BORDER

@nagisa_takamura

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 カミサマを降臨おろすにはイケニエが必要だ



     *



 程よくエアコンの効いた部屋。さっき食った昼メシで腹はちょうどいい加減に満足して、微かに聞こえるモーツァルトは極上の耳ざわり。笑っちまうぐらい優雅な午睡の時間だ。

「先生」

「…るせーな。サイコーに気持ちよく昼寝してんだ。邪魔すんじゃねえ」

「寝起き悪ぃからチャイム五分前に起こせっつったの蒲生先生なんすけど」

 そんなこと言ったっけか?

 片目だけ開けてちらりと隣を見やる。これがベッドの上で、横に寝ているのが女だったらもっと目覚めがいいんだがな。残念ながらしょぼいパイプ椅子に座ったまんまのうたた寝で何だか体が痛いし、おまけに視界に入ったのは男、それもクソガキだ。

「つか、一時間熟睡ってどうなんすか? 一応今授業中なんすけどセンセイ」

 ピアノを弾く手を止めずにクソガキ、ゆいがぼそっと嫌味を言いやがった。

「じゃあ生徒、今日の課題を言ってみろ」

「モーツァルト適当にメドレーで一時間エンドレス。可能な限りピアニシモ、先生起こしたら失格」

「で、お前は課題クリア、俺は我が身をもって可愛い生徒の課題をチェックした。完璧じゃねーか」

「……はあ、ま、いいすけどどうでも」

 しばしの絶句の後、結は面白くもなさそうに息を吐いた。いつもぼーっとして何を考えてるか不明、いまいち感情の読めない奴だが、今のリアクションのやくは「あきれてものも言えない」だ、たぶん。

 律儀に個人レッスンの一時間弾き続けるつもりらしい。鍵盤に向かったまま結が聞いてきた。

「で、次の時間の課題、なんなんすか?」

「そうだな……ショパン適当にメドレーで一時間エンドレス。可能な限りピアニシモ、先生起こしたら失格、とかどうだ?」

 さすがに一瞬音が冷ややかになった。氷点下のモーツァルトってのもなかなかお目にかかれるもんじゃない。反応のよさについ頬が緩む。

「……それ、卒業まで三年間やるつもりすか?」

「おい、音が暗いぞ結。七番だぞ?晴れやかに軽やかにっつーのがウリの曲だろ。表現力に問題ありだな。評価マイナス一点」

「誰のせいすか誰の」

 のどの奥で笑って、俺はひとつ伸びをした。

 マイナスになった評点を稼ごうって訳でもないだろうが、いつの間にか旋律は真冬を通り過ぎて春の日差しを取り戻していた。俺はまた目を閉じて結の指先が紡ぎ出す四月の陽光に身を委ねる。最高のモーツァルトをタダで聴き放題、しがない雇われピアノ講師の仕事もたまにはこれくらい美味しいことがなきゃやってらんねえよな。

 非情なチャイムがお楽しみの時間の終わりを告げた。まだ第一楽章も半ばだってのに、ったく少しは気を利かせろよ。

 舌打ちした俺の方に結がのそりと上半身だけ向ける。十五歳の青少年のくせにこいつの動作はどうも活気がない。ぼりぼりと頭をいて面倒くさそうに口を開いた。

「そういえば期末試験の課題曲、俺聞いてないんすけど」

「だろうな、言ってねーし」

「……リスト適当にメドレーで一時間エンドレス。可能な限りピアニシモ、とかナシっすよ」

「心配すんな、やんねーよ。やるならラフマニノフ適当にメドレー、だ」

 結はげっそりして俺に露骨にイヤそうな一瞥いちべつをくれると、それでも首だけで軽く礼をしてレッスン室を出て行った。


 期末試験、ね。

 学生時代死ぬほど嫌だったこの四文字は、講師になったらなったでこれまた恐ろしく面倒だ。俺は科目の担任やってないから筆記試験の問題作りや採点はしなくて済んでるが、実技試験の課題設定と評価は避けては通れない。

 ひとりひとりの個性を重視、が我が汐見しおみの丘藝大附属高のキャッチコピーだ。入学パンフレットの表紙にもでっかくその文字が踊っている。当然試験の課題曲もその生徒のレベルと目標到達度を考慮して……うわ、俺なんか今先生みたいなこと言ってるよ。似合わなすぎてまた笑っちまった。エセ講師でも何年も化けてりゃそれらしく見えるもんだ。まあ、ともかくあのガキにも、課題とやらをくれてやらないとな。


 なんてことを考えてるとノックの音がして、次のコマの女生徒がレッスン室に入ってきた。

 まだチャイム五分前だっつーの、さすがはムダに熱心だ。こいつはウチの音楽科ピアノ専攻きっての有望株で、確か去年のJSCは優勝。来年には海外留学、数年後にはどこかの有名コンクール入選即ピアニストデビュー予定のお方である。そんな奴の担任をなんでペーペーの若造でおまけに不良講師と名高い俺が任されてるかってえと、単に二年間こいつを担当してきた某有名老講師がこの春めでたく御定年をお迎えになったためだ。

 彼女はこの人事にいたくご不満で、今日もむくれた表情を隠そうともしないでピアノの前の席に着いた。うん、今日もカオはともかくいいチチしてるぜ。…なんて高校生せいと相手にチェック入れてっから尊敬されなくて当然か。

 推定Eカップバストから楽譜を広げる彼女の手に視線を移した俺は、ふいに興味が湧いて思いつきを口にしてみた。

「……おい、モーツァルトのピアノソナタ七番弾いてみろ」

「は? こないだからショパンの作品一八やってるところなんですけど?」

 当然のことながら彼女に思いっきりうさんくさそうな視線を向けられた。三流講師がまた何を言い出すか、って顔だ。

「いいんだよ今日はモーツァルトの気分なんだから」

「……楽譜がないんですけど」

 台詞の後ろに「(怒)」というマークが見えるようだ。

「いいって、覚えてる範囲でテキトーに弾けば。ああ、今日の課題。一曲通して可能な限りピアニシモ、な」

 抵抗してもムダだと諦めたらしい。先生に言われたことはきっちりこなすマジメくんの悲しい性で、彼女は鼻息をつくと(溜息、なんて可愛いシロモノではなかった)、それでも慎重に鍵盤に指を落とし、曲をなぞり始めた。

 「昨年度学生日本一の華麗なテクニック」をこれでもか、と三流講師に見せつけるかのような攻撃的なモーツァルト。そんな思惑が見えるあたりで俺的には萎えること甚だしいのだが、それより何より。

 ぐふっ、と笑いを噛み殺し損ねた異様な音が俺の口から漏れる。

 一度止められなかった笑いの発作は止まるところを知らない。やべぇ、完璧、ツボ入った。

 窒息寸前で、ひいひい言いながら腹を抱えて笑い続ける俺を、さすがにキレたらしい彼女が金切り声で責めた。

「何がおかしいんですかっ! 指示通り弾いてるじゃないですか!」

 笑いすぎて涙で視界がにじんで、彼女のむくれた顔がさらに歪む。

「いや悪ぃ。確かに誰が聴いてもカンペキ。そうだよなあ、これがピアニシモなんだよな」

 悪かったよ。さっきまでここで同じピアノで同じ曲聴いてたもんだから耳がおかしくなってるんだ。頼むから怒るなって。

「これならうたた寝せずに済みそうだ。最後まで聴いてやるよ」


 化け物と比べたら可哀想だよな? 未来の大ピアニスト様。



     *



 腕自慢の嬢ちゃん坊ちゃん方のこの数日の練習の成果を午後めいっぱい拝聴して、疲れ切った俺は教員室へ続く廊下をだらだらと歩いていた。たとえてみれば音痴のカラオケを大音量二時間エンドレスで聴かされたと思ってもらっていい。個別指導の時間のたびにいつ辞表を叩きつけてやろうかとマジで考えるが、この不況のさなか俺みたいな手に職もコネもない輩にメシの種があるだけ有難く思わねば、と涙を呑んでレッスン室棟と教員室を往復している。

「……結の奴、補習とかいって呼び出してやろうか?」

 あの音でも聴いて中和しないと、耳が腐って落ちそうだ。

 我ながらナイスな思いつき、と顔をにやつかせながらラインにメッセージを打ち始めた俺の背中に、鋭いナイフのような声が突き刺さった。

「廊下の真ん中で馬鹿面して突っ立ってるんじゃない。通行の邪魔だ」

 ぞくぞくするような低音、容赦なく切り捨てる台詞はそいつ以外ない。

「梓ちゃん、こんな所で何してんだよ」

 振り返ると果たしてそいつが腕を組んで仁王立ちしていた。ひっつめ髪に黒縁眼鏡、えんじに白ライン二本の学校ジャージと小学校の先生を絵に描いたようないでたちだが、この女、吉井梓はうちの高校の学生寮で住み込みの寮母をしている。化粧気のない顔はダサい眼鏡を外すと意外とイケるという一昔前の漫画のヒロインみたいな奴で、学生時代はその恐怖の毒舌をものともせず、多くの男たちが挑み散っていった伝説の持ち主だ。

「俺待ってたんだろ? 夜まで待ちきれなかった?」

 肩を抱こうとした手を払いのけたその流れで、脇腹に本気の肘鉄が飛んできた。相変わらず見事な反応だ。同時にアラスカのブリザード並みの冷たい視線が俺の目を射抜く。

「白昼堂々、神聖な学舎まなびやのど真ん中で何をする。この二十四時間発情期男が」

「冷たいこと言うなって。仮にも三年間ひとつ屋根の下夜を共にした仲だろ」

「単語は間違ってはいないが、誤解を招くような作文はやめろ」

「同じベッドで朝を迎えた、の方がよかったか?」

「…酔っぱらって私の部屋に乱入するたびにどういう目にあったかは殴られたショックで忘れているようだな」

「思い出は美化されて残るもんさ」

 俺と梓はここ汐見の丘藝大附高の同級生で、梓が寮母をしている皐月寮で三年間一緒に生活した。ちなみに結の奴は、今その皐月寮で暮らしている。

 セーラー服姿の梓は今思い出しても結構可愛かった。朝から晩まで顔を突き合わせていて、他の男共より浴びせられた罵声と手拳は確実に多いはずなのにほとんど覚えていないところをみると、今の俺の台詞は法則として正しいらしい。

「で、校舎に何の用だよ?」

「教務室に書類を届けに来ただけだ。こんなところでくだらない与太話をしなければ三分もかからない用件だ」

 相変わらずな物言いに思わず苦笑いした。それでも自分から立ち去ろうとはせず、なんだかんだ言ってはくだらない与太話に付き合ってくれるのも昔のままだ。

「じゃ、さっさと用事を済ませて来いよ。一緒に懐かしの我が寮へ帰ろうぜ」

「私は別に懐かしくはない。何しに来るつもりだ」

「何って、梓ちゃんとセック…」

 マジの蹴りを紙一重に避けられたのは、昔取った杵柄という奴か。こいつをからかうのも結構命懸けだ。

「冗談だよ、家庭訪問だって。結のクソガキ、いや可愛い教え子君に会いに行こうかなあ、とね」

「結から聞いている。指導も何もしないで、あれのピアノをBGMに昼寝三昧だそうじゃないか。給料返上しろこの穀潰しめ」

「指導? いろいろしてやってるぜ? 弥生女子寮の風呂のぞきポイントとか校舎の階段下のスカートのぞきポイントとか、先輩ならではのテクニックを余すところなく後輩に伝授……」

 今度は視線で射殺されそうになった。恐ろしいことに蹴りより拳よりこっちの方が効く。俺はバンザイして降伏すると、梓に向かってにっと笑って見せた。

「でもよお梓ちゃん、結の奴、おそれおおくも『教授』の唯一の門下生だぜ?」

 『教授』ことミハエル・クレメンス、ちょっとでもクラシックをかじった奴なら誰でも知ってる超大物ピアニストである。

 あだ名に反して弟子を取らないことで有名なオッサンで、現に目の前にいるこの吉井梓嬢も突撃プロポーズを繰り返して敗れ去った一人なのだが、なんでも結のじーさんが古い知り合いだったらしく、結は鍵盤のドレミの場所から『教授』に教わったという世界中の弟子入り志願のピアニスト達が聞いたら憤死しそうな贅沢な体験の持ち主だ。

 この『教授』、弟子の結をことあるごとに下手くそ呼ばわりし、結の奴も馬鹿素直に自分は下手だと納得してるらしい。そうそう、うちの入試の面接で志望動機を「あんまりピアノが下手くそなので、マジメにベンキョーしようと思って」とかほざいてやがったなあいつは。

 全くもってフザけた師弟だぜ? 上手下手の基準が世界最高の弾き手と同等かそうでないかだとよ。まあおかげでちゃっかり担当講師になった俺は、レッスンと称して結のピアノを好きなときに好きなだけ聴ける幸運に恵まれてるんだが。

「あのピアニシモ、『教授』直伝だそうだ。もちろん教えてもらったからって誰でも弾けるようなシロモンじゃねー。弾けるのは神様に許されたほんの一握りの奴だけだ。そんな優秀なお弟子様に俺ごとき三流講師が何教えろって?」


 俺は失敗した。

 へりくだった台詞を、いつもの軽口と受け取って流してもらえるつもりでいた。俺としたことが完全な人選ミスだ。よりによってこの女には言っちゃいけない台詞だったのに。

「……夏惟かい、お前ならば教えられることもあるだろう」

 いきなり喰らった梓の眼差しは信じられない程熱くて真剣で、こたえた。

 梓は目を逸らさない。俺を逃がしちゃくれない。

 ナイフで百万回刺された方がまだマシだ。勘弁してくれ。

「……買いかぶんなよ梓ちゃん、いくら俺に惚れてるからって」

 ほらもうこんなみっともない答えしか出来なくなってるぜ、もういいだろうゲームオーバーだ。なのにまだトドメを刺すのかよお前は。

「買いかぶってなどいない。ただ私はお前の音を知っているだけだ」



 俺は鼻先で笑った。断末魔の笑いだった。



     *



 二日酔いの頭に割れた鐘の音が鳴り響く。

「……ゆーいー、もうちっとヴォリューム落とせよー…」

「ピアニシモ強化月間は先月で終了とか言ってたっすよね先生?」

「マジで可愛げのねえ奴だなお前は。頭痛に苦しむ恩師を労ろうというココロはねえのかよ?」

「……授業抜けていんなら購買でポカリ買ってきますよ? 俺は別に酒臭くても気にしねーけど、次の時間コマのセンパイって確か怖いヒトじゃなかったっすか?」

「……いい女房になれるぜ結。愛してるぞ」

「……先生のヨメだけは遠慮しときます」

 狭い密室で男二人、C級のジョークに乾いた笑いが漏れた。


 あの日、梓と別れた金曜の夕方から飲み始めて、気づいたら今日月曜の夜が明けるところだった。午後からのレッスンに出てこられたのは奇跡と言っていい。ポカリくらいで薄まる酒臭さじゃねえはずだ。

 リストのラ・カンパネラを弾き終わった結は、ふうと息をつくと両肩をごきごきと鳴らした。いつものぼーっとした顔にかけらほどの不満の色が見える。

「どうしたよ結?この曲、お前の十八番おはこだろ?」

「はあ、まあそうなんかも。でもやっぱピアノだと難しいっすね。全然思った通りに弾けてないし」

「だな、やっぱお前ピアノはど下手くそ、だ」

「ミハエルもだけど先生も容赦ないすよね。俺だって判ってんだからそんな言わなくても」

 結は頭をぼりぼり掻いてねてみせた。

 もちろん俺も本人のジレンマをよーく理解した上でからかっている。結の『思った通りの音』がどんなものか、このガキの手で聴かされたからな。

 パガニーニのヴァイオリン協奏曲の主題をリストがピアノ用に編曲したラ・カンパネラ。

 学長からこいつの正体はヴァイオリニストだと聞かされていた俺は、初めてのレッスンの日、興味本位で結にこの曲をヴァイオリンで弾くようリクエストして、聴くなり不覚にも、その、目頭が熱くなる以上の羽目に陥ってしまった。

 人前でそんな屈辱的な目に遭わされたのは保育園の時ガキ大将に突き飛ばされて便器に片足を突っ込んで以来のことで、根に持った俺はいまだに一日一回は結で遊んで恨みを晴らすことにしている。

 実際、結は遊びがいのある可愛い奴だ。妙に世間一般常識に疎くて突っ込み所は満載だし、同級生の美少女ヴァイオリニスト篠崎天音あまね嬢に絶賛片思い中で、そのネタだけで一時間からかい倒してもおつりがくる。どこにでもいる、普通の十五歳のガキで。


 そして、あちら側の存在イキモノだ。


 ミハエル・クレメンスと同じ、この世界の住人と見せかけて、実はニンゲンには触ることすら出来ない別のどこかにる奴ら。


(でも俺だって、あちら側への行き方くらい知ってるんだぜ?)


 やべぇ、危険ヤバすぎ。

 かなり酒回ってんな。そりゃ三日飲みまくりゃマトモな思考回路は死んでるよな。

 だいたいあの馬鹿女が余計なこと言うから。ええと、あいつ何て言ったっけ、ああそうだ。


 あちら側にるときの、俺の音を知ってる。そう言ったんだ。


 警告音が鳴りっぱなしの中、妙に冷めた声で話す俺がいた。

「結、今週末の試験の課題曲、ブラームスのヴァイオリンソナタ三番、通しな」

 結の抑揚のない話し方が、さらに現実感を失わせる。

「はあ。……で、ヴァイオリンパート誰か弾くんすか。別に無しでも弾けないことはないすけど…」

「お前だよ。ヴァイオリン藤森結。で、俺がピアノ」

 結にしてはめずらしく、はっきりと意外そうに目を見開いた。

「……ピアノの授業、の試験、すよね?」

 たぶんそれが最終警告。引き返すなら今だ。

 ジョークにして終わらせろ。

「たまには他人の弾くピアノを聴くって課題もアリだろ?」

 何で誰も止めてくれねえんだ? 酔っぱらってハマった悪い夢なんだろ、覚めてくれよ、なあ。

「お前の師匠ほどかどうかは知らねえが、俺と弾くのも結構楽しめると思うぜ」



 遠くでかちりと、最初のスイッチが入る音がした。



     *



 試験前日、梓が教員室まで乗り込んで来たのは予想通りといえばその通りで、人の顔を見るなり頬に正拳が飛んできたのも恐ろしいことに想定の範囲内だった。

「……どういうことだ?」

 十年以上こいつと付き合ってきた中で、堂々ベスト三に入る怒り方だ。俺は苦笑して事実だけ淡々と答えた。

「どうもこうも、けしかけたのは梓ちゃんだろ?」

「私はお前ならば結にいろいろとアドバイスしてやれることもあるだろうと言いたかっただけだ」

「あいにく俺はシャイで口下手なんでね、行動で示した方が手っ取り早かった、それだけだよ」

「だがお前は……」

 あの梓が頬に血の色を差して声もうわずっている。そんな様子を目の当たりにしても俺はひどく冷静だった。

 もう最後のスイッチが入りかけてる。境界線の向こうへ爪先を踏み入れているのが判る。あんなに必死に抵抗したはずなのに、一度連鎖が始まってしまえばその儀式のひとつひとつが快楽にさえ感じる。

「出ようぜ。他の先生方に痴話ゲンカは聞かせたくないだろ?」



 校舎裏の日の当たらない殺風景な空間へ俺たちは足を向けた。

 すすけた煉瓦れんがの壁に梓は俺を追いつめたつもりだったんだろう。

「……結にヴァイオリンを弾かせるってことは、夏惟お前本気で弾く気だろう?」

「可愛い生徒の大切な試験だぜ? 先生たるものマジメに応えなくてどうするよ」

 梓の糾弾の眼差しが突き刺さっても、もう痛みを感じない。きっと体の組織が別の何かに作り替えられている最中なんだ。

「自殺する気か?」

 直球が飛んできた。俺は首だけ傾げてこれをかわす。

「できれば心中希望なんだけどなあ。ま、あのクソガキに冷や汗のひとつもかかせたら上出来、誉めてやってくれ」

 まるきり他人事のように言ってやった。実際もう何もかもどうでもいい。すぐそこまで近づいて来ている『俺の音』以外は。


 だから梓、今お前が泣いてても俺には見えてないんだよ。



 俺が一度死んでから五年が経とうとしている。

 ちょうど五年だ。今年も秋になったら、あの荘厳なホールにまた境界線上をうろつく奴らが還ってくる。

 あの年は我が汐見の丘藝大から二人も予備選を通過したといって学校中がお祭り騒ぎだったそうだ。もしかすると日本人初の優勝者が出るかもしれないなんて気の早いコメントまで付いていた。

 一次選に先に挑んだのは梓だった。清廉でまっすぐなまじりけのないショパン。聴衆のほとんどは気付かなかっただろうが、その時もう梓の左手に棲み付いていた爆弾が落とす僅かな影を審査員は見逃してはくれなかった。

 もちろんそのことは本人が一番よく判っていた。演奏が終わってステージから降りてきたこいつはいつものように冷静な瞳をきっちり俺に合わせて、お前は頑張るなって言ったんだ。

 梓はスイッチの入った俺がどんな壊れ方をするか、家族より近いところで嫌というほど見てきた。だから本心から俺のことを思ってそうしたんだろう。

 でも俺はついうっかり見ちまった。理性でいだ梓の瞳の奥に完璧に隠したはずのどうしようもない絶望を。そのくらさが、境界線の向こうから俺を呼んだ。

 二日後に迎えた一次選の四十三分間、俺は確かにあちら側にた。代償と引き替えに。

 コンクール史上最高のスタンディング・オベーションだった、らしい。もうほとんど聞こえてなかったんだと思う。舞台袖に引っ込むと同時にぶっ倒れて、そのまま救急車で病院に担ぎ込まれた。

 車が病院に着いたとき、俺の心臓は止まってたんだそうだ。意地汚い性格が幸いしたかなんとか息を吹き返したが、意識が戻るのに二週間、まともに生活できるようになるまで半年かかった。

 内臓は残らずボロボロで、医者はいったい何をやったらここまで衰弱するのかと首を傾げたらしい。数十分ピアノを弾いただけですなんて事実は当然誰にも無視された。

 最初っから『俺の音』は、そこまで全部を削ってはじめてるもんだと、今まで鳴らしてた『音みたいななにか』はすべて嘘で、曲にのめり込むたび起こしていた自家中毒もただの軽い風邪くらいのものでしかなかったんだとその時ようやく判った。

 それと同時に、もう『俺の音』はあちら側に置いてくるしかないことも判った。不良息子の危篤の報に地球の裏側まで駆けつけてくれた親父やお袋を、また泣かせるわけにはいかなかった。それに。

 意識が戻ったとき、延々と俺を罵倒し続けたこいつの涙でくしゃくしゃな顔が、あちら側への行き方を忘れさせたはずだった。


 はず……だったんだけどな、まあ思いだしちまったもんは仕方ない。


「同寮のよしみだ、骨くらい拾ってくれよ?」

 梓の方を見向きもしないで、俺は片手を上げた。最後のスイッチが入った合図だった。



     *



 いつものレッスン室に先に来ていた結は、俺の姿を見るなり大きくあくびをした。こっちは討ち死に覚悟で来てるっていうのに、全くもって腹の立つガキだぜこいつは。

「ちゃんと練習してきたか?」

 一応先生らしく訊いてみる。結は指の背で眠そうに目を擦った。

「ミハエルと何度か合わせた曲だから、さらう程度にはなんとか」

「ならいい」

 世界の『教授』との間接対決もそれほど美味しいネタだと思えなくなっていた。

 だってここにもう持ってるんだぜ?五年も閉じこめっぱなしだったサイコーに気持ちいい『俺の音』を。

あとは弾いてやるだけだ。

 笑いが止まんねえや。

「じゃ行きますか」

 俺が目だけで笑いかけると、結は応えて入学して初めての悪戯っぽい笑顔をみせた。なんだこいつ笑えるんじゃねえか。いっつもぼけーっとして面白くなさそうなカオしてやがるくせに。

 そっか、そうだよなあ。これ以上楽しいことなんて他にないもんな。


 瞬間、結の弓と俺の指が同時に動いた。


 はじまりの主題。いきなりの主導権争いにお互いがびっくりして顔を見合わせてまた笑った。引いたと見せかけて俺がまた仕掛けると、結がきっちり反撃してくる。肌が粟立つような、艶めいたヴァイオリンの歌声。

 抑えて繰り返す主題を、息を殺してやり過ごした。直後にくる嵐に備えて力を溜める。指先に全部の意識を持っていく。久しぶりに味わう、空気の震える幅までぜんぶ支配できるこの感覚はやっぱ最高だ。

 ふいにやってくる爆発。ついうっかり叩き付けられた。嬉しすぎて油断のならねえ相手だってこと忘れてたよ。やった本人は涼しい顔してすっかり自分のモノにした主題を俺に見せつけてきやがった。わかったよ第一楽章はお前のもんだ。


 次のアダージョに入っても休まず、ささやくように歌い続けるヴァイオリンに、俺はそっと音を寄せてやった。どうだ気持ちいいだろ結。これで貸し借りなしな。もう容赦しねえぞ。


 すべてが終わりに向かって走っていく。不気味な緊張と脱力。短い休息の後、その時は訪れた。


 結が俺の音を削っていく。俺もまた結の音を削る。限界までそぎ落として鋭く尖った切っ先でまた余計なものを切り捨てて、掘り出された音は見たこともないくらい綺麗だった。

 打ち合わせもしてないのに完璧に合わせたユニゾン。決まったときはまた鳥肌が立った。見ると結も我慢できないってカオをしていた。これだから一度知ったらやめられない。もう麻薬だ。

 もっと行けると、互いに追い立てられて突き進む。限界なんてくだらないものはとっくに通り越していた。ただまぶしい方向へ、狂ったようにすべてを解放して。


 もう何度目かも数えていない爆発を合図に世界は収束をはじめ、そして。


名残を惜しむように一度その時を止めて、最後のひかりを放ってうたげは終わった。



「センセイ?試験終わりなら俺帰っていいっすか?」

 楽譜台に突っ伏して長いこと石になってた俺の耳元に、結がぬっと顔を寄せた。片目だけ視界を取り戻せるくらいわずかに顔をそちらに向ける。それすらも物憂い。

「……男に耳元でささやかれても嬉しかねえや。せめて美少女篠崎を連れてこい」

「……あいつ声甲高いから耳元で聴くのやめた方がいいっすよ? ……つか何でそこで天音出すかなこの人は」

「決まってる。イヤがらせだ」

 なんにもなかったみたいに、平気なカオしやがって。

 喋るのも億劫だったけれど、俺は続けて結をいじめてやった。

「今の演奏の感想をレポート用紙十枚以上。うち八割以上は漢字を使うこと。提出期限は明日朝九時厳守」

「げ」

 結は潰された蛙のようにうめいた。どうだ参ったか結、お前の天敵漢字だぞ。出来るもんならやってみやがれ。

「……間に合わなかったら、俺留年とか…すか?」

「……真に受けんなよ、冗談だ。口頭で許してやるよ、感想、言ってみ?」

 結はぼりぼりと頭を掻いた。しばらくしかめっつらで考え込み、ふいに破顔する。

「すっごく楽しかった……かな?」

 至福の表情ってたぶん、今の結そのものだ。

「センセイの音、どっから飛んでくるか全然判んなくて、どこに行くかも判んなかったけど。でもこの音なら何やっても絶対外さないってそれは判ったから、俺もそこにった音在るとおりに弾いた、そんな感じで。…っと、十枚ってどれだけ喋ればいいんすかね?」

「……もういいよ、お前の最悪な日本語レポート用紙十枚分聞かされたら間違いなく俺は死ぬ」

 感想なんて聞かなくてもよかった。どうせお互いコトバで生きてる人種じゃねえんだ。

 さっきまでここに存在した音、それだけで充分だ。なあ結?

 のんびりとヴァイオリンをケースに納めながら、まるで約束された予定のように結は俺を誘った。

「先生、またこの課題やってくれないすか? 俺の友達、なんかみんな滅多に会えない奴ばっかだからなかなかこんな風に弾く機会なくて」

「年寄りはHPヒットポイント回復するのに時間かかんだよ。お前みたいな若者とそうしょっちゅう遊んでちゃ体が持たねえっつの」

「でも俺の友達の中で先生が一番若いすよ? ミハエルだって今年五十だし」

「……彼は師匠せんせいじゃなかったのかよ」

「俺がピアノ弾いてるときは師匠、ヴァイオリン弾くときは友達にしてくれって」

 成程、そりゃいい。賛成だ。安月給で生徒のために身を尽くすほど俺はデキた先生じゃねえからな。友達との悪ふざけになら命を懸けるのも一興だ。

「じゃあ俺もそれで頼むわ。今度は放課後お前んでやろうぜ? 二人で梓に蹴り飛ばされるのも悪くねえぞ」

「はあ? 何すかそれ」

 結のすっとぼけた顔が妙におかしくて、俺は腹を抱えて笑った。


 開けた扉の向こうから流れ込んでくる七月の風が熱い。心地よい肌の痛みがこちら側に帰ってきたことを俺に告げていた。



     *



 その後やっぱり足が言うことを聞かなくなっていた俺を、結の奴がレッスン室から引きずり出して病院へ運び込んだ。あの野郎細っこいくせに体重差無視してひとを小荷物みたいにひょいひょい運びやがって、やっぱ化け物だ。

 今回はかろうじて入院は免れたが、一人暮らしで面倒をみてくれる女もいなかったので、学長の計らいで動けるようになるまで皐月寮の空き部屋に転がり込んだ。

 当然、食事を作って運んでくれるのは梓なわけで、ある意味非常に体に悪い療養場所だった。

 今もベッドに腰掛けて味噌汁をすする俺の顔を、親のかたきみたいににらみ付けてくれている。おそらく美味いんだろう料理の味がさっぱり分かんねえって。

「またあれと弾く約束をしたそうじゃないか。いい加減学習しないかこの鳥頭」

 どうでもいいが結、梓に喋りすぎだ。ま、こいつに問いつめられて黙っていられる自信は俺にもねえし。

「誘ってきたのは結だぞ? 殴るならあいつにしてくれよ」

「結もあとから殴っておく。とりあえずお前が先だ」

「病人だぞ、少しは加減してくれてもいいだろうが」

「心配するな、自殺志願者を助けるような真似はしない。死なない範囲で自分の行動を後悔するまで徹底的にやってやるから覚悟しておくんだな」

 もうその台詞だけでサンドバッグ状態だ。こいつマジで俺に恨みでもあるのか?

 空になったお椀を俺の手からひったくるようにトレイに納めると、梓は立ち上がった。

 ドアを後ろ手に閉めながら、わずかに覗いた隙間から捨て台詞のように言う。

「いいか、この先弾くときは私に言え」

「殴って下さいと申告しろってか」

「どうせ弾くなら私にも聴かせろ。お前達だけで独占するなんて絶対許さんぞ」

 すぐ盛大な音とともにドアが閉められて梓の表情は判らなかった。でもたぶんそんなに怒ってはいなかったんじゃないかと勝手に思ってみる。あきれてはいるだろうがな。


 皐月寮の西日がまぶしいレッスン室。そこで今度は何を弾こうか。

 結と二人してげらげら笑いながらヴィエニャフスキでも弾いたら、梓もちょっとは笑ってくれるかも。

 なんて期待が妙にむずがゆくて、俺はひとつくしゃみをした。(了)




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