後朝(きぬぎぬ)
部屋の明るさに目を覚ますと、隣に瑞穂はいない。
旭はもそりと身を起こし、まだぼやけた頭で周囲を見回した。
瑞穂の居間と襖で仕切られた
障子を照らす陽射しの強さで、先ほど目覚めた明け方から結構な時間が経過したことがわかる。
枕辺を見ると、旭の日常着の羽織袴等が一式揃えてある。瑞穂が用意してくれたのだろうか。麻で仕立てられた、涼やかな柳色の羽織と藍色の袴だ。
手早くそれらを身につけ、紺の組紐で髪を大雑把に纏めた。
障子へ歩み寄り、全開に開け放った。
城を囲む木々のざわめきと、夏の熱を含んだ風が室内へ流れ込む。
「……気持ちいいな」
明るい気配に満ちた空気を、旭は思い切り胸に吸い込んだ。
つい数日前まで、目覚めぬ瑞穂をここで看病していた地獄のような時間。その闇を潜り抜けた喜びを、再び噛み締める。
同時に、ぐううと腹がわかりやすい音を立てた。
昨日あれだけ豪勢な食事を一日中堪能していたにも関わらず、身体が新たな養分を要求する。ああそっか、昨夜の激しい体力消耗のせいだ——
「あーー、もう回想ストップ!!!」
再び熱を持ちはじめる頬に、旭はぴしゃりと両手の掌を打ち付けた。
襖を開けると、瑞穂は文机の前に座り、白い和紙の上に筆で流れるような文字を
さらさらと透け感のある濃紺の羽織に、
「目覚めたか、旭」
「あ、えっと、なんだかめちゃくちゃ寝坊しちゃったような……」
「はは、構わぬではないか」
筆を置き、手紙を丁寧に折り畳みながら、瑞穂は柔らかな笑みを旭に向けた。
「明るく眩しい夏だ。存分に羽を伸ばすと良い。
鴉も、夏の間はそなたの講義や武術の稽古は休みにする意向のようだからな」
「え、そうなの?」
「そなたも、人の世ではそうであったろう?
夏休みの間のそなたは、毎年良い色に日焼けをして、
どこか懐かしげな表情で、瑞穂はクスッと小さく笑う。
「え……そんな恥ずいとこも見てたのか?」
「無論だ。生まれたての赤子のころからそなたを見ていたのだからな。
それに、私の公務が最も
「計らい……」
その言葉を、旭は何となく
「では、そなたも目覚めたことだし、朝餉の膳を運ばせるとしよう」
そう言いながら、瑞穂は文机からすいと立ち上がった。
「あ、じゃ俺は自分の分運んでくるから」
「それは無用だ。そなたの膳もここへ運ぶようにと、既に鴉に伝えてある。どうしても厨房へ取りに行きたいならば、明日からにせよ」
優しくそう話す瑞穂の微笑みが、何か昨日までよりも更に甘く滴るような艶やかさを放っている気がしてならない。
「え、あ……そ、そうなの? じ、じゃそうしよっかな」
……ああ、そうか。こういう空気を、「激甘」っていうのか。
旭はそんなことを初めて実感させられつつ、ドギマギと俯いた。
*
「朝餉の膳をお持ち致しました」
襖の外に、鴉のよく通る声が響いた。
「うむ。ご苦労、鴉」
瑞穂の答えに、行き届いた美しい所作で襖が開けられる。凛と引き締まった鴉の佇まいはいつ見ても清々しい。
「鴉、おはよう。俺の分もこちらに運んでくれて、ありがとう」
「滅相もございませぬ」
鴉は伏せていた額を上げると、ぱあっと音のしそうな笑みで目の前の二人を見つめた。
「鴉にとって、これほど喜ばしい仕事はございませぬ。
むしろ、
「…………はい?」
鴉の問いかけの意味がわからず、旭は思わず聞き返す。ヒヨクノトリ??
「鴉、そちは些か気が早い」
瑞穂が何やら困惑気味に眉間を寄せ、鴉ははっとしたように口元を押さえた。
「これは大変申し訳ございませぬ、旦那様」
「良い。朝餉の献立について申せ」
「かしこまりました。では、本日の朝餉の献立を申し上げます」
話の流れがよく飲み込めず、旭は小さく首を傾げつつ瑞穂と鴉を見たが、二人とも既に献立の話へと進んでしまっている。仕方なく、旭はメニューの説明に耳を傾けた。
「本日は、新鮮な山芋をふんだんに用いた献立にいたしました。山芋は疲労回復と体力増強に効果があり、今の瑞穂様と旭様に是非お召し上がりいただきたく、今朝急遽厨房担当の者に入手させたものにございます」
そう説明しながら、鴉は今にもふふふ、と奇妙な笑いが出そうな顔になっている。
鴉の様子が変だ。明らかに。
考える旭の脳内で、バラバラのものがやっと一つにつながった。
疲労回復・体力増強の話をしながらの含み笑い。そして、今後は瑞穂の居間に二人分の膳を運ばせてくれという先ほどの申し出。
——もしかして、鴉は、もう知ってるのか?
ガバッと顔を上げ、改めて鴉に強い視線を向ける。
それに気づいたのか、鴉が膝の前についた右手の親指を一瞬上向きに立て、ニカっと旭へ微笑んだ。
「頂きます」
鴉の退室した居間で、瑞穂と向かい合わせに膳の箸をとった。
「瑞穂……鴉とか城の従者たちは、みんなもう知ってるの?」
白飯を盛った器に顔を突っ込むかというほど深く俯き、旭は瑞穂に問いかけた。何かいろいろと気恥ずかしくて顔を正面に向けていられない。
瑞穂は澄まし汁の碗を静かに啜り、微妙に苦笑いをする。
「いや、知っておるのはまだ鴉のみだ。私達の最も身近に仕える側近にすら秘するわけには参らぬのでな。
というか、一瞬にして感づかれた」
「……」
「今朝、いつものように朝の挨拶に参った際、あの者は襖を開けた瞬間はっとしたように顔を上げてな。私をまじまじと見つめて、再びがばりと額を伏せた。『つつがなき
あのように瞬く間に、なぜそのことに気づいたのか。不思議でならぬ」
瑞穂はなんとなく照れ隠しのように眉間を寄せ、もごもごとそう呟く。
つつがなき後朝。
後朝って、確か……そういう夜の翌朝のことだったよな?
その言葉の奥ゆかしい破壊力に、旭は後方へひっくり返りそうになる。しかもここにきてそういう子供みたいな顔で照れないでくれ瑞穂!! 心臓が変になる!!!
二人の間にもわもわと充満していく甘くむず痒い空気を少し切り替え、瑞穂は穏やかに微笑んだ。
「まだ他の者には口外せぬよう固く口止めしてある故、安心せよ。
鴉は、これまでの私の姿をずっと間近で見て、常に私を支えて参った。それゆえ、そなたがこうして私の傍に寄り添うてくれることは、あの者にとっても我がことのように喜ばしいことなのであろう。
今後も、何か気がかりなことなどあれば、どんな事も鴉に相談すると良い。むしろ私よりも気の利いた答えを見つけ出せる男だ」
「……うん。
でも、俺は、瑞穂に相談したい。瑞穂と話したい。どんなことも、可能な限り。
あ、仕事忙しくてそれどころじゃないんだったら、仕方ないけど」
「……」
旭がごく自然に口にしたそんな言葉に、瑞穂は一瞬驚いたように目を見開いたが——やがて、どこか苦しげなほど嬉しそうに柔らかく微笑んだ。
「例え何があろうと、私にはそなたが何よりも先だ」
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