第8話

 11時35分を過ぎた頃、犬神は渋い顔で甘いコーヒーの紙カップを片手に雑居ビルを出た。


「はずれかぁ」


 少女からひとしきりその身に起きたことと、高槻雛南と木下という男に助けられた話を聞かされた。そして得た確信は、彼女は潔白ということだけだった。

 店員にも話を聞いたが、高槻雛南が被害にあった時刻、彼女は自分のブースでカップラーメンを食べていたという。体質変化の時期でだるそうにしている以外は変わった様子はなく、血の飢餓に関する体調悪化の兆候もない。


 ため息をついて携帯電話を取り出し、画面をなでて月院清時の番号を開いた。


(もう一度現場に戻って匂いを追うか。いっそのこと被害者のいる病院に向かって負傷箇所の匂いを嗅いで加害者の匂いが残っていないか探ったほうが早いか。いや、既に匂いは病院の外科処置の過程で消えてるか)


「ああ、肉食いてえ」


 しっぽを垂らし、ため息をついて、胃の当たりをさすっていると、電話が鳴った。

 表示は月院清時である。

 びっくりして携帯を落としそうになりながら、通話ボタンを押す。


「はいもしもし」

「加害者の潜伏場所がわかった。新町の中急ホテルだ」


 いつものふざけたセージの口調ではない。月院血統当主としてのりんとした声だった。

 それをきいて犬神はしゃきっと耳を立てた。


「裏はとれてるか?」

「血統の鬼籍がフロント係をやってる。今、監視カメラも確認させた。お前が追った方がハズレなのも、こちらの婚約者から聞いた。とにかく行ってくれ。まだ警察には通報してない。単独で踏み込める。細かいことは後で話す」


 中央新町駅前の大手チェーンのビジネスホテルである。

 その外観からエントランスまで概ねどの系列店舗も同じような見た目をしている。

 ロビーに入り、フロントで犬神はおもむろにマスクと雨を吸ったフードを外し、犬のような毛並み豊かな顔をさらした。これを見て、フロント係の男は訳知り顔で頭を下げた。


「犬神様ですね。当主より話は聞いております」


 人狼むき出しの人相もよくわからない顔の犬神が口元を覆う立体マスクをつけながらうなずく。フロント係はカードキーを差し出した。


「5階の506号室、内野様です。2時間ほど前にコートの襟が赤くなったお姿でお戻りになり、まっすぐお部屋に」

「その後は部屋を出てないか」

「廊下の監視カメラを見る限り、部屋を出入りした様子はありません」

「わかった。鍵は、用事が済んだらここであんたに返せばいいんだな」

「警察が来た場合には、私の代わりのフロント係にお出しください。外出のために鍵を預けるふりをするのです。その者も血統の鬼籍者ですので、事情はわかっています」

「助かる」

「では、どうか穏便に」

「わかった。タクシーの手配をしておいてくれると助かる」

「承りました」


 そう言ってカードキーを引き取った。

 そして、そのまま速やかにエレベーターに乗り、握りこぶしで5階のボタンを押す。

 フードを被り直し、斜めがけに身に着けたボディバッグを開く。


 サングラス代わりのバイクゴーグルをかけ、手に指紋避けのゴム手袋をはめる。そして金属の容器を出して中身を確認する。封を切っていない採血用の注射器と空の真空採血管が2本。1本は加害者と被害者の一致を確認する検査用、もう1本は合致したときに被害者に経口接取させる分である。バッグの取り出しやすいサイドポケットに容器を差し直した。


 その姿で目的の階に降りる。

 506号室のドアノブには清掃不要のカードが掛かっている。

 鍵を接触型のカードリーダーに押し当て、そっとドアノブをひねる。

 薄く開いて、匂いとドアガードの状態を確認した。ドアガードは掛かっていない。オートロックだけだ。

 天井灯は奥の部屋から廊下までついている。床は足音のしないカーペット地である。


 そっと入り、マスクを外す。

 部屋の中は事件現場で嗅いだのと同じ、衝動抑制剤を服用した血飲みの体臭で満ちていた。高ストレスと疲労時に出る体臭の匂いもする。


 そこに、奥の方から湿った外気の匂いが抜ける。聞こえる音は、風の音だ。

 犬神は(まずい!)と思い、部屋の奥に足音もなく駆け込んだ。


 窓が開け放たれている。

 椅子には赤黒く乾いた血のついたままの背広と、それの上に羽織ってきたと思しき襟の内側が同じく赤黒く血の匂いのこびりついた墨色のコートが置かれている。

 テーブルの上には、英字の薬の箱と薬剤の収まったシートが飲みかけの水のペットボトルと共にある。


 犬神の知っている銘柄の薬だった。

 血飲みの吸血欲求時の症状を抑制する薬だ。ネットの個人輸入で手に入れることができる。そして長期間服用し続けた場合、薬への耐性が生じる。耐性により薬の効果は徐々に薄まり、服用量、服用間隔も短くなる。そういう薬だ。


 それを尻目に、窓に駆け寄り、体を乗り出して階下を見た。

 衝動的に飛び降り自殺を図ったのではないかと思ったのだ。

 だが、それらしい人の落ちた姿はない。


 振り向いて、部屋の中に耳をそばだてた。

 微かに息遣いが聞こえる。

 それを追って、そろりそろりと歩いていきついたのは、室内の短い廊下の脇の小部屋、ユニットバスの浴室である。


 彼はボディバッグをそっとおろして、注射器類の金属容器を取り出してジャケットの胸ポケットに移した。それからユニットバスの閉ざされた戸口の前に立った。ドアノブを掴んで、そっと回す。鍵は掛かっていない。


 一気に外開きに引き開ける。

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