。何時殺されるか判らないのならば、日々の生活がある。トイレにも行くし、洗濯もしなければならないし、食事も用意しなければならない。

 俺は洗面と歯磨きと髭剃りを済ますと、再び窓辺の椅子に腰かけ、煙草を吹かす。

 部屋に朝食が届く。私は座敷の座蒲団に腰を下ろし、女中に会釈する。何が起きても良いように腹ごしらえをしておかないといけない。女中が出ていくと、「いただきまあす」と小声で言って、マグロの赤身の刺身を山葵醤油につけて食べる。山葵醤油をかけたとろろ芋を茶碗の米にかけ、搔き込むようにして温かい飯を味わう。大根の漬物を齧り、ナメコの味噌汁を吸う。飲み易い温度のほうじ茶で喉に詰まった米を流し込む。

 朝食を済ますと、コンソメ味のポテト・チップスを鞄から一袋出す。それを持って窓辺の椅子に腰かける。幾つになっても御菓子がいる。

 

 私は宿を出ると、荷物を持って駅に向かう。駅に着くと、昨日、間違って私の部屋に来た女性がプラットフォームに立っている。背を向けた女性が私の方に振り返る。

「ああ、昨日は失礼しました」と女性が昨日の侘びを入れる。

「ああ、いえいえ、誰にでもある勘違いですよ。僕もてっきり人の部屋にいるのかと思いました」

「東京の方ですか?」

「ええ。あなたは?」

「私、出身は長崎なんですけど、休暇を取って、東京から温泉に入りにきたんです」

「お一人で?」

「ええ」

「私は婚約者と来たんですが、ここにいる間に婚約を破棄されて、帰りは一人になりました」

「そうなんですか。じゃあ、今は彼女もいない訳ですね」

「まあ、そういう事になります」

「そうか」と女性は呟いて微笑む。

 間もなく電車が来て、我々は同じ電車に乗車する。我々は四人がけの向かい合わせの席の窓側に向き合って座る。女性は慌てて席を立ち、「ああ、相席して宜しかったのかしら?」と言う。

「ああ、僕はそのつもりでいました。あなたの後に着いて普通に相席してました」

 女性は明るい顔で、「そうですか」と言うと、再び席に腰を下ろす。「あたし、あんまり男性に慣れていなくて、お話も碌に思いつかないんです」

「そんなに気を遣わないでください。何処にでもいるような男です」

「いえいえ、そんな!」

「御名前は何て仰るんですか?」

「今里雪花と申します」

「ああ、僕は清川正人と言います。宜しくお願いします」

「お幾つなんですか?」

「二十六です」

「ああ、じゃあ、あたしの方が一つ上ですね」

「二十七歳ですか」

「ええ。学校は何処の御出身ですか?」

「都立の○○高校です」

「私は長崎の○○女子高等学校です。お互い高卒ですね」

「ええ。お仕事は何をなさってらっしゃるんですか?」

「旅行会社に勤めています」

「僕はカメラマンのアシスタントです」

「あたし、よく天然ボケって言われるんです」

「へええ、可愛らしいじゃないですか」

「そうですか?」と今里さんは明るい顔で言う。

「電話番号とメールのアドレスを交換しましょう」

「ああ、はい」

 我々は電話番号のメールのアドレスを交換する。

「あたし、ヴィジュアル系のバンドが大好きなんですが、清川さんはどんな音楽を聴かれるんですか?」

「僕は洋楽派です。本当は日本語の音楽に満足したいんですが、日本語の音楽だけでは何かもの足りない。僕もダークで幻想的なヴィジュアル系の音楽は嫌いじゃありません。日本語の音楽を聴くとなると、僕も確かにヴィジュアル系を聴きますよ」

「ああ、それは気が合いますね。清川さんは御自分の頭の中の音楽に失望していないんじゃありませんか?」

「ああ、確かに現役のデビュー組のような意識はありますね」

「あたしはもう失望しました。九十年代に入った頃に自分の音楽は八〇年代のマイナーなバンド・サウンドの底辺だって気づいたんです」

「歌詞は書かれますか?」

「書きはするんですけど、宗教的な真理を沢山盛り込もうとするようなセミ・プロ的な歌詞なんです。自分の世界と呼べるような詩的な個性は全くありません」

「信仰の方なんですね」

「ええ。そう言われるのが私の喜びです」

「実は僕は誘拐監禁された事がありまして、それ以来、顔も知らない誘拐犯に対する不安や恐怖に悩まされているんです。何時殺されるか知れないと、絶えず怯えて生活しているんです。婚約者はそういう私に愛がないと判断して、婚約を破棄したんです」

「あたしで宜しければ、あたしが代わりに清川さんを守ります。あたしは自分の信仰の証として清川さんを守りたいんです」

「それは心強いです。頼りない男ですが、宜しかったら、結婚前提でお付き合いしてください」

「はい。宜しくお願いします」と雪花が笑顔で言う。

「では、デートの約束をしても良いですか?」

「ええ、勿論。今度、電話してください」

「ああ、はい」

 雪花は話し易い女性だ。

「あたし、恋愛と結婚だけは同じ宗教の信者とはしたくないって思っていたんです」

「へええ、何でかな」

「女としての魅力だけは宗教の外でも通用するものでありたくて、何て言えば良いのか、結婚願望の根底にある想いが信仰よりロマンティックな事を望むんです」

「なるほど」

「でも、結局は自分の信仰を恋人に理解して欲しいっていう願望はあるんです」

「僕は教えが正しければ、宗教とか信仰に偏見はありません」

「宗教は心の拠り所ですからね。清川さんには特に必要とされてくるものかもしれません」

 悪質な宗教勧誘なのかと雪花を疑う。それ以上に雪花の愛に依存する気持ちが強い。もう一人にはなりたくない。早く雪花と結婚し、自分の家庭の温もりの中で安らかな生活を獲得したい。

「仏教系の信者ですか?」

「いいえ、神道系の宗教を信じています。高校はキリスト教系の学校だったんですけど、あたし、生まれ変わりとか前世を信じるタイプなんです」

「僕も生まれ変わりや前世を信じてます。家系は禅宗に帰依しているんですが、天国とか地獄って言う概念も強く信じています。高校三年生ぐらいの頃からかなあ、自分は間違いなく地獄に堕ちるものと思うようになりました」

「そうですか。何だか急接近した感じがします。デッド・エンドを信じている人だったら、どうしようかって思ってました」

「いやあ、あの世の実在は信じてますよ」

「そうですか。良かった」

「デッド・エンドって、ロック・バンドがいますよね」

「いやあ、語源は正にそこから来てます」と雪花は言って、笑う。

「家は父方の故郷が長崎なんです」

「長崎の何処ですか?」

「島原半島です」

「あたしの故郷も島原半島なんです!」と雪花が大喜びして言う。「島原半島の何処ですか?」

「愛野町です」

「あたし、有明町です」

「有明町って、愛野町から近いんですか?」

「島原の方に奥まったところです」

「へええ。雪花さんは生まれ変わる度に遇うような縁者なのかな」

「あたしも清川さんにはそういう手応えを感じてます」

「何か目に見えない者の御導きかな」

「TVとかでよく守護霊様って言うでしょう?」

「ええ」

「あたし、そういう事にも関心があるんです」

「あの世とか霊的な世界って、魅力がありますよね」

「ええ」

「何か知識として心の栄養価が高いような魅力がありまよね」

「ええ」

「胸の中がすっきりするようなね」

「はい」

「僕が誘拐監禁された報道は御存知ありませんか?」

「いいえ、知りません」

「意外とそんなものなのかな。日本中の人々に見守られているんだって、よく自分に言い聞かせていたんです」

「はあ・・・・」

「何しろ、目隠しをされていたから、逃走中の犯人の顔も見ていないんです。何時再び誘拐されたり、殺されるのかも判らないんです」

「ああ、それは恐いでしょうね。お気の毒です」

「何処で僕の様子を見ているのかも判らないんです。それを常に想って眠ると酷い悪夢を見るんです」

「早く犯人が捕まれば良いですね」

「ええ」

「あたしが見守っていますから、お疲れでしたら、眠ってらしてください」

「ああ、それは有り難い。それでは少し眠らせて戴きます」

「はい。あたしが見守っていますから、安心してお眠りください」


 雪花の住むコンドミニアムが大通りの裏にある。私は彼女の後ろから着いていく。古いコンドミニアムで、玄関口の日中の日当たりは非常に悪い。私のアパートメントの日当たりの悪さと同じくらいだろうか。雪花は郵便物を取って、私と一緒にエレヴェイターに乗る。雪花は夏輝に劣らぬ美人だ。エレヴェイターの中はらくがきだらけで、照明は薄暗い。こういう密室は或意味非常に安心だ。三人組の運転手が雪花でなければ、この場は安心出来る。運転手という三人目の犯人が果たして存在するのか。エレヴェイターが三階で止まり、我々はエレヴェイターを出る。廊下の赤茶けた照明が点滅している。嫌な予感がする。予感が当たらぬ事を願う。撮影の仕事の現場に廃墟を選ぶ事はよくある。このコンドミニアムは恐らく昭和四十年代の建物だろう。廊下を管理人らしき痩せた老人が掃除している。この場を逃げ出せば、別のシチュエイションが表われる。疲れていて眠い。私は廊下の角で腰を下ろし、目を閉じる。雪花が私に気づけば、二人で隣り合って眠れば良い。目を閉じた視界が陰になる。頭の上からイヤフォンの音漏れのような音楽が微かに聴こえる。雪花はイヤフォンなど嵌めていなかった。私はそっと目を開ける。目の前にスラックスを穿いた脚が見える。その脚は光沢のある綺麗な黒い革靴を履いている。私は脚の持ち主の顔を見ずに雪花を呼び止める。脚の持ち主がしゃがみ込み、私の顔を間近から見つめる。青い目をした三〇代ぐらいの優しそうな白人男性である。

「だからさ、何で自分の都合の良いように物事を捉えるのかな?」と白人男性が日本語で私に訊く。

「気に喰わない現実に何時までも束縛されたくないからですよ」

「あんたさ、誰に向かってモノ言ってんの?気に喰わない現実って、俺の事だろ?」

「何処かに行ってくださいよ!何でそんなに僕に付き纏うんですか?僕があなたに何をしたと言うんですか!」

 私は興奮して目覚める。雪花は居眠りをしている。私は席から立ち上がり、車内を見回す。乗客は進行方向の前方にいる背広を着た四〇代ぐらいの男一人と、背後の車両の端に座った老婆だけである。車窓からの風景は都会的な建物が密集する様が見える。もうそろそろJR東京駅だな。

 雪花の寝顔を眺める。なかなか美しい顔をしている。脚は細く、胸も大きい。雪花の睫毛が涙で光っている。何か悲しい事でもあったのか。前の彼氏の話などはしていなかった。この人は本当に私を見守る気持ちでいるのか。終点駅のアナウンスが流れると、雪花が目を覚ます。

「ああ、もう起きてらしたんですか」と雪花が眠そうな眼をして言う。「何時の間にか眠っていました」

 眼の大きな二重の瞼をしている。睫毛は長く、肩まで伸びた薄茶色の髪は毛先だけ猫毛のようなパーマがかかっている。口紅は赤く、口紅と同じ色のマニキュアが手の爪に塗られている。指は長くて細い。確かに旅行会社の窓口にはこういう美人女性が笑顔で接客している。私がじっと雪花を見つめていると、雪花は私に笑顔を見せる。

「美人さんですね」

「いえいえ!そんな事ないですよ!」と雪花が慌てて打ち消す。

「雪花さんは年上だけど、何か可愛いな」

「普段はこん風に猫被ってますけど、不機嫌な時は荒々しいところもあるんです。でも、出鱈目に当り散らすタイプではありません」

「また悪夢を見ました。雪花さんも出てきましたが、犯人から僕を守る事は出来ませんでした」

「まだあたしの逞しいところを御存知ないからじゃありませんか」

「そうかもしれません」

 我々はJR東京駅で下車し、構内の中華料理屋に入る。餃子や小籠包やチンジャオロースや炒飯を注文し、それぞれ小皿に装って食べる。

「好きな映画監督はいますか?」と私が訊くと、「あたし、監督名では映画を選びません。清川さんはどの監督がお好きなんですか?」と聞き返す。

「僕は監督とか俳優繋がりでも映画を観るんで、そうだなあ、スタンリー・キューブリック監督を一番尊敬してるかな。『二〇〇一年宇宙の旅』とか『時計じかけのオレンジ』とか『シャイニング』の監督ですよ」

「ああ!あたし、その辺は一寸恐いかな。同じ監督なんですね」

「ええ。監督繋がりで映画を整理すると、自分の接している人物の世界が表われますよ」

「外人の名前が覚え辛いんです。あたし、映画はDVDとか買って観る事も多いんです」

「ああ、なら、監督別にDVDを並べ替えれば、監督名が覚え易くなりますよ」

「じゃあ、今度家にいらしたら、DVDを監督名で並べ替えてください」

「ええ。良いですよ。俳優別にも並べ替えます」

「好きな小説家は誰ですか?」

「僕はまだゲーテとカフカと安部工房しか読破してないんですけど、カフカは好きですね」

「日本の文化って、お嫌いなんですか?」

「どちらかと言えば、僕は典型的な西洋被れです。雪花さんが好きな作家は誰ですか?」

「あたしは川端康成と三島由紀夫です」

「川端は『雪国』しか読んだ事ないな。三島は何冊か読みました」

「三島はお好きですか?」

「はっきり言って、全然自分と思想的に一致するところがありません。それに三島の小説を読むと辞書を引き引き読む事になるから、あんまり読みたくないです」

「ああ、そう言われてみれば、そうかもしれない」

「漫画は読みますか?」

「主に少女漫画を好んで読みます。恋愛モノなら少年漫画でも読みます」

「恋愛モノって、何で女性は好むんですかね?」

「恋愛的に頭を働かすのが楽しいんですよ。胸がキュンとなるようなところも良いですね」

「僕は異常な視点に力を入れたような暗い小説が好きです」

「ああ、『地下室の手記』とか、『一九八四年』とか、ああいう真っ暗な世界ですね」

「でも、事件以来、小説の好みも変わってきたかな。もう暗い気持ちにはうんざりです。乗り越える努力は可能な限りしたいんですけどね」

「逞しい方ですね」

「いやあ、そうでもないですよ」

「ああ、お腹一杯になりました」

「喰いましたね。そろそろ出ますか!僕が奢らせて戴きます」

「ああ、はい。ありがとうございます」

 私は会計を支払い、店を出る。

「何線に乗られるんですか?」

「JR京浜東北線です。蒲田に住んでるんです」と雪花が笑顔で答える。

「僕も大田区なんです。僕は都営地下鉄浅草線の西馬込駅です」

「それではここでお別れですね」

「ええ、それでは、夜、電話します」と手を差し出して言う。

「はい。お待ちしております」と雪花が握手をしながら言う。

 私は都営地下鉄浅草線のプラットフォームで電車を待つ。明日からはまた仕事だ。

 出会いはいつも思いがけないタイミングで起きる。婚前旅行に出かけた場所で婚約者に婚約を破棄され、同じ時の同じ場で新たな女性と巡り合う。

「おじさん、何処で降りるの?」と私の腰ぐらいの背の少年が私を見上げて訊く。何時の間にか少年が近くに来ていた。

「おじさんじゃなくて、お兄さんだよ」

「お兄さん、何処で降りるの?」

「西馬込駅だよ」

「僕も西馬込駅だよ!」

「そうなんだ」

「お兄さん、名前、何て言うの?」

「清川正人」

「僕、川西啓吾。お兄さん、何歳?」

「二十六」

「僕、七歳」

 電車がプラットフォームに入ってくる。「とりゃああ!」と背後で別の少年が叫ぶ声が聴こえた途端、川西君が猛スピードで走る電車にぶつかる寸前で倒れる。

「危ない!」

 川西君は倒れただけで怪我はない。川西君は危うく死ぬところだった。三人組の悪坊主達が私の左隣で大笑いしている。君達、危ないだろ!と悪坊主達を叱ろうとする言葉を飲み込む。人は死の危険と隣り合わせで生きているのだ。悪坊主達は明らかに川西君を電車にぶつけようとした。殺そうとしたのか。眩暈がする・・・・。私は膝から崩れ、プラットフォームに跪く。神様!恐いです!

「大丈夫ですか?」と六十ぐらいの女性が私の背中を摩って言う。幾ら息を吸い込んでも苦しい。六十ぐらいの女性が何か聞き慣れぬ言葉を叫んで、私の背中を叩く。私は漸く息が吸えるようになる。

「もう大丈夫よ。立ち上がれますか?」と六十ぐらいの女性が言う。

「ああ、ありがとうございました」と私は言って、女性に頭を下げて立ち上がる。

 私は浅草線に乗車し、手前左の席に腰かける。川西君も私の左隣に腰かける。川西君は『ドラえもん』の単行本を出して読み始める。

「僕も子供の頃に『ドラえもん』を読んで育ったよ」

「ふううん。そうなんだ」と川西君が私の顔を見上げて言う。

 川西君は私の少年時代をどんな時代だと思っているのか。川西君が死ななくて良かった。

「川西君は学校で虐められてるの?」

「ちょっとね」と川西君が弱った眼をして言う。

「その裡背が伸びて、力も強くなるよ。僕は小学校六年で背の順が真ん中から後ろ方に変わったんだ。そしたら、元々喧嘩は負けてばかりではなかったけど、突然、ガキ大将達の次に強くなったんだ」

「へええ!凄いね!」と川西君が眼を輝かせて驚く。

「『北斗の拳』は持ってる?」

「漫画は持ってない」

「『北斗の拳』には夢中になったなあ。僕はケンシロウが大好きだよ」

「僕も好き!」

「虐めに負けるなよ。助っ人が現れれば良いんだよ。幼馴染みに助けてくれる上級生はいないの?」

「いるけど、まだ気づいてないみたい」

「助っ人がいるのも自分の強さだよ」

「うん」と川西君は力強く返事をする。

「君の人生の主人公は君だけどね」

「うん」と川西君は心細そうに返事をし、再び『ドラえもん』を読み始める。

 この現実の目まぐるしい展開が変調の多い交響曲のように思える。私も誰かに自分の事を励ましてもらいたい。見えない敵に怯えてばかりではこちらの心が参ってしまう。私も芥川の文庫本を出して、久々に『芋粥』を読む。最近、また芥川に惹かれている。

 西馬込駅に着き、川西君と一緒に電車を降りる。私は川西君と一緒に階段を上り、地上に出る。

「味方を探せよ!勇気も大切だけれど、頭も使えよ!」と川西君に言い、川西君の頭を撫ぜる。「じゃあな!」

 人は人生の難関を数々潜り抜けて大人になっていく。大人になっても難関はある。本来、大人の世界では暴力は通用しない。先手必勝なら、こちらが相手を倒す事も出来る。私も大概の事なら乗り越えられるような力を付けてきた。川西君の事を心配し、励ましてやりたいと思った。今の私では説得力がない。私は今の自分の事で手一杯だ。

 自宅に戻り、玄関のドアーを開ける。背後に対する不安から堪らなく振り返り、誰もいない事を確認し、気持ちを落ち着ける。帰って直ぐに雪花に電話したくなる。雪花も帰宅して暫くはのんびり過ごしたいだろう。キッチンの籠の中からパタピーを一袋取り、居間のソファーに腰かけ、パタピーを食べる。スマートフォンに取り込んだイールズの『エレクトロ・ショック・ブルース』を直に流す。パタピーを喰い尽し、ソファーに横になる。


 シャツの糸の解れが手の指に絡まる。シャツから糸を引き千切り、手を振って、引き千切った糸を振り払おうとすると、背後に人の息を感じる。ホモだろうか。振り返ると、顔が宇宙の闇のようになった男の顔が間近にある。男の顔の闇の引力に眼球が吸い寄せられる。眼球の根はしっかり私の眼の奥に繋がっている。この男は何者だろう。神か、悪魔か。男は右手の人差し指と中指の先を私の眼に近づける。指は既に私の眼の中に差し込まれている。痛みはない。

 部屋の中には窓から西日が射している。随分とぼうっとした夢を見たものだ。夕食は宅配ピッツァを注文する。そろそろ雪花に電話しても良いだろう。

『はい、もしもし、今里ですが』

「ああ、雪花さんですか。清川です」

『ああ、清川さん、今日は御馳走様でした』

「ああ、いえいえ。帰宅して直ぐ電話したいのを我慢してました」

『それなら、直ぐに電話してくださったら良かったのに』

「お帰りになったら、暫くのんびりとされたいんだろうなあと思いまして、遠慮しました」

『良いんですよ!遠慮なんかなさらないでください』

「じゃあ、デイトは早速明日の夜にしましょう」

『ああ!はい!何時に何処で待ち合わせしましょうか?』

「お仕事は何時に終わるんですか?」

『五時には終わります』

「それでは蒲田まで出向きますから、夜の六時にJR蒲田駅の改札口で待ち合わせしましょう。夕食を一緒に食べたら、カラオケに行きましょうよ」

『ああ!はい!あたし、カラオケ大好きなんです!』

「それじゃあ、明日の夜の六時にJR蒲田駅の改札口のところで!お休みなさい」

『お休みなさい。失礼しまあす』

 電話を切り、TVを点ける。食べ歩きの番組が放送されている。メキシコ料理か。食欲がそそられるな。今度、雪花さんとメキシコ料理を食べにいこうか。

 ピッツァが届き、一人食卓の席で夕食にする。こってりとマヨネイズのかかった鳥の照り焼のピッツァを味わう。私は酒を必要としない。奴らへの不安や恐怖を酔っ払って誤魔化す気にもなれない。酔っ払ったところを奴らに狙われる事を思えば、酔う事も楽しめない。ピッツァは大好物だ。

 奴らに私を殺さねばならない理由などあるのか。奴らは私に声を聴かれただけだ。殺しにくるとしたら、余罪の発覚を防ぐためか。

 夕食を済まし、玄関先で煙草を吸うと、居間のソファーに腰かける。雪花を想って、自慰行為に耽る。

 何をしていても奴らへの不安が心の片隅にある。熱い湯船に浸かって気持ちを落ち着けようか。湯煙が出るように換気扇を点けずに入ろう。

 湯煙が立ち込める中、即興歌を歌いながら、体をよく洗う。体を清潔にする事で不安や恐怖も洗い流す。

 熱い湯船に浸かり、目を瞑る。風呂は気持ちが良い。事件前は然程風呂好きだった訳ではない。

 夏輝との婚約が破棄され、その代わりに出会った雪花と結婚前提のお付き合いを始める事になった。人との出会いには筋道がある。最初は幼馴染みを原点として幾つかの出会いの筋道が生じる。原点に立ち返る付き合いを繰り返しながら、徐々に自分に合った形のはっきりとした人間達が強い影響力を以て現われ、彼らが自分の周囲を固める。師や仕事仲間や競争相手である。飲み仲間や趣味の友も現われる。

 風呂から出て、よく冷えたペットボトルの大瓶のコカ・コーラとグラスを持ってきて、ソファーの前のテーブルの上に置くと、ヴィデオ・テープでタルコフスキー監督映画『ストーカー』を観る。高校時代から何回この映画を観てきたろう。五〇回は観ただろう。高校時代の友人からダヴィングしてもらったヴィデオ・テイプには未だに劣化がない。白い合成革のソファーがとても座り心地が良い。柔らかく包み込まれるような安心感のあるソファーだ。

 ソファーの前のテーブルの上に置かれたお菓子の缶空を開け、ウィスキー・ボンボンを一つ取って食べる。


 仕事帰りにJR蒲田駅に向かい、夕の六時少し前に待ち合わせの改札口に着く。

 昨晩はタルコフスキー監督映画『ストーカー』を観ながら、ソファーの上に座ったまま朝まで眠っていた。六時きっかりに雪花が改札口に現われる。

「時間ぴったりですね」

「じっと待ってるのも何なんで、駅ビルで買い物をしてました」

「要領が良いですね。僕はじっと待ち合わせ場所で待つタイプなんです」

「此間のお返しに蒲田の駅ビル名物のソフト・クリームを御馳走します」

「ああ、ありがとうございます」

 我々は駅構内のケーキ屋に向かう。雪花がヴァニラのソフト・クリームを二つ注文する。ソフト・クリームにはクッキーが一本刺してある。雪花が先に出来たソフト・クリームを私に手渡す。店員が雪花のソフト・クリームを手渡すのを待っていると、雪花が私の方に振り返り、「先に食べてて良いですよ」と言う。私はソフト・クリームに射してあるクッキーを抜き取って食べる。美味しいクッキーだ。

「ああ、ほんと美味しいわ!」と私がソフト・クリームの感想を言う。「クッキーが嬉しいですね」

「そうでしょ!」

 店員が雪花のソフト・クリームを手渡す。

「これは私が学生の頃に毎日食べてたソフト・クリームなんです」

「確かに美味しいです」

「これ、田舎のお祖母ちゃんが上京してきた時も食べさせたんです」

「私は隣の大森に実家があるんですけど、大森に美味しい冷やしたぬきを出す蕎麦屋があって、そこによく友達を連れていきました。蒲田は大森の隣駅ですけど、昔から余り来ないんです。学生の時に仲間と蒲田の学生達をボコボコにしたんです。それ以来、こっちがビビッて、蒲田には来なくなりました。京浜東北線の駅では大井町とか有楽町によく下車します」

「清川さんって、学生時代悪かったんですか?」

「そんなに目立つ程悪い生徒ではなかったです。今みたいな感じで若くなったような感じです」

 雪花が噴出し、「変わってないんですか!」と笑顔で言う。

「変わってないと思います。学生の頃に書いた詩とか、今でも生きた自分の言葉だと思ってますからね」

「ええ!あたしは変わりました」

 牛乳の味の濃いソフト・クリームだ。

「蒲田に馴染みがないんでしたら、私が蒲田を案内します」と雪花が言う。「カラオケ屋で夕食済ますのが嫌でしてね」

「ああ、冷凍食品ですからね」

「普段、どう言う飲食店に入りますか?」

「『吉野家』とか『マクドナルド』が多いです。定食屋でとんかつやカツ丼食べたりね。インド・カリーとかビビンバも好きです」

「ああ、じゃあ、タンドリー・チキンの美味しいお店に食べに行きましょう」

「先に夕食ですか」

「あたし、今、物凄くお腹が空いてて、かなり辛いんです」と雪花が辛そうな顔をして言う。

「ああ、じゃあ、先に夕食にしましょう」

「済みません!」と雪花が顔の前で合掌して謝る。「あたし、結構、御飯は食べるんです」

「へええ、そんなによく食べるような御姿ではないですけどね。スラッとしてて」

「太らないけれど、栄養が付かないんです」

「はあ、なるほど」

「それでは御飯食べに行きましょう!」と雪花が後退りするように動きながら、はしゃいだ口調で言う。

 雪花がお薦めのレストランに案内し、クリシュナ神の絵が壁に描かれたインド料理屋に入る。我々は雪花の向かう中央のテーブル席に座る。

「この店は窓際の席より店の中央のテーブル席の方が落ち着くんです」

「中央の席なのに、皆、こっち向いてませんね」

「そうなんです!」

 インド人風の女性店員が注文を取りに来る。店員はまだ二十歳そこそこの若さだ。

「タンドリー・チキン・カリーを二人前ください」と雪花が店員に注文する。

「ナンですか?ライスですか?」と店員が我々に訊く。

「ああ、僕はライスが良いです!」と私が注文すると、雪花も直ぐに、「それじゃあ、私もライスで」と注文する。

「雪花さんはお仕事は何をされてるんですか?」

「英会話学校の受付けです」

「レセプショニストですね」

「そうです。レセプショニストです」

「高校の頃に英会話学校に通ってたんですけど、英会話ではレセプショニストって、よく出てくる職業なんです」

「あたしも高校卒業して、少し英会話学校に通いました。イギリスに留学しようと思ってたんですけど、中途で片付けました」

「止めたって事ですか?」

「ええ」と雪花が上機嫌な顔で返事をする。「いえね、あたし、やりたい事が山程あったんです。それがどうしようもない数になって、心の整理をするために、一つ一つ消していったんです」

「ああ、それは経験にないですね。僕はプロのカメラマンになる夢が一つ出来て、そこに向かって全力で努力してきました。今もまだ一人前のカメラマンではありませんけど、それ以外にやりたい事も特になくて」

「あたし、子供の頃からお嫁さんになるのが夢で、出家する事にも憧れていました」

「僕の子供の頃は夫になる事より、父親になる事をよく想像しました」

「心の中で子供に何かを教えるんでしょうね」

「ええ、そうです」

「勉強とか強いない教育方針でしたか?」

「ええ。十代の頃は勉強を強いない教育方針でした」

「今は?」

「今はスポーツ人生を歩ませながら、書道や英会話を習わせようと考えています。お坊さんには憧れなかったな」

 何か話す事を急かされる感じがしなくて、自分の話した事に安らぎを感じていたら、雪花の顔を見ながら、ずっと自分が黙っている事に気づく。雪花も黙って私の顔を見つめている。そんな沈黙が更に続き、我々は黙ってお互いを見つめ合う。相手に自分を見つめる事を許す気持ちがこんなにも澄んだ愛に根差す事だとは知らなかった。

 店員がタンドリー・チキン・カリーを運んでくる。雪花は眼を瞑って合掌し、声もなく神仏に祈る。恐らく食前の感謝の祈りを捧げているのだろう。私も形だけ眼を瞑って合掌し、「いただきまあす」と言って、タンドリー・チキン・カリーを食べ始める。タンドリー・チキンが柔らかくて、とても美味しい。雪花もタンドリー・チキン・カリーを食べ始める。雪花の食べ物を口に入れるまでのプロセスや、よく嚙んで食べる様子には独特な美意識を感じる。雪花は私が雪花の食べるところを見ている事に気づくと、楽しげな笑顔をにこりと見せ、おどけるように首を竦めてみせる。


 気づくと、真っ白い部屋のベットに横たわっている。頭上にぶら下がった点滴の袋からチューブが下り、チューブの先の点滴の針が左腕に打たれている。ここは何処かの病院の病室だな。外は明るく白んで見える。向かいの壁の掛け時計を見ると、二時半を少し過ぎている。誰と何処にいたんだったけか。スタジオか。京浜東北線の中か。ああ!雪花さんとインド料理屋に行ったんだ!その後は何処に行ったのか。確かタンドリー・チキン・カリーを食べていたんだ。。カラオケ屋には行っていない。インド料理屋で気を失ったのか。タンドリー・チキン・カリーは完食していない。枕元の呼び出しボタンを押す。

『ああ、清川さん、お目覚めになりましたか』と女性の声が病室のスピーカーから聴こえる。女性の周囲の物音がノイズとして混ざっている。

「はい」

『直ぐにそちらに向かいます』と女性が言うと、スピーカーからの音が完全に遮断され、再び病室が静まり返る。またあいつらの事を思い出す。ずっとこんな不安と付き合って生きるのか。今日は目覚めてから暫く奴らの事を忘れていた。奴らの事を思い出さずにいた僅かな時間がとても不注意な過ちのように感じる。寧ろ、少しずつ忘れていられるようになれば、良い兆しなのかもしれない。奴らのところから脱出し、警察に保護されて以来、ずっと奴らから身の安全が保たれている。何時奴らに殺されても良いようにと、絶えず死を覚悟している必要はない。そもそも何時殺されても良い人ような間など存在する筈がない。

 ドアがノックされる。

「はい!どうぞ!」

 病室の引き戸が開けられる。若い女性看護師が現われる。

「お目覚めになりましたねえ」

「私はどれくらい気を失っていたんですか?」

「昨晩の六時に病院に運ばれて、今、午後の二時半過ぎですから、二十時間半ぐらいですかね」

「今里雪花さんと言う女性が一緒にいたんですが」

「ああ、あの方なら夕方またいらっしゃるそうですよ。お腹が空いてらっしゃるんじゃありませんか?」

「ああ、そうですね」

 女性看護師が胸の名札を示し、「ああ、私、看護主任の前田と申します。御用が御有りでしたら、何なりとお申し付けください」と言うと、「今、お食事を御持ちしますので、今暫くお待ちください」と言って、病室から去っていく。

 上半身を起こすと、サイド・テーブルにスマートフォンが置いてある。置手紙もある。手紙を手に取ると、『清川さんへ』と書かれている。


『突然御倒れになられたのでびっくりしました。先生は単なる過労だと仰っていたので、安心しました。夕方、またそちらに向かいます。

雪花』


 頼もしい恋人だ。本当に頼もしい恋人だ。初めてのデイトで突然倒れて、救急車で運ばれていくような男に何の不満もないのか。そんな筈はない。気持ちは相当に動揺している筈だ。私も雪花さんにはなるべく気難しい面を見せたくない。気楽に付き合える恋人でありたい。

 昼食はコロッケとエビカツとキャベツの千切りと白米と若布と豆腐の味噌汁だ。意外と病院食が口に合う。こんな風に完全に人の世話を受けて生活が出来たなら、私も少しは気持ちが楽だろう。いいや、そんなに弱きになってはいけない。奴らは私を意識的に逃がしたのではない。予期せず逃げられたのだ。あれは無差別誘拐だったのだ。奴らは私に顔も見られていないのだ。声を聞かれただけで、自分達が警察に捕まるとは思っていないだろう。奴らは私の住所一つ、電話番号一つ知りようがないのだ。考えてもみれば、随分と間抜けな誘拐犯ではないか。

 昼食を片付けに先程の看護主任が病室に現われる。

「あのう、缶コーヒーを飲みたいんですが」

「どんなコーヒーが宜しいですか?」

「微糖のコーヒーが良いです」

「他に何かいる物はございますか?」

「ポテト・チップスのコンソメ味とミルク・チョコレイトの板チョコが欲しいです」

「ああ、はい、畏まりました」

「私の財布は何処にあるんですか?」

「そこのテーブルの抽斗の中にございます」

 抽斗を開けると、確かに自分の財布がある。私は財布から千円札を一枚出すと、「これでお願いします」と看護主任に千円札を一枚手渡す。

「あのう、買い物を代行する看護師の数にも限りがございまして、宜しければ、缶コーヒーを余分に買っておいては如何でしょう?」

「ああ、じゃあ、三本お願いします」

「畏まりました」と看護主任は言って、昼食のトレイを持って病室を出ていく。看護主任と入れ違いに再び引き戸がノックされる。

「はい!どうぞ!」

 白衣を着た医師らしき男が引き戸を開けて、「失礼します!」と言い、病室に入ってくる。「昼食を済まされたようですね」

「ええ、美味しかったです」

「そうですか。私、清川さんの主治医の立川と申します。宜しくお願いします」

「ああ、清川と申します。御世話になります」

「気分は如何ですか?」

「ああ、気分は良いです。倒れた時もほんと突然で」

「過労ですよ。一週間程入院されて、検査を受けた方が宜しいかと思います」

「ああ、じゃあ、一週間仕事を休ませてもらえるように職場に連絡しておきます」 

「清川さんの御職業は何でしょうか?」

「カメラマンの助手です」

「そうですか。お忙しい御職業なんでしょうね」

「私、実は誘拐監禁された事がありまして、それが原因で精神的に絶えず不安を感じてるんです」

「ああ、なるほど。精神科に主治医の方はいらっしゃいますか?」

「いいえ、特に」

「昨日いらした御付き添いの今里さんとの御関係は?」

「婚約者です」

「そうですか。この際、ゆっくりと静養してください」

「ああ、はい」

「何かアレルギーはありますか?」

「いいえ」

「精神科の薬を飲まれていますか?」

「いいえ」

 医師は一通り問診を終えると、「それでは明日また参ります」と言って、病室を去る。私は早速スマートフォンで職場に電話をする。

「ああ、チーフですか。私、清川です。実は昨晩、過労で倒れまして、救急車で病院に運ばれたんですが、一週間程入院する事になりまして」

『ああ、そうか。それじゃあ、ゆっくり静養した方が良いな。よし!判った!それではお大事に!』と師は言って、電話を切る。

 誰かが病室の引き戸をノックする。

「はい!どうぞ!」と返事をすると、先程の看護主任が買い物の品を病室に運び込む。看護主任の立てるノイズが鮮明に聴こえる。映画の着想が脳裏を過ぎり、看護主任の動作が映画の一場面のように感じられる。看護主任は私の枕元に買い物の袋を置くと、袋から一つずつ品物を出しながら、「ええと、微糖の缶コーヒー三つに、ポテト・チップスのコンソメ味に、ミルク・チョコレイトの板チョコ。以上で宜しいですね」と念を押し、お釣りを私に手渡す。

「ありがとうございます」と私はお礼を言う。

「それでは御用が御有りの時は何なりとお申し付けください」と 看護主任は言って、早々に病室を出ていく。

 私は冷たい缶コーヒーの栓を開け、よく冷えた缶コーヒーを味わって飲む。缶コーヒーの甘苦さが口の中に行き渡る。呼びボタンを押す。

『はい。何か御用でしょうか?』

「あのう、煙草を吸いたいんですが」

『ああ、それでしたら、エレヴェイター脇の中庭の喫煙所まで点滴を引っ張っていって吸ってください』

「ああ、はい。判りました」と私が言うと、スピーカーからの声とノイズがぷつりと消える。私は抽斗から煙草とライターを手に取り、ベッドから下りる。点滴を引っ張って廊下に出ると、何処かの部屋の面会者達と擦れ違う。中庭は直ぐに見つかる。喫煙所の椅子に座り、煙草を口に銜え、火を点ける。吹き抜けの中庭は口の字のテラスになっている。私のいる側のテラスは日陰になっている。爽やかな涼風が火照った体に吹きつけ、とても気持ちが良い。

 煙草を吸い終え、中庭から廊下に出て、辺りを見回すと、この階には売店がない。ジュースやコーヒーの販売機が二台ある。車椅子に乗った蒼白い顔をした女性が私に会釈する。高校時代に他のクラスにいた同級生だ。学生時代は普通に歩いている人だった。意外な人と意外な場で出会うものだ。何だか頭が疲れ易い。二十時間も寝ていたのに、また眠たくなってきた。

 病室に戻り、再びベッドに横になる。スマートフォンで母のスマートフォンに電話をかける。

『はい、もしもし、清川ですが』と母が電話に出る。

「ああ、正人ですけど」

『あら、元気にしてる?』

「過労で倒れてさ、今、入院してる」

『何処の病院?何か持ってきて欲しいものとかあるんじゃない?』

「新しい恋人が出来てさ、その人に頼むからいいよ」

『新しい恋人って、夏輝さんとの婚約はどうなったの?』

「ああ、それはもうない」 

『あら、それは残念ね』

「こっちに恋人の資格がないみたいで、向こうから別れるって言ってきたんだよ」

『まあ、仕方ないわね』

「それじゃ、今、家に来てもいないからね」

『うん。判った』

「それじゃあね!」と私は言って、電話を切る。

 横になったままスマートフォンをサイド・テーブルの上に置き、眼を瞑る。


 目覚めると、体が感覚から垂れ下がっている。一部の繋がった感覚で勢いよく立ち上がると、感覚は元通りに体に納まる。黄色い夕焼けが病室の窓から見える。風景から色彩が零れ落ち、零れ落ちた色彩が地平線の向こうに消えていく。地平線の向こうから聴いた事のない暗い男性ヴォーカルのフォーク・ソングが掠れたような演奏で聴こえてくる。ヴォーカルの暗い歌声には生命力が感じられない。サウンドもヴォーカルも次第に音楽を維持出来なくなる。これは自分の心の世界だろう。景色や音が朽ちていく。眩しい夕陽の表面が剥がれ落ちる。その途端、世界が闇に包まれる。私は光のない病院の一室にいる。懐中電灯の灯が欲しい。サイドのテーブルの上のスマートフォンに手を伸ばす。掴んだスマートフォンが砂のように手から流れ落ちる。暗いフォーク・ソングの音がぷつり消える。遠くから電車が近づく音が聴こえる。その電車の音もぷつりと消える。世界は無音の闇になる。包丁を皿の端で擦るような音が心の中から聴こえる。体の感覚がない。いやっ、感覚はある。体に手で触れれば、感覚は確かめられる。声もなく奴らが話している。この闇を一枚引き剥がせば奴らがいるのか。

 病室の引き戸がノックされる。私ははっと目覚める。

「はい!どうぞ!」

 暗いフォーク・ソングや闇は夢だ!ここからは現実だ!

「一寸待ってくれ!」と叫ぶ声が掠れて出ない。

「失礼しまあす!」と雪花が引き戸を開けて病室に入ってくる。雪花の姿を見ると、心に花が咲くように明るい気持ちになる。

「ああ、態々ありがとうございます」

 こんな男、嫌でしょう?あなたは私の心の安らぎです。

「お体は如何ですか?」と雪花がベッドの脇に立って訊く。

「これでは男が保てません」

「そうですか」と雪花は言って、笑う。「焼き鳥買ってきたんですけど、食べられますか?」

「ああ、良い匂いですね」

「ああ、じゃあ、今、封を開けますね」と雪花が微笑みながら、焼き鳥の包み紙を剥がす。「まだ温かいですよ。今、差し上げますね」と雪花は言い、私の顎下に左手を添えて、焼き鳥を私の口許に近づける。

 私は焼き鳥を串から口で引き抜き、味わう。

「ああ、美味しいです」

「一杯ありますからね」と雪花は言って、再び焼き鳥を私の口に近づける。

「ありがとうございます」

 俺はもう一塊焼き鳥を口に入れる。

「雪花さんも食べたら良いのに」

「ああ、じゃあ、私も戴きます。私は雛皮が良いかな」

「ああ、俺も雛皮は大好物です」

「ええ!そうなんですか!一緒ですね!」と雪花ははしゃぐように言うと、自分が食べようとしていた雛皮を俺の口に近づける。

「ああ、それではお先に失礼します」と言い、雛皮を口に入れる。「美味しい!雪花さんも食べてくださいよ」

「はい」と雪花は言い、新しい雛皮を一本取って食べる。「ああ、ほんと、美味しい!」と雪花は口許を左手で隠して、焼き鳥を嚙みながら言う。

「何本買っていらっしゃったんですか?」とサイド・テーブルの上の焼き鳥の包みを見下ろして訊く。

「十二本です」

「結構買われましたね」

「はい」と雪花は言い、自分の食べている焼き鳥を一端包み紙の上に置くと、「はい、ああん」と言いながら、俺の口に雛皮の焼き鳥を近づける。

「何か、俺、突然倒れたんですかね?」

「ああ、インド・カレー屋での事ですか。ええ、そうです」

「びっくりされたでしょう?」

「ええ、でも、取り乱していても仕方ないので、直ぐに救急車を呼んでもらって、対処しました」と雪花は雛皮の串を口許に近づけて言うと、雛皮を食べる。顔の表情は意外に呆気らかんとしている。「昨晩は注文したタンドリー・チキンを食べずにここに来たんですね」

「ああ、じゃあ、また行きましょうね」と雪花が笑顔で言う。雪花は蒲団の上に置いた私の左手の小指に右手の小指を引っかけ、私の小指を揺らしながら、「はい。約束です」と楽しそうに言う。

 この人の性格は陽気だ。世話好きなのかな。子供が産まれたら、とても良い母親になるだろう。


 私は雪花とデイトを重ね、次第にお互いの家に泊まり合うようになる。私と雪花はそんな風にして、出会って一年後に結婚する。結婚式には親戚や学生時代の友人や職場の上司や同僚を招待し、新婚旅行はギリシャに行く事になった。

 ギリシャではパルテノン神殿などの観光名所を観たり、地方の家庭料理を土地土地のレストランで食べ歩いたり、美術館やコンサートに行った。記念写真も沢山撮り、雪花と二人でスケッチブックに風景写生などを描いて楽しんだりもした。

 新婚旅行中は不思議と奴らの事を考えず、楽しく過ごせた。奴らに関する悪夢も見なかった。それが成田空港に着いた途端に奴らの事を考え始め、突然胸が苦しくなる。私はパニック状態になり、女性のフライト・アテンダントが通路に私を寝かせる。フライト・アテンダントが、「ゆっくりと落ち着いて息を吸って、ゆっくりと息を吐いてください」と指導する。私は指示通りにゆっくりと落ち着いて深呼吸を繰り返す。吸っても、吸っても、息苦しい感じは次第に薄れてくる。どうやら正常に呼吸は出来ているようだ。

 帰りのタクシーの中では雪花が左隣に座り、黙って私の左手を握り締めている。

「心配かけてゴメンね」

「気にしない!気にしない!あたし達、もう夫婦なんだから、お互いを支え合う関係にあるのよ」

「自分でも一寸びっくりしちゃって、取り乱したよ」

「リラックスを覚えないとね」

「うん」

 走行するタクシーの中から夜景を観て楽しむ。雪花も黙って夜景を観ている。私は奴らに誘拐された車内の事を思い出している。何だか意識が朦朧としてくる。眼を瞑り、自分の心の奥の魂の光を想って、心を落ち着かせる。

 タクシーが我々のコンドミニアムの前に止まる。雪花が料金を支払うと、我々はタクシーを降りる。

 雪花が我々の新居の3LDKのコンドミニアムの玄関の鍵を開ける。私は吐き気を覚える。雪花が鍵を開けて、玄関のドアーを開けると、我先に中に入り、トイレに駆け込む。便器に顔を近づけ、吐けるだけ吐く。呼吸が激しく乱れる。

「大丈夫?」と雪花が背後から心配そうな暗い声で訊く。

 私は更に二回嘔吐する。私は便器の淵に額を付け、声を押し殺して泣く。雪花が優しく私の背中を摩る。


 独りになると無性に不安になる。私は自分の精神不安を雪花との生活の遣り取りで紛らわせる。


 撮影現場の控え室のソファーでうたた寝をしていると、耳元で子供がふざけるような、『ぎぎぎぎぎぎいい!』と言う人間の大人が蝉に扮したような戯れの声が聴こえてくる。私は腹の虫が騒いでいるのだろうと無視する。今度は大きな鳥の羽が耳元で羽ばたくような音が聴こえる。私はびっくりして目を開ける。真っ赤な顔をした鬼が私の顔を間近で見ている。腹が空いているだけで何の事はないと再び眠り込もうとすると、鼻先のフローリングの床の上でダイニング・テーブルの脚をズラすような大きな物音がする。私は飛び上がるように目覚める。私が寝ていたソファーの足下に三人の男が立って見下ろしているのがぼんやりと翳んで見える。私は目を凝らして三人の姿をはっきり見ようとする。私がじっくりと目の焦点を合わせようとしていると、真ん中の男が私の胴体に向かって、突然拳銃を立て続けに撃つ。頭の中が真っ白になるような物凄い銃声である。私は余りの恐ろしさに頸を竦め、体をちぢ込ませる。

 私は体に無数の風穴が開いたような恐怖で激しい悪夢から目覚める。私の頭はおかしいのか。現実の時間が心に浸透してくる。心は自然と整理されてくる。

 まだ夜中だ。妻の雪花はダブル・ベッドの隣で熟睡している。私は便所に向かい、用を足す。便所の水を流すと、真冬のベランダに出て、煙草に火を点ける。私の家族は今も3LDKのコンドミニアムの三階に住んでいる。今では長男息子の光矢がおり、一歳半になる。

 ベランダの風の冷たさがとても気持ちが良い。寝ても覚めても悪夢の中にいるようだ。私は首吊り自殺を思い浮かべ、心を改める。私は殺されていたかもしれないのだ。自殺などとんでもない。煙草の火を消し、再び雪花の眠るダブル・ベッドに横たわる。


 私は真っ暗な倉庫の中で壁を背にして膝を抱えて座っている。暗闇の中で、「おい」と男の声が頭上から私を呼ぶ。あの時の助手席に座っていた男の声だ。私は声のする頭上を見上げず、殺される覚悟で男を無視する。前には暗くて誰の脚も見えない。誰かが私の両脇に腕を通し、私は座ったままの姿勢で宙に持ち上げられる。私の体を持ち上げる者達の姿は見えない。私は膝を抱えたまま宙に浮いている。私は二人に落とされる不安と恐怖を感じながら、何の抵抗もせず、座ったままの姿勢を変えない。私が何か反応すれば、こいつらはそれを面白がるだろう。誰がそんな奴らの相手になどなるものか!二人の男が目を閉じた私の両脇を抱え、何処かに運んでいく。もうどうにでもなれだ!この時が来る事をどれだけ恐れてきた事か!姿の見えない男達が私の両脇を抱えたまま、ぴたりと立ち止まる。私は漸く目を開け、眩しい陽射しに照り輝く青い海を見る。私は宙に浮いて座ったままの姿勢で膝に回した手を離し、恐る恐る地に足を着ける。浜辺の砂に靴を履いた両足が埋まる。両脇に通された二人の男の腕がない。抱えられていた時と同じように肩が持ち上がったままだ。私は持ち上がった肩を下ろす。周囲を見回すと、浜辺には誰もいない。何のためにこんなところに連れてこられたのか。熱い真夏の浜辺で青い海を前にしていると、私の中の少年の心が泳ぎたくなる。私は靴と靴下を脱ぎ、明るい昼の部屋のベッドの上に体を投げ出す。あれっ!違う違う!泳ごうと思ったんだよ!明るい昼の部屋のベッドに飛び乗るんじゃない!

 何だ、夢か・・・・。私は仰向けに横たわり、白い天井をじっと見上げる。ベッドの感触が柔らかく、とても気持ちが良い。部屋の空気は窓から射し込む陽射しの熱で温もっている。私は安心して再び目を瞑る。

 私は車の中に強引に押し込まれる。私は車幅の広い後部座席の真ん中に座っている。私を乗せた車が真っ直ぐな道を走っていく。どうやらこの車はタクシーのようだ。運転手は何処に向かって車を走らせているのか。タクシーの運転手は車を走らせたまま運転席のドアーを開け、車外に飛び降りる。私は車の中から振り返り、走る車の後方に転がる運転手の様子を見る。私は再び前を向く。車は運転手もなく走行している。自動走行だろうか。タクシーが高速道路を道なりに走っていく。このまま進むのは怖い。

「あのう、運転しても良いですか?」と私は助手席に座った男に訊く。

「何で?」と聞き覚えのある嫌な声が助手席から聞き返す。

「何か、運転手もなく車が走ってるのが不安なんで」

 車が高速道路の脇で停車する。私は暴力を恐れ、目を瞑る。私は目を瞑ってじっと助手席の男の様子を窺う。

 あれ?殴られない。私は目を開ける。右の窓外には眩しい陽に照らされた海辺の白いイタリアン・レストランが見える。

「ああ、ここで降ろしてください。お幾らでしょうか?」

「二千円です」と白い帽子を被った運転手がこちらを振り返って言う。助手席の男がいない。その代わりに飛び降りた筈の運転手が運転席にいる。私はズボンの右後ろのポケットから財布を出し、運転手に二千円払う。私は自動で開いたドアーから車外に出る。背後でドアーの閉まる音がする。黄色いタクシーが走り去る。私はその走り去る黄色いタクシーが小さく見えなくなるまで見届ける。

 私はイタリアン・レストランの前の白い階段を上り、ドアーを開ける。カランコロンと鈴の鳴る音がする。レストランの中は自然光だけの白い空間が広がっている。沢山ある客席のテーブルと椅子には誰も座っていない。私は海の見える右側の窓際の真ん中辺りのテーブル席に腰を下ろし、メニューを手に取る。

「いらっしゃいませ!何になさいますか?」とメニューの写真の中の男が注文を取る。

「コーンとマヨネイズのピッツァとアイスカフェ・オ・レをください」と私はメニューに答える。

「かしこまりました。少々お待ちください」とメニューの中の男の店員が笑顔で御辞儀して言う。私はメニューを閉じ、机の端のメニュー立てにメニューを戻す。

 目覚まし時計のアラームが鳴っている。私はあいつらの事を思い出しながら、そっと目を開ける。寝室のベッドに横たわり、寝ぼけ眼で白い天井を見上げ、じっと気持ちが落ち着くのを待つ。えっ、一寸待てよ。私は居間の炬燵を見にいく。炬燵が居間の本棚に立てかけられている。炬燵の蒲団は何処だ。ガラス越しにベランダを見る。炬燵の蒲団がベランダの柵に干してある。いやいや、これはいけない。寝室に寝に入った記憶も、炬燵を片づけて、蒲団をベランダに干した記憶もない。一体、何が起きたんだ。まだ冬なのだから、炬燵を仕舞う必要はない。私はベランダから炬燵の敷布と掛け蒲団を取り込み、元通りに炬燵を作る。炬燵の電気を点け、炬燵に脚を入れると、「ちゃんと元通りでないと判らなくなるじゃないか。駄目だよ、こんな事は」と言って、炬燵に横たわり、掛け蒲団を胸までかけて目を瞑る。私の家の物を誰かi勝手に片付けられたりする事を許してはいけない。色々な事など何も起きていない。私は混乱しているんだ。婚約者に婚約を破棄されたのが何だ!しっかりしろ!


 夜の海岸沖の旅客船から乗客達が小さな白いボートに乗り込んでいる。私はそのボートに乗り移る群集の中にいる。陸に上がるにはボートに乗り移らないといけないのか。私の番が来て、私も旅客船から梯子を伝って下り、ボートに乗り込む。ボートの底に溜まった海水で革靴やズボンの裾が濡れる。七、八人の乗客が同じ白いボートに乗り込んでいる。夜霧で周囲がよく見えない。空気は冷たく、ひんやりと濡れている。深い夜霧の中の顔の見えない老人達が船底に溜まった海水について口々に愚痴を零している。旅客船の長旅でゲイトボールをしていた老人達だろう。ボートは極めて弱いモーターの力でゆっくりと浜辺に向かっている。

 ボートが浅瀬に乗り上げ、動きが止まる。

「皆さん、舟で行けるのはここまでです。ここからは船を下りて、浅い海水の中を歩いてください」と大きな声で船頭が言う。

 我々は海水の中に足を下ろす。冬の海水は冷たい。あれ?冷たいよな?余り温度差がない。何だか足下に注意しながら、引き潮の遠い浜辺へと向かう。背後から幼い子供が私の足下に縋りつく。私は子供に右足を宙に上げられ、片足で重心を保とうと、跳ね回るようによろける。海水の中に倒れそうになり、子供の頭の上に手を置くと、自分の右足を抱き抱える子供の手を払う。

 私は大勢の渡航者と共に浜辺に降り立つ。移民局で戸籍を作れば、後は仕事を手に入れ、異国の地で生活の基盤を作れば良いだけだ。

 希望に胸をときめかせると、間もなく夢が褪せ、目覚めていく。何だか喉が渇いている。下半身がぐっしょりと汗で蒸れている。私は炬燵の中に横たわっている。

「あなた、こんなお天気なのにもう炬燵の蒲団取り込んじゃったの?」

「ああ、その事は今、何も言わないでくれ」

「何かまた変な夢でも見たの?」

 私は妻の質問には答えず、炬燵から立ち上がり、便所に向かう。

 私がフリーのカメラマンとして自立したのは今から三年前の事だ。つまり、あの最初の事件から早五年が経過している。私は今ではファッション関係の写真を専門に撮る某女性ファッション誌の専属カメラマンになっている。

 私は便所を出ると、洗面所で手を洗う。綺麗に色分けして整頓された白いタオル入れから私用の赤いタオルを出し、それを頸に巻く。石鹸水で顔を洗い、頸に巻いた赤いタオルで顔を拭く。タオル掛けの昨日使ったタオルを手に取り、今日のタオルをタオル掛けにかける。洗濯機の蓋を開け、昨日使ったタオルを放り込む。他の洗濯物を洗濯籠から洗濯機に放り込む。洗濯機に洗剤を入れ、洗濯機を回す。

 私は洗面と歯磨きを済ますと、洗面所を出て、台所で朝食の支度をする。食卓の上の八枚切りの食パンの袋から食パンを一枚出す。洗い場の左横の乾燥籠から自然乾燥で乾かした皿を一枚手に取り、食パンをその皿の上に載せる。私はダイニングルームの食卓の席の前に食パンの載った皿を置く。キッチンに戻り、ガスを点けて、フライングパンに油を注ぐ。冷蔵庫から生卵を一つ出し、フライングパンの縁で卵の殻を割ると、フライングパンの上で卵を焼く。乾燥籠から皿をもう一枚手に取り、皿の上にフライングパンで焼いた目玉焼きを移す。目玉焼きの載った皿を食卓の席の前の食パンの皿の右隣に置く。再びキッチンに戻る。冷蔵庫から一リットル入りの紙パックの牛乳を取り出す。乾燥籠からマグを手に取り、牛乳のパックと一緒に食卓の席の手前に置く。私はマグに牛乳を入れる。紙パックの牛乳を冷蔵庫に仕舞い、食卓の席に着く。

 昨日の出来事が漸く記憶に蘇る。食卓の席の左斜め前にある玄関の戸を不安な気持ちで確認する。食パンを手に取り、半熟の目玉焼きに醤油をかけ、卵の黄身に食パンを付けて食べる。

 あいつらとあの黒装束の外国人達は全く別の存在なのか。あいつらの存在は黒装束の外国人達より遥かに不気味だ。私はあの事件から五年経った今でも日常的な不安と闘い、気付くとあいつらの存在に怯えて暮らしている。時の経過と共に起きる日常の出来事や人との関わりには全く心が追いつかない。結婚した相手が雪花でなければいけない理由は何処にも見当たらない。そんな妻との間に息子まで生まれたのだ。家族の者らはそんな私しか知らず、それが本当の私だと思っている。こんな生活をしていて良いのだろうか。私には他者の事を気遣うような心のゆとりはない。彼らの心を幸せで満たす努力も出来ない。

 気味の悪い世の中だ。何で私はあんな事件に次々と巻き込まれたのか。私は毎朝悪夢から目覚めては、結婚前のあの事件の事を考え始める。仕事をしている時以外は一日中あいつらの事を妄想し、丸一日かけてあいつらの事を考え尽くすと、決まって重い溜息を吐く。

 ああ!毎日、仕事に出かけるのが不安でならない!気が狂ってしまいそうだ!こんな生活を五年も続けてきたのか。何処か安心して神経を休められるところはないものか。あいつらは一体何者なのか。それさえ判れば・・・・。

 朝食を済ますと、私は食器を洗い、食器を乾燥籠に並べていく。私は背後に壁のないキッチンで洗い物をしながら、自分の背中にあの時の銃口の感触を思い出す。私は恐怖のあまり力が抜け、台所の前で崩れるようにしゃがみ込む。

 見えない敵とは戦えない。この不安な気持ちが休まるのなら、いっそ奴らを殺してしまいたい。私の心は完全に奴らの存在に脅かされている。何故自分の敵が自分の心の中に存在出来るのか。台所の床にしゃがみ込んだ私の目の前が真っ暗になる。ぎりぎりまで何とか意識を保って眩暈を乗り越える。

「あなた!大丈夫?また思い出してたんでしょう?」と雪花が偶然台所にやってきて、台所の床にしゃがみ込む私に声をかける。家族には心配をかけまいと強がるどころか、心配する妻に対して満足な受け答えも出来ない。雪花は夏輝と別れた後、独りきりで奴らの影に怯えて暮らす私の前に突如として現われた。この人は私の心の弱さを支える裡に私との結婚に想いを募らせた。私は自分の不安や心の弱さを雪花に支えられてきた。私は雪花と生まれてきた息子の光矢のために何の家族らしい思い出作りもしてこなかった。私は別れた夏輝の幸福な未来すら願わず、唯自分の死の恐怖にだけ怯えて生きてきた。夏輝の事は今でも時々思い出す。それでも敢て自分からは夏輝の足取りや行方を知ろうとはしなかった。雪花は私にとって夏輝の代わりに現われた救い人だった。私は人間として、男として、自分の愛の限界を知り尽くした。今の私には以前のような他者愛はない。

 この日は仕事の日程を延期して仕事を休む。私は一日中ベッドの上で蒲団を被り、体を丸めて恐怖に怯える。雪花は私の様子を見にきて、私の体温を測る。三十八度九分の熱がある。私は食べた物を全て吐き出す。雪花は愚痴一つ溢さず、根気良く私の看病をする。

 夜、私の熱は平熱に下がる。

「今日は私達夫婦の五年目の結婚記念日よ」と雪花が夕食の食卓の席で言う。「あなたが一生懸命働いてくれて、家族が何事もなく幸せに暮らしていけた事に感謝します。それが何より家族にとっての幸せに繋がったんですからね」

「この五年間、俺はとにかく悪魔の存在に生活を脅かされ、精気を吸い尽くされてきた。俺はこの五年間、家族に対して何の真心も通わせてこなかった。俺は男のけじめとして苦労を重ねてきたお前達を解放しようと思う。俺達は離婚すべきなんだ」

「あなたは本気で私との離婚なんて考えてるの?あなたはもう私を愛していないの?私は離婚なんてしませんよ!」

「お前は俺の事を何も知らないんだ。本当の俺はお前が思っているような男じゃない。俺は単なる自分勝手な利己主義者だよ。俺はお前達から受けた愛や恩に対し、十分な愛や真心で報いる事が出来ない。俺はこれ以上お前達に対して十分な愛を注ぐ事が出来ない。それはこれからも変わらないだろう。俺はお前に対して非情な男を貫ける程悪い人間でもない。唯、苦しい。俺は堪らなく自分が情けない。これ以上お前の力に甘え、これ以上お前の力に頼って生きる訳にはいかないんだ」

「あなたは自分の本当の愛がもっと大きい事を知っているだけなの。あなたは普通の人が求める程度の愛には遥かに優る愛を示してくれたわ。だから、私にはあなたの離婚の決意を受け入れる事が出来ないの。私の人生にはあなたの愛が必要だったし、私には私とあなたが築き合った愛の実質だけが真実なの。それはこれからも変わらないの。私にはあなたの愛が必要なの。もしも、あなたが自分の愛に満足していないなら、私への愛の足りなさを悔やんで私と別れる事を決意するより、これからの私達をより愛してくだされば良いの。私はあなたの不安な心を支えるためにあなたの妻になったの。それがあなたとの愛の始まりで、私が獲得した大切な役割りだったの」

 雪花はそのように私との五年間を説明し、私との離婚を頑なに拒否する。雪花のこの五年間には私や息子に注ぎ続けた愛の時間が流れていた。私はその夫婦愛や家族愛にぎりぎり応えて共同生活をしてきたらしい。私には自分の至らなさをこれ以上正確に表現する事は出来ない。私が幾ら自分の真の夫婦愛や家族愛はこんなものではないと訴え続けたところで、私が想う夫婦愛や家族愛は私の過去において一度も雪花や光矢に対して表現し得た事がない。それは単なる想像上の愛に過ぎないのだ。私は心の何処かで別の女性との新たな結婚生活を想い、新しい家族の下で夫婦生活や人生を遣り直そうと考えていた。雪花はその考え方を間違いだと示唆した。全ては私の心の空回りなのだ。雪花はそのようにして、またしても私の醜態を豊かな愛で包み込んだ。私には妻に対する尊敬の念が足りない。雪花は夫からの勝手気儘な離婚の申し出に対し、言われるままに離婚届に判を押すような慎ましい女ではない。雪花には一度始まった愛を何が何でも完成させようとする強い意志がある。それは雪花が心に抱く結婚生活に対する信仰の表れなのだろうと思う。

 結婚記念日の夕食を終え、光矢が寝室に寝に入ると、私は雪花と居間でTVを観る。お笑い番組に夢中になって笑う雪花の声を聞き、妻や家族のいる空間の安らぎの脆さを想う。平和な日常が突如として崩れる。そんな不安が日常的に襲いかかる。家族の身の安全を護る自分の役割りが如何に無力であるか。絶え間ない妄想で頭が疲れ果てている。うっかり眠り込めば、酷い悪夢に苦しめられる。お笑い番組を観ていても心から笑う事はない。

 恐怖に引き攣る無数の亡霊達の顔の幻影に囲まれ、暗く巨大な渦の中へと落ちていく。あいつらの嘲う声が独り渦の中へと落ちていく私から遠ざかっていく。全ては自分の犯した罪の重さが原因となり、この底なしの暗い渦の中に落ちていくのだ。私は神様の救いを一心に求め、遥か頭上の光に手を伸ばす。私が光に手を伸ばした途端、白く光り輝く美しい女性の手が現われる。その手が力強く私の手を握る。その白く光り輝く美しい女性の手が私の体を力一杯闇の渦の中から引き上げる。私は光に向かって猛烈な速さで浮上していく。肉体感覚が砂のように飛び散る。私の意識は正に高速の速さで光の中へと突入していく。不安や恐怖が心の外に流れ出ていく。気分は瞬く間に晴れやかな明るさを取り戻す。弱々しい意識に光が生じ、その一点の輝く意識が太陽の光のように広がっていく。私の心は霊的な愛の無限の広がりの中に満ちていく。

 目覚めると頭の中の不安や恐怖がすっかりと払われている。炬燵の中で何時の間かに眠り込んでしまったのだ。窓外から雀の囀る声が聴こえる。もう朝か。

 私はもう十分に苦しんだ。人間死ぬ時は死ぬんだ。見えない敵に背中を向ける事に絶えず不安や恐怖を感じていたなら、死ぬまで気持ちが晴れない。この世には悪魔のような心を持った者らがいる。全ての犯罪の裏に悪魔の心が潜む。そんな悪魔のような者らの思いつきを相手に知恵や力を競うのは時間の無駄だ。ああ、水が飲みたい。喉がカラカラに渇いている。


 撮影現場の近くの公園のベンチで昼食を済ます。不安や恐怖の緊張感を癒すべく、子供の頃から好きだったコーヒー牛乳を飲む。私の前には自分を引き伸ばしたような影が伸びている。その影の頭の先に雑草が一塊生えている。髪の影が風に揺れ、緑色の雑草の一塊が風に揺れている。突然、背中に銃口らしきものを突きつけられる。心臓が停止するような衝撃が幻を掴むように素通りする。遂にこの時が来たか!私はずっと心の片隅でこの時が来るのを待っていた。私は穏やかな心で死を覚悟する。緩やかに流れる空白の時間を胸の中に吸い込む。何故だかとても救われたような気持ちになる。私は長年の不安と恐怖から解放された事に安らぎを得る。私はベンチの上で力尽きたように背を丸める。私の前には背後にいる者の影が伸び、その長く伸びた頭の影の上には一塊の雑草がニンジンのヘタのように位置している。私はその影を見て、ニンジン頭の髑髏を想像し、口許に緩んだような笑みを浮かべる。私には背後を振り返る勇気はない。最早、自分に出来る事は何も残っていない。目の前に伸びる背後に立つ者の影は動かない。男は黙って私の背後に立っている。もうこれで全てが終わる。私の前に伸びる影は一向に動かない。私は何も考えずにじっとしている。私の心は少しずつ落ち着きを取り戻していく。私は自分の思いを全て彼に打ち明ける。

「俺はもうあなたが怖くありません。死ぬ事も怖くありません。毎日毎日不安で、怖くて、恐怖のあまり発狂しそうになった事もあります。その不安や恐怖はもう俺の中にはありません。死の覚悟出来たら、もう怖いものなんてありませんよ。生きたいという希望すら抱いていません。俺はもう楽になりたいんです。俺にはあなたを殺したいとか、あなたを警察に訴えて罪を償わせたいなんて気持ちはありません。振り返ってあなたの顔を確かめたいとも思いません。俺には何処でどう生きようと、あなたの存在を忘れて過ごす事など出来ませんでした。俺はずっと死を待つのみの希望のない人生を生きてきました。あなたは死神でしょ?決して見てはならない顔っていうのはあなたのような顔でしょ?さあ!もうこの俺を殺してください。あなたが今くれた僅かばかりの猶予のお陰で、俺は自分が殺される瞬間がどんなものかが判りました。死が現実に差し迫ると、人間は自分が夢見るように生きてきた人生の本質を冷静に振り返られるようになるんですね。不意に殺されるなんて事は何て事ありません。さあ!思い切って俺を殺してください!もう俺にはこの世に対する何の未練もありません」

 背後に立つ者の影は動かない。私は死を覚悟して目を瞑る。神様を一心に想い、あの世に逝く心の準備をする。背後に立つ者の靴が砂利を踏む音がする。私は再び目を開ける。背後に立つ者の影が私の影の中に消え、足音がゆっくりと躊躇うように退いていく。私の視界から背後に立つ者の影が消える。私は何時立ち上がり、何時振り返れば良いのか。決意が固まった瞬間、私は素早く立ち上がり、背後を振り返る。私の視界に飛び込んできたのは青空に煌く眩しいばかり太陽の光だ。その太陽に向かって細身の体に赤いスーツを着た、金髪の短めの髪の男が去っていく。今日の撮影現場に来ていた若いモデルの男だ。

 どうやら私は苦しみを乗り越えたようだ。私は遂に生き地獄から這い出る事に成功したのだ!私は救われた。私は救われた!

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ニンジン頭の髑髏 天ノ川夢人 @poettherain

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