第2話 薔薇

 ああ。

 もう、終わった。


 わたしは、これから危険な連中に強引に拉致されて、彼の言う瀬戸内海の小島とやらに連れていかれるんだわ。

 そこでは、毎日、知らない男に裸をさらすんだわ。

 毎日、知らない男に蹂躙されて、意志も将来への希望も何もかも持てず、一年後に廃人と化して、この地に戻ってくるのね。

 一筋の涙が頬を伝う。

 走馬灯のように、今までの楽しい思い出がよみがえる。


 お父さん、お母さん、ごめんなさい。

 わたしが間違っていた。

 あまり完璧を求めすぎるな。

 結婚前夜、そう忠告された。

 妥協を許さない頑固者と揶揄されたわたしを心から心配した、両親の最後のお節介だった。

 今となっては、その全てが正しかった。


 あらゆることを犠牲にしてまで選んだのに。


 こんなことになってごめんなさい。


 これで四回目。


 もう一回、過去を消去するしかないのね。


 チャンスは残されてないのに。


 全てを覚悟して、ぎゅっと目を閉じる。

 すると――


 パーン。


 渇いた何かが弾けた。同時に、薬莢の匂いも漂う。

 まさか、まさか、これって――


 だが、そんな最悪な未来は訪れなかった。


 はらりと、細い紙のようなものが一枚、また一枚、わたしの顔に落ちた。

 赤や黄色、青。

 カラフルな細い紙が頬の涙に触れて、べたりと張り付いた。

 なにこれ……クラッカー……?


「だいせいこーう!」


 は?

 わたしのお尻にしがみつく夫が、てってれ~と間抜けな声を出した。

 再び、は?


「大丈夫ですか?」


 呆然とするわたしの顔を知らない男の人が覗き込む……って、いやいや、この男の人、わたし知ってるわ。

 そう、彼は。


「いやあ、同期にも協力してもらったんだよ。ごめんな、びっくりさせちゃって。こいつが先に出世しちゃったのは、俺の手柄を横取りしたのが原因で、借りを返してもらおうと思ってさ」

「横取りなんて人聞き悪いな。たまたま同じプロジェクトだっただけだろ」

「同じようなもんだろ。契約は俺が取り付けたのに、裏方でお偉方とよろしくやってたお前が先に出世するんだから」

「お前だって、来期に出世するじゃねーかよ。しかも、飛び級で部長待遇だぞ」

「まあ、それはいいや。そんなこんなでなんか盛り上がっちゃってさ。キミをどうやって驚かそうかって」

「大丈夫かよ。おまえ、少しやりすぎなんじゃないの。奥さん、めっちゃびびってるじゃない」

「そりゃあ、迫真の演技したからな。どうよ、俺の演技力は。まだまだいけるだろ。頬の痣だって特殊メイクだぜ」

「いや、奥さんの顔を見たら、お前の演技がすごいのはわかるけど――って、痛っ!」


 当然、ビンタした。思いっきり。


「い、いや、僕はこいつから――って、痛っ!」


 ふたたび、熱い刺激をお見舞いしてやった。

 こいつに。

 憎悪を込めて。


「奥さん、奥さん、タンマ、タンマ!」


 なんか……ものすんごくむかついた。

 当然、何度も振りかぶる。その都度、夫の同期は、許してください、ぼくは頼まれただけなんですって逃げまどう。


 ああ、もう最悪。絶対に許さない。こんな手の込んだ下らないドッキリして。この同期とはよく見知った仲だ。わたしたち三人は、元々同じ職場で働いていたのだ。あの時は、こいつはこんな悪趣味なことしなかったのに。いつもわたしに優しかったのに。ぐつぐつと腸が煮えたぎっていたが、そんな感情もがしっと夫から後ろから抱きしめられて。


「ごめん、驚かせちゃって」


 なぜか、どきどきしちゃって。


「那由が、あんなこと言うから、つい……」

「あんなこと?」

「ほら、先週」


 先週――。

 同期をびしばし叩いて落ち着いたのか、はたまた夫に抱きしめられたからか、なんとなく記憶を辿り夫とのやりとりを思い出した。

 そうだ。

 確かにわたしは。


「最近、つまらないわね」

 って言ったわ。

「やっと思い出した?」

 でも、それって。

「那由が見たい見たいって言ってた、ホラー映画が封切りになったから、すぐ見に行ったのに、帰り道で、刺激が足りなかったわねって言うもんだから」

「うん、言った」確かに。

「しかも、最近つまらないわねって」

「うん、それも言った」でも、それは期待外れのホラー映画に毒づいただけだし。

「切ない声で、そんなこと言われちゃったら、俺……」

 夫はぐるっとわたしを前に向かせて、力強く抱きしめた。


「那由のことが心配になっちゃうだろっ!」


 その目、その声、そのぬくもり。

 彼がわたしを心から愛する気持ちは、まさに誠実そのものだった。

 こんな手の込んだしょうもないドッキリも、不思議と可愛く、愛しく思えた。

 だって、わたしも――


「あなたが好き」

「ほんとに?」

「ええ。あなたが好きよ」

「そっか……。よかった」

「あなたは? わたしのこと好き?」

「俺は那由を好きじゃない」

「え? どうして」

 その答えに、目の前が真っ暗になる。どうして、あなたは……。


「俺は那由を好きじゃなくて、愛している」


「!?」


「好きだなってレベルじゃない。もう、愛、だから」


 や、やっぱり、わたしの夫は――


 わなわなと全身が震えていく。まるで、今まさにこの世に『愛』と呼ばれる穢れなき二文字が産声を上げた瞬間だった。リビングに薔薇が舞い、そのつぼみがひとつひとつ開く度に、愛が無限に溢れていく。


 愛。


 ああ、なんて素晴らしい響きなのかしら。

 どこまでも熱く、どこまでも冷たく、どこまでも狂って。


「あなた、愛してるわ」

「俺の方が愛している」

「ううん。わたしの方が愛しているわ」

「いーや、俺の方こそ何倍も愛している」

「そんなことない! わたしの方が何百倍も愛している」

「何百倍か……。じゃあ、俺は何那由倍なんなゆばいも愛している」

「ぷっ。那由なゆって、それ、わたしの名前じゃない」

「いや、那由他なゆたって、数字の単位なんだよ。無限に限りなく近い単位なんだよ」

「そうなの? でも、それじゃ、正確には何那由他倍なんなゆたばいでしょ」

「いや、何那由倍なんなゆばいでいいんだよ」

「どうして?」


「だって――那由なゆは地球上で、にはいないだろ?」


「!?」


 わ、わたしの夫って――


「あなた! わたしからもサプライズよ」

「サプライズ? 一体どうしたんだい」

「赤ちゃんができたの。二人の愛の結晶よ」

「ほ、ほんとかい!」

「ええ。わたしたちに相応しい完璧な赤ちゃんよ」


 ああ、こんなにも幸せなことってあるかしら。

 完璧な夫に、完璧な赤ちゃん、完璧な――


「こいつら死なねーかな」


 悪いけど、同期くんは早く帰ってくれないかしら。さっきからチラチラとこっちを羨んで。わたしたちの邪魔よ。


「このクズ夫め。本当はお前が何人もの女子社員と不倫していることは知っているんだぞ……」


 ああ、なんて理想的な未来なのかしら。お腹をさする彼の手が温かい。


「でも、本当にクズなのは那由さんだよ。入社した当時は、こっちに気があるように誘ってきたくせに、いざこいつが栄転になった途端に、理由も言わずにのりかえやがって」


 さっきから同期くんがぶつくさ呟いているけど、どうせいつものやっかみでしょ。やっぱり、わたしたちって誰もが羨む関係だなって、改めて思ってしまう。


「挙句の果てには、僕の子どもまで奪いやがって。お腹に芽生えたを、冷たく葬ったことを忘れたわけじゃないぞ」


 でもよかったわ。あなたと結婚する前に興信所を雇って。同期くんは両親もよくわからない天涯孤独ですって。少しばかり勉強できるみたいだけど、それじゃダメよ。わたしの子に変な血を混ぜたくない。


「メールで隠しもせず、色々考えたけど堕ろしたわって。僕の子を、命を、いとも簡単に……」


 ああ、あなた以外の子はいらない。わたしは優れた完璧な命に囲まれたい。

 やっと辿二人の愛の結晶よ。


「ああ、でもちょうど良かった。本当は二人で良かったんだけど、三人になって。今度は僕が選別する番だ」


 そんな同期のやっかみは、わたしの耳には届かない。


「ちょうど10人目だ」


 何か重たいものが、ひゅっと目の前で振り落とされた。

 理想の薔薇は真っ赤に染まる。



 了


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優しい世界 小林勤務 @kobayashikinmu

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