第5話 かつてないときめきで心臓がボギュボギュと破壊される


「こいつは期待の新人でしてな、ワタシの教育の甲斐かいあってようやく一人でやれる力もついてきたところで、いやァお目が高い!」


 社長が上機嫌でしゃべるのを、おれはとなりで神妙に聞く。

 社長の自分への評価で、「無能」以外のことばが出る日が訪れるとは、夢に思ったこともなかった。


 ――板壁建設株式会社 専務取締役 板壁いたかべたけし


 そう書いてある名刺をながめてから、目のまえにドッシリとすわる体格のいい男性をおそるおそる見あげる。


 タケシさんは、目が合うと二カッと笑った。


 先日、おばあちゃんをたすけたときのお兄さんは、家業が建設工事をう会社の四代目であったらしく、わざわざおれが渡した名刺をもとに連絡してきてくれた。


「これが礼になるか、わかんねぇけどよ」


 照れくさそうにポリポリと鼻をかきながら、タケシさんはそう言った。


 会社には、一年に一度「決算」といって、まあいろいろはしょって言うと「この一年でどれぐらい儲かったか」を税務署へ報告する義務(確定申告という)があるのだが、これがなかなか複雑なので、多くの中小企業が自力でやるのはなかなかにむずかしい。


 おれが勤めている税理士事務所では、その決算というものを会社の代わりにまとめて、税務署への報告も代わりにするような仕事をおもにしている。


 それでうちの事務所は、まあ激安(ゆえの薄給)というか、ほとんどがずいぶん安い金額でってばかりいるところ、タケシさんはもともと前の税理士に不満があったそうで、「あんたなら、信頼できる」と言ってうちの事務所としてはかなり高い金額で仕事の依頼をしてくれることになった。


御社おんしゃの未来は、わが社におまかせくださァいッ!」


 社長の有頂天まるだしの甲高かんだかい絶叫で、その場はひとまず解散することになった。


 エレベーターで、タケシさんとそのお父さんの社長さんを見送り、腰から深くからだを折り曲げて、きっちりトビラが閉まりきるまで頭をさげつづける(これをおこたると社長から尻を蹴りあげられる)。


 デスクにまでもどると、社長はおれとは比較にならぬ豊満なからだ(おなか)をゆすりながら、


「おまえもやるようになったなァ! なんだ、うち来てもう2年ちょっとだったか。新しいお客さん連れてくるなんざ、じょうじょうよ! 書類つくれるだけじゃなく、営業もできるようになってはじめて一人前よなァ」


 と、かなりの上機嫌をキープし、バンバンと何度もおれの背なかをたたいた。


 一週間近くつとはいえまだ完治しきらない背なかのスリ傷が痛み、「このハゲやめろマジで」という怨念をこめつつ「ッス」と声を発して頭をさげる。


 まさか、こんなことになるとは思わなかった。

 偶然のできごととはいえ、この社長が自分のことをほめる日がくるとは……


「きょうは定時で帰っていいぞ!」


 と、雪でも降るのかと思うような発言をした社長の声(しかしよく考えれば「帰っていい」と言われるまでもなく帰れるのが定時というものなのではないか)に押され、どこかポーっと雲のうえにでものっているような気分で帰る。


 ――帰ってどうしようかな、まあどうするもなにも資格の勉強するしかないんだけど。


 そんな夢も希望もないことを考えて最寄り駅で電車をおりると、


「あの」


 と呼びとめられたので、ふりむく。


 ――女神が、とつぜん目のまえに舞いおりた。


 という錯覚をいだいてしまうほど、尋常じんじょうじゃなくきれいなおねえさんがにっこりと笑っておれのことを見ている。


 ウェーブのかかった、すこしあかるい髪は、おねえさんの華奢な肩をあでやかにいろどる。

 その髪をたどっていくと、ちょうど先端のあたりが、おねえさんの着るほそい縦縞のはいったグレーのサマーニットの、服そのものの清楚さとは真逆のゆたかな胸もとの曲線にかかっていて、見まいとするもののどうしても視線が胸へ引き寄せられてしまう。


 おれが「失礼だろが」「いやしかしそうは言いましてもね」とひとり葛藤して眉間みけんをもんでいると、おねえさんは笑顔をくずさずスッと腕をあげてむかいのホームをゆびさした。


「あそこ」


「あそこ?」


 ちょうど電車が去ったあとの、人がまばらに立つホームを指しているようだが、特段目を引くようなものはない。

 なにを言いたいのだろうとさがしていると、おねえさんがことばを継いだ。


「このあいだ、男の子と抱き合ってませんでした?」


「あ、あー」


 おれは、一週間近くまえに、男子高校生をたすけようとして結果的に不審者おじさんになってしまった日のことを思い出し、恥ずかしさから思い出し奇声をあげたくなってしまった。


「抱き、まああの抱き合ってといいますか、抱くのが目的じゃなくって、ま、そのー」


 あのとき客観的にどう見えたのかがわからず、ゆえに「たすけようと思って」と言って信じてもらえるのかの判断もつかず、不明瞭な言語をしゃべって時間をかせぐ。


 ちらとおねえさんの顔を見た。


 おねえさんの笑顔の度合いがゆらがないので、どのような感情なのかは読みとれない。


「たすけてたん、ですよね」


 おねえさんは笑みをふかめ、ひとみに慈愛を宿しておれを見かえす。


「いっしょけんめい走っていったの、見てました。あんなにやさしい人、いるんだなぁって……」


 へたしたら「なかなかのキモいお点前てまえでしたな」「拙者通報寸前でしたぞ!」といった悪罵あくば(なぜかいにしえのオタク口調になってしまったがおれの狼狽ろうばいの程度を察してほしい)をあびせられるかもしれぬ、とやや身がまえていたので、自分が身をていして少年をたすけたことがわかってもらえたうれしさと、そのことばにこもったあたたかな響きに、おれは思わずドキマギとしてしまった。


「いやいややさしいだなんてとんでもグヘヘ」


 おのれのコミュ障がにくらしくなるほどうまくことばが出ない、ばかりかキモめの下卑げびた笑いが出るのにいやけがさしたが、出てしまったグヘヘはもはや引っ込ませるわけにもいかない。

 おれはとりあえずからだのまえで両手をふり、謙遜だけは示しておいた。


「たすけていただいたあの男の子、じつは、私の弟なんです。私も遠くで見かけて、あんなところではしゃいであぶないって注意しようと思ったんですけど、あんなことになるなんて……。あなたがいらっしゃらなかったら、あの子がどうなってたかわかりません。お礼をキチンとお伝えしたかったのもありますし、もしすこしお話しできたらうれしいなぁって思いまして、もしよければ、駅前でお茶でもどうですか? あっ、彼女さんに申しわけないので、本当に、もしよければなんですけど……」


「彼女なんて、いませェん!!」


 おれは先ほどの有頂天社長のイメージが上書きされてしまうほど、頭がふわふわとしたまま無意識に絶叫していた。


 だって、こんなきれいで、つつしみもあるおねえさんから声をかけられて、おことわりなんてできるわけがない。

 どうせこんなことはおれの人生で二度とないだろうし、がんばってダッシュして少年をたすけたごほうびにお茶をのむぐらい、カミサマの粋なはからいだって思ってもゆるしてもらえるだろう。


 そう自分に言い聞かせながら駅まえの喫茶店へはいると、仕事上の習慣でなにも考えずに4人席の下座しもざ(入り口側)に腰かけたおれに対し、おねえさんはなぜかとなりのイスに座ってきた。


「だって、むかいに座ったら緊張しちゃうから」


 おれの真横から、上目づかいですこしだけ笑うおねえさんは、蠱惑こわく的な、小悪魔じみたナニカを感じさせる。


 これ、もしかして死神の亜種というか、なんか悪魔の一種的なあれなのか?

 あるいはもっとシンプルに美人局つつもたせ


 と疑心暗鬼になってキョロキョロとまわりを見るが、死神のカバネちゃんは現在とくに見あたらないし、店員さんが2人分の水をもってきたことからも人間であることはうたがいなさそうだ。


 ふうと、おねえさんは妙につやめいた息をほそく吐くと、コップをもって水をひと口ふくみ、服の首もとをパタパタと開け閉めして、


「あははっ、あんなふうに男のひとに声かけたのはじめてで、あつくなっちゃいました」


 とてれくさそうに笑う。


 ――ズギュン、ボギュボギュボギュ


 と、そのかれんな笑顔としぐさの“特大級のかわいさ”に、おれの心臓がボコボコに破壊される音がした(そとに聞こえたかはわからないがおれの体内ではたしかに鳴った)。


 もう、たとえだまされていたっていい……


 と思いながらおねえさんと話していたが、「やだもう」とコロコロと笑うおねえさんに見とれているうちに時間はあっというまにすぎ、とくにこわいお兄さんが出てきて「おうコラ、ワシのツレになにしてくれとんじゃい」と言われるようなこともないままお茶の時間はおわった。


 おねえさんがお手洗いに立っているあいだにお会計をすませておくと(仕事のとき、支払っているすがたをお客さんに見せると社長から肩を高速パンチされる)、


「やだ、それじゃお礼にならないじゃないですか!」


 お店を出たおねえさん(ミオナさんというらしい)に詰め寄られ、


「じゃあ、つぎは私がごちそうしますね!」


 と、笑うミオナさんからLINE交換をもちかけられた。


 そのままぼうっと家につくと、頭がはたらかないまま、最近日課にしているランニングをすこしだけした。

 死神のカバネちゃんに走らされてからというもの、そういえば学生のとき走るのが好きだったことを思い出して、なるべく毎日、すこしだけでも走るようにしているのだった。


 そうすると頭がスッキリするので、資格の勉強にも身がはいる。

 とはいえ、さすがにきょうは予想外のことが起こりすぎて、家にかえってからもポワポワと夢を見ているようだった。


 ――人をたすけたから? いきなりこんなことが立てつづけに起こるなんて……


 机に座りながら、とりあえず部屋のすみに寄せただけのブルーシートとロープを見つめる。

 すると――


「こーんばーんわぁ」


 というのんびりとした声が聞こえ、ついで背泳ぎするようにあお向けの姿勢のまま窓からカバネちゃんが侵入してきた。


「きょうもおもしろい話がありましてぇ」


「――行きます!」


「……えっ、あっ、はやっ」


 垂れぎみの目と眉を、はじめて困惑げにカバネちゃんがひそめる。


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