新たなる旅立ち

第55話 新たなる旅立ち


 俺が厩舎でのんびりしていると、扉が開いてカン高い声が響いた。


「あっ、やっぱり寝ている。ここのところサボってばっかりじゃない」


 ミーナだった。長い髪が揺らしながら馬房に入ってきた。


「ほら、出てきなさい。調教の時間よ」


 いやだよ。昨日も一昨日も坂路で走っただろう。今日ぐらいサボらせてくれよ。


 俺はダービー馬なんだよ。この国の三歳馬で、一番強いの。強いウマにはのんびりする資格があるんだから、あとよろしく。


 俺が欠伸をすると、ミーナは俺の身体を叩いた。


「ダービー馬のくせに、だらしない格好をしないの。国外遠征も決まったんだから、しゃんとしなさい。あまりぐずぐずしていると、坂路調教一本追加だからね」


 ええ、それは勘弁してください。もう季節は夏なんだよ。無理したら、倒れちゃう。いや、死んじゃう。


 ミーナが腰に手をあてて見おろしているのを見て、俺はあきらめた。


 しゃあねえなあ。じゃあ、ちょっとばかり身体を動かしてくるか。


 俺が立ちあがったので、ミーナは引き綱をかけた。引っぱろうとしたところで、俺はちょっとばかり前に出て、その顔をミーナの胸に突っ込む。


「やめなさい。この変態。もう信じられない」


 ミーナが俺を引っぱって厩舎から出ると、ちょうどチコが別の馬の調教を終えて戻ってきたところだった。


 黒い服と夏の日差しがコントラストを為している。額を流れる汗が健康的で、見ていて気持ちがいい。


「ありがとう。連れてきてくれて」

「あのさ、チコ、やっぱり、こいつ変だよ。今もあたしの胸に頭を突っ込んでさ」

「いいんじゃない。別に減るものじゃなし」

「減る。減るんだよ。何か大事なものが」


 ミーナは引き綱を離した。


「ちゃんと締めておいてよね。あんたがやらないなら、あたしがやるから。思いきりひっぱたいてやる」


 いや、それはそれでありがたいお仕置きですよ。


 引き綱を受け取ると、チコは俺を引っぱって、丘の下にある小川まで連れて行った。


「さあ、調教するよ。その前にしっかり水を飲んで」


 へーい。


「帝国の馬は強いからね。生半可なことじゃ勝てないよ」


 ワラフもそんなことを言っていたな。


 三年前、帝国の馬が遠征してきて、こてんぱんにやられたと。以来、王国の調教師は捲土重来の機会をねらって、鍛錬に明け暮れていたようだ。


 その時がようやく来た。


 ダービーに勝った俺は、ネマトンプに戻ってきて、しばらくのんびりしていたが、つい先日、北の帝国領で開催される国際レースに参加することが決まった。何でも帝国だけでなく、周辺各国から強い馬が集まって、ナンバーワンを決めるらしい。


 注目は西の草原地帯から来る競走馬で、今まで他国でレースをしたことがないだけに、いったいどんなものなのだろうと話題になっていた。


 この国からは、俺を含めて三頭が参戦する。


 もちろん、最有力は俺よ。なんといっても、ダービー馬だからね。


 馬体も成長しているし、相手がどんな馬だって負けやしねえよ。


 向こうの世界で、俺は何度か海外遠征したが、勝利することができなかった。


 今回はきっちり結果を出してやる。


「トーク、ううん、陛下から手紙も来たよ。しっかり頼むって」


 王国からの通達には、王様からの私信も混じっていたらしい。表情は晴れやかだ。 まだ完全に吹っ切ったわけではないだろうが、気持ちが前に向いていることは間違いない。


「勝ったら、その賞金を牧場開設の足しにしてくれって。だったら、張り切らないわけにはいかないね」


 そうだな。大事な約束だものな。しっかり守りたいよな。


 俺は空を見あげる。


 太陽は昇って間もないところだが、輝きは忌ま忌ましいぐらいに力強い。チコの影はまっ黒で、この先、どのくらい熱くなるか想像できて、いやな気持ちになる。


 風も弱まっていて、助けにはならない。このまま水浴びしていたい気分だぜ。


 思わぬ形でウマに転生した俺が、まさか、こんな日々を送ることになろうとは。予想もしなかったぜ。ダービーを勝つどころか、海外遠征とはね。驚きだ。


 不思議と違和感はない。自然と状況を受けいれている。


 この先、どうなるか、俺にもわからない。


 元の世界に戻るのか。それとも、このまま暮らしていくのか。


 競走馬の寿命は短いから、ここに留まると、俺はあっという間にくたばることになる。事故でもあったら、もっと短い。


 帰ったところで、居場所があるかどうか。この間みたいに、都合よく時間の流れがずれているかどうかわからない。向こうの方が先に年月が経っていることだってありうるんだ。正直、微妙だ。


 だが、俺はあまり気にしていない。だいだい、こうしてウマになっていることが異様なんだ。この先、何が起きてもおかしくないわけで、下手に知恵を働かせても、あまり意味はない。


 大事なのは今だ。今をどうやって生きるか。今をよくするために、できることは何なのか。それだけ頭に乗っけて動けばいい。


 その積み重ねが将来につながる。動いていれば、いつかぱーっと道が開ける時が来る。そういうことだ。


 だから、俺は今、やるべきことをやる。状況が変わったら、その時はその時だ。


 なあ、チコ。


「そうだね。やることをやっていこうね」


 あれ、俺の問いに答えた? じゃあ、伝わっているのか、こっちの言葉が。


 俺はチコを見たが、表情に変わったところはなかった。引き綱を外すと、首にかけて俺の背中に乗る。その顔はまっすぐ前を見ている。


 気のせいか、それとも伝わったのか、よくわからねえ。


「さあ、行くよ」


 チコの合図に応じて、俺は駆け出す。その顔は、自然となだらかな丘につながる坂道へと向いていた。




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転生したらウマだった ーー異世界競馬奇譚ーー 中岡潤一郎 @nakaoka2016

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