第53話 決戦と未来 #7
俺が大きくを息を吸い込んだところで、チコが馬上で立ちあがり、大きく鞭を振りあげた。
何度も何度も。
声はない。だが、俺には聞こえる。歓喜の声が。
勝った、勝ったという言葉が。
やった。やったぜ、チコ。
勝った! 俺たちはダービーを制覇したんだ!
ははあ、たまんないぜ。
その時、俺は涙が出るのを感じた。風に押されて、目尻から後ろへ流されていく。
なんだ、ウマでも泣くのかよ。驚きだな。まったく驚きだぜ。
俺は涙を抑えることもなく、ゆっくり速度を落としていった。そのたてがみをチコがなでる。それは、これまでで一番、心地よかった。
レースを終え、スタンド前に戻ってくると、大観客が俺たちを出迎えた。
歓声と拍手の音が響いて、チコは馬上で頭を下げた。
コース脇まで進むと、柵を越えて、仲間たちが飛び込んできた。
ミーナは大泣きしながら、俺に飛びついてくる。
やめて。疲れているから。駄目だって。でも、ああ、いい感触。
チコは馬上で泣きながら、ミーナの手を取った。二人はしっかり握手した。
顔をぐしゃぐしゃにしているのは、男爵だ。人目も憚らずに号泣している。勝った、うちのウマが勝ったと言いながら。
何だよ、お前もいい奴かよ。よかったな、思いがかなって。
ワラフの爺様はあまり表情を変えずに大股で歩み寄ると、俺の身体をなでた。よくやったなと言いたげだ。
おうよ。やってやったよ。お前さんが作ったウマが頂点に立ったぜ。どうだよ。
「ありがとう」
感謝の言葉が洩れる。それは、俺の心に強く響いた。
ワラフはチコに声をかけ、握手する。二人に余計な言葉はいらなかった。
引き綱をかけられて、俺はコースから出て行く。
その先には、正装の騎士団と、その主が待っていた。
ワラフは俺から離れて、膝をつく。ほかの連中もそれにならう。
違うのは、チコだけだ。ウマから降りることはない。
ゆっくりと王様はこちらに近づいてくる。別段、馬上のチコを咎めようともしない。その表情は穏やかだ。
そう。前にチコが言ったダービー馬の騎手にだけ許される名誉。
それは、馬上で王様の出迎えを受けること。
本来ならば、ありえないことだ。どこの国でも、馬上で君主と話をすれば、無礼とみなされる。処罰の対象になる。
俺たちの世界でも、国の一番偉い人が来た時、勝った騎手はウマから降りて最敬礼した。それは規則に反することではあったが、事態を鑑みて制裁はなかった。それぐらいに重要なことだ。
これは、初代国王ラーム一世が、ダービーを観戦した時、関係者に敬意を表するために行ったことで、以来、伝統となった。
さすがにウマへの評価が高い遊牧の民だけのことはあるね。
王様は俺に近づくと、その顔を見た。目線があう。
黒い瞳が印象的だ。顔立ちは整っているが、どこか憂いがこもっている。頬の肉も落ちているようで、ちょっと見ただけで無理をしているとわかる。
黒い正装とマントは似合っているが、それも背伸びした結果のように思える。
いろいろと大変なんだな、王様って。チコと同い年だから、まだ一八歳か。本当によくやっているよ。
王様は俺の顔を軽く撫でると、チコを見あげた。
「おめでとう。よくがんばったね」
「この子のおかげです。最後まで踏ん張ってくれました」
「見事にダービーを制した。女性では二番目の快挙だ」
「はい」
「夢を叶えたね。君は一流の騎手だ。見事だ」
最後の言葉は、どこか突き放したような響きがあった。王と騎手という立場を意識して、線を引こうとしたのか。
敏感なチコがそれに気づかないはずがない。頭を下げて、しっかり礼を尽くす。
一瞬だけ二人の視線がからみあう。
これで終わってしまってもよかろう。
別れを迎えても、チコはすでに立ち直りのきっかけをつかんでいる。今までのように落ち込むことなく、自分の道に進むだろう。
騎手と王。二人の住む世界はまるで違う。
二度と交わることなく離れていくのが自然であり、正しい。
だけど、それじゃつまらねえよな。
立場が違う? そうだな。だけど、その前に人と人だろ。
心を通わせた者が大人の振りをして別れても、何も得るところはねえんだよ。
罵られてもいい。叱られてもいい。何でもいいから、自分の好きなようにやってみな。でないと、何も見えないぜ。
俺はわざと首をひねった。そこには、ワラフがかけたまま引き綱がある。
王様はそれに気づいた。チコもわかった。二人は同時に笑う。
「少し歩こうか」
「そうだね」
仕方ねえなあ。やらせてやるよ。
引き綱を引いて、俺たちはコースに入った。
お付きの人たちが驚いた顔をして止めようとしていたが、王様は軽く手を振って、それを押しとどめた。
戸惑う隊長さんをワラフがなだめる。
いいねえ。そういうところ。わかってくれている。
さあ、いこうぜ。
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