第3話 おばあちゃんを助けたらガタイのいい孫がきて泣かされる


 それからはもう夢中で、こまかいことはおぼえていない。


 歩道橋を渡ろうとしたおばあちゃんは、10段ものぼらないぐらいのところでうしろへたおれてしまったようで、さいわい地面からそこまではなれていなかった。


 おれはたぶん「あぶないとこだったな、マダム」とかっこよくキメながら抱きとめようとして、おばあちゃんに飛びついたのだと思うんだが、ぱっと見は小柄なおばあちゃんだったのに実際抱きとめてみると「あっ、たおれてくる人間ってこんなに重いんだ」という事実にびっくりすることになった。

 おれはとてもじゃないがおばあちゃんの体重を支えきれず、腹部への衝撃にまたちょっとだけおしっこをもらしながら、


「あっぶ、ふぁーw」


 という奇声を発して(なぜか笑ってしまった)おばあちゃんごとズテーンと地面にたおれる仕儀しぎとなった。


 ダサすぎる。


 いきおいをうまく殺せたせいか、なんとかふたりとも無事ではあったものの、起きあがろうと瀕死の虫のようにバタバタともがくおれを見て、死神のカバネちゃんは腹をかかえて笑った。


 おまえがたすけろとか言うせいでこんなんなったんだろうが。


 おれは苦情を申し立てようとしたが、まずは腕のなかのおばあちゃんに、「だ、だいじょうぶですか」と声をかけた。


「あら、あら、ごめんなさいねぇ」


 おばあちゃんはおっとりしたしぐさで、立ちあがった。

 失礼かとは思ったが、スウェットの袖でハタハタと服のよごれをはたくお手伝いをする。


「あなた、ケガはなかった? ありがとうねぇ」


「は、ま、ダイジョブです」


 生来のコミュ障であることをとっさに思い出したように、ついたどたどしくこたえてしまうおれ。

 と、そうしていると、


「ばあちゃん!」


 歩道橋のうえから大きな声がして、見あげると、ずいぶんとガタイのいいお兄さんが階段をドカドカとけおりてこちらに向かってきた。

 はぁはぁと息をきらし、すがるようにおばあちゃんの肩をにぎりしめて、


「だいじょうぶか!? ケガ、ねぇか!」


 と心底しんそこ心配そうな顔でおばあちゃんの全身を確認する。

 その後、ぐるりとおれのほうをふりむき、


「あんたが、ばあちゃんたすけてくれたんだな。ありがとう」


 と筋骨きんこつたくましいからだをていねいに折り曲げて、ふかぶかと頭をさげてくれた。


「いや、自分、ぇっす」


 初対面の知らない人が相手だとどうしゃべっていいかわからないおれは、ことばが出てこず不明瞭な応答をした。

 われながらもう少し日本語しゃべれよと思う。


「なんか、礼させてくれ。どっかごちそうできるところがあればいいんだが、メシおごるような時間でもないか……」


 お兄さんがスマホで時間を確認する。

 もうだいぶ夜もふけているので、煌々こうこうとかがやいているのはすぐ近くにあるファミレスくらいだった。


「いっす、いっす、ダイジョブっす」と言い終えたところで、ぐぅぅと腹の虫が大音量の鳴き声をあげる。

 そういえば、もう2日絶食して水しか飲んでないんだった。意識すると急激におなかがすいてきた。


「なんだ腹減ってんのか! ファミレスでわるいが、なんでも好きなもん食ってくれ。ちゃんとした礼はまた後日するからよ」


 押されたらよわい、ザ・日本人のおれはお兄さんに肩を抱かれ、グイグイとファミレスにまで押しこまれてしまった。


 そうしながら、お兄さんがちらりとおばあちゃんを見たあと、「ばあちゃん、最近目をはなすと徘徊しちまうことがあって、こまってたんだ。ほんと、巻きこんで申しわけねぇ。でも、ほんと、たすかった。大事なばあちゃんなんだ」と目に涙をにじませておれの耳もとでささやいた。


 ひとの涙を見てしまうと、なおさら、ことわれない。

 しかも理由が「自殺のために絶食してるので」というのは、どうにも初対面の人には言いにくいものがある。


 25歳ぐらいのころから、なぜか急激に涙腺がゆるくなってしまったおれは(SNSで流れてきたねこちゃん大救出みたいな動画を見ても泣いてしまうほどだ)、「そうなんスね……」「ならよかった」と鼻の奥にツンとしたものを感じながらこたえた。


 最悪ドリンクバーだけでもいいかと思っていたのだが、お兄さん(話を聞いてみると32歳で、おれより少し年上だった)は気づいたらステーキをはじめいろいろなものを注文していた。

「おや、自分で食べるのかな?」と思っていたらおれのまえにズラリと料理がならべられていく。


「さ、好きなもん食べてくれ!」


 体育会系とは縁のない人生をあゆんできたおれは、なるほど、よしあしはあるだろうが、こうすれば相手にメニューの遠慮をさせずに食べさせることもできるのか、と感心しつつ、もう逃げられないなと観念してステーキをひとくち食べた。


 ……死ぬほどうまい。


 「空腹は最高のスパイス」というようなことばがあるが、まさにそのとおりで、からっぽになった胃に、噛むほどにあふれ出てくる肉のうまみと、ソースの濃厚な味わいとが渾然一体こんぜんいったいとなって流れこみ、口のなかに至福がみなぎっているといってもいいほどのおいしさを感じた。


 からだがエネルギーを欲していたことを、腹の底から全身にあたたかなものが広がっていくことで実感する。


 おれはもう夢中になって食べた。

 「いっすいっす」と遠慮していたくせに恥も外聞もなくがっつき出したおれを見て、お兄さんは「だれもとらねぇからゆっくり食べてくれ」と豪快に笑い、おばあちゃんはわかっているのかいないのか、お茶をすすりながらニコニコとほほえんでいた。


 口のなかに食べものをつめこみ、がっつきすぎてときにはむせた。

 息をゲホゲホと吐いて、息ぐるしくって、胸をたたきながらついあの、死にたくなった、生きていたくなくなった息ぐるしさのことを思い出す。


 ――おまえの代わりなんて腐るほどいるんだからな。

 ――おっ、いますぐやめるか? おまえみたいな無能をとってくれる会社がほかにあるとは思えないけど。


 社長から、ミスをするたびに叱責され、なんども、なんども、「おまえの代わりなんて腐るほどいる」と頭蓋骨の内側になすりつけるように、くり返された。


 ときには大声で鼓膜がやぶれそうなほど。

 ときには低く、奈落の底からひびくうめき声のように。


 ミスをするおれがわるい。

 そんなことは、わかっている。


 未経験ではいったからなんて、お客さんには関係がない。

 そんなことは、わかっている。


 わかっているから、くるしい。息ができない。おぼれているみたいに、もがくたび、水の底へとしずんでいく。

 くるしさは増して、海上の光は、どんどんと遠くなっていく。

 水圧でつぶされてしまうような深海にまで、ひともがきずつ、おちていっているみたいだ。


 いつか、仕事ができるようになれば、浮上できる日がくるんだろうか。

 それは、いつ? 何年先? 資格の試験にさえ受かれば、またちょっとちがうのか。


 平均8年もかかるという試験に、おぼれたまま、この息ぐるしさをかかえて、ずっと?

 しかも、すでに2年の月日を、ムダにしてしまっている。

 息ぐるしいまま、ずっと日々がすぎさっていくだけなら、ただひとりでしずみつづけて、光から遠ざかっていくだけなら、もういいかと思った。


 ゴボゴボと空気が出ていくだけの深海の底よりは、もう息をしなくてすむ、なにも見なくてすむ暗やみのほうが、ずっとマシだ。


「なぁ」


 声をかけられて、顔をあげた。


「あんたがいてくれて、よかった」


 店内のライトが、まぶしくて目をほそめる。


「ありがとうな」


 おれの代わりなんて腐るほど……


「はしってばあちゃん探してたらよ、遠くで歩道橋のぼっていくのが見えて、あわてて道路わたろうとしたんだ。でも、車がとぎれねぇからすげぇあせってた。そしたら、ばあちゃんがぐらついて宙に浮いただろ。おれぁもう、頭から落ちて、もしかしたら死んじまうかと思って、大声でばあちゃんってさけんじまった。そしたらあんたがどっかからはしってきて、必死に、ばあちゃんを受けとめてくれた。汗だくだったもんな。必死だったこと、遠くからでも、わかったよ。まえにさ、いや、見てられなかったおれがわりぃんだけどさ、ばあちゃんが足もとおぼつかなくてちっちゃい子にドンとあたっちまったとき、キレたその母親から『さっさと死ね』って言われたことあるんだよ。そんな年寄りにさ、若いねぇちゃんならまだしも、見も知らぬどっかのばあちゃんのためによ、あんなに必死になって汗だくでたすけてくれるやつがいるなんて、思ってもなかったんだ」


 深夜のファミレスは、しずかで、カタカタという音がわずかにひびく。


「あんたでよかった。あんたがいてくれて、本当によかった。ありがとう」


 お兄さんが、噛みしめるように言って、頭をさげた。


 おれは、ただただなにも言えず、カタカタという音が、自分のもつナイフとフォークがふるえて皿にあたっているせいだということに気がついた。


 ぎゅっと眉間にちからを入れて、目のまえのステーキの切れ端をにらむ。

 それでも顔のふるえがおさえられなくて、ポタポタと、水滴がステーキのうえにしたたった。


「あ、いけね。ばあちゃん!」


 お兄さんはそう声をあげると、おばあちゃんのもとへ飛んでいった。

 いつの間にかドリンクバーをつぎにいっていたおばあちゃんは、店員さんにニコニコと話しかけつづけていて、店員さんがからだを厨房のほうにむけながら苦笑いをしているところだった。


 おれはそのスキに、テーブルの紙ナプキンを何枚もつかむと、目もとをぬぐってズビビと鼻をかんだ。

 そうして顔をあげると、カバネちゃんがおれのすぐ上をただよっていてびっくりする。


 なにか声をかけようとしたが、まるで菩薩ぼさつのような、あるいは、死神とは正反対の天使のような、おだやかで清らかなほほえみで、おばあちゃんと店員さんにあやまるお兄さんをながめている。


 ――人が死ぬの、大キライだから。私。


 カバネちゃんがそう言っていたのを思い出す。


「生きていて、よかったねぇ。人は、死んだらダメだよ。できるかぎり、生きていなくちゃ」


 満足げに、ボソリとつぶやく。


「言ってたこと、本当だったのか」


 おれが小声でそう言うと、カバネちゃんは何度か見せた、ニィィとあやしげに口をゆがめる笑いかたで、フヒッという音をもらした。


 もどってきたお兄さんに、本当にごはんをごちそうになってしまい、いつの間にか消えていたカバネちゃんに一夜の夢のようなものを感じつつ、おれはひとりで家へ帰った。

 ブルーシートのうえの布団にたおれて、気絶するようないきおいで、ねむる。


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