02『ケルベロスの首輪』

 精霊たちは夢を見る。

 彼らの見た夢は現実になって、ひとはそれを<異世界>と呼ぶ。

 <異世界>には<宝物>が存在する。

 ある日ひとりの魔女によってすべての<異世界>の<宝物>が奪われてしまった。

 その魔女には一人娘がいた。娘は<宝物>を返すために<異世界>へ赴く。

 母のたったひとりの娘として、果たすべき役目だと己を鼓舞しながら。

 母とは違うのだと暗示のように――あるいは、呪いのように己に言い聞かせて。


 ◇◆


 そこは鍾乳洞だった。

 大きな水の溜まり場は森のなかの泉のようだった。水は透明だけれど、底は暗くてなにも見えない。

 周囲のあちこちにくぼみがあって部屋のように分かれている。

 そしてそのなかに、彼女はいた。

 銀色の髪を裸身に纏った少女はゆっくりと目を開けた。瑠璃色の瞳には三日月と薔薇が浮かんでいる。

 少女綺光きみつは今の自分の状態を確認した。自分を抱き締めているのはひとの腕ではなく、真っ黒な触手だった。

 額から黒い角が二本生えているから、うつぶせで寝ることができないといった。だからいくつもできたくぼみのうち、長躯がすっぽりとおさまる大きさのくぼみが彼の寝台だった。ほどよく水が溜まっているので、一見すると自然にできた浴槽にも見える。

 綺光はその眠る彼のうえに、のっかっていた。


「……」


 体を交わしたわけではない。彼の体は常に毒が浸出しているから、服を着ていると容赦なく溶かされてしまうのだ。だから仕方がなく、一糸まとわぬ姿で添い寝している。なにかあることもあるし、ないこともある。今回はなにもなかったから、綺光の体はどこも痛くないし熱くもない。

 彼は鬼――〝百毒ひゃくどく紅壽こうじゅ〟と呼ばれている。体の半分は毒液を分泌する触手で覆われていて、彼の汗も唾液も涙も血液もすべてが甚大な被害をもたらす毒だった。彼の上半身が裸なのはそのせいで、けれどさすがに全裸では生活しにくいので下履きだけは身に着けている。特殊な繊維でできている下履きは溶ける心配はないそうだ。そして、うえにのっている綺光が溶かされないでいるのは、彼の心臓を宿しているからである。

 鬼は己の心臓を相手に託す。契りの証として、自分の命を相手に預けるのだ。

 脈打つ鼓動は紅壽のものだ。湖面に慈雨が打ち付けてやさしく波紋が広がるような心地良い音がしている。


「……紅壽」


 呼んでみたが起きる様子はない。紅壽は朝に頗る弱い。大体昼頃起きて夜遅くまで活動していることが多い。


「……今日も役目を果たさなければ」


 綺光はそうひとりごちて絡まる触手と自分の銀色の髪の毛を一本ずつ丁寧に外してから、冷たい褥を離れた。


 ◇◆


 胸元のネクタイを締めると、気持ちも同時に引き締まるようだった。

 色彩は余計なものはいれない白と黒の服装。ワイシャツであるけれど、着物のように広がる袖部分、そしてスリットの大きく入ったミニスカート。

 母は焦らすくらいが丁度良いと敢えて肌面積のすくない衣装を好んで着ていた。だからその逆を綺光は纏っている。愚かしいにもほどがあると自嘲するけれど、それでも。

 面影がある以上、それを払拭したかった。


 着替えを終え、地上に向かう階段に足をかける。そのとき、背後で水の音がした。

 振り返るとそこには寝起きの頭をがりがりと掻いている紅壽がいた。


「あら、おはようございます紅壽。今日はお早いお目覚めでございますね」

「……毎回君の顔を見そびれるからな」


 紅壽の長い前髪の隙間から金と赤の双眸が覗いている。それらがじっと綺光を捉えた。彼の目には白目がなかった。本来白いはずのその部分はすべて真っ黒だった。

 基本的に綺光は紅壽が起きる前に出て行ってしまうから、顔を合わせるのは<宝物>を返した後のことである。


「べつに今生の別れというわけでもございませんのに」


 綺光が笑って言うが、紅壽の無表情は変わらなかった。

 どこか呆れているように見えて、綺光は「どうかなさいましたか」と訊ねる。

 それからバツが悪そうに顔をそらして、


「……君はさびしいとは思わないんだな」


 と言った。

 綺光が目をみはってすこしだけ沈黙してから――その言葉の意味をじわじわ理解した。

 途端綺光のものでない心臓がいつもよりも早く鼓動した。


「……あなたって意外とさびしがり屋さんでございますよね」


 綺光が言うと紅壽は肩を竦めた。


「……末っ子なんでな」

「双子に末っ子もなにもございませんでしょう」

「……」


 彼にはそっくりな双子の兄がいる。兄弟はそれだけだ。だから末っ子、という表現はいささか大袈裟だった。

 もっともな指摘を受けて紅壽は黙った。その姿になんだかむずがゆい気持ちを覚えて、綺光は紅壽に近づいた。そして引き締まった胸板に額を当てた。そこに心臓はないから心音は聞こえない。でもふしぎととくとく鼓動を打っているような心地がした。


「……だいじょうぶ。……だって私はあなたの心臓なのだから」


 紅壽は頭をひとの手で撫でてから言う。


「――行ってこい。必ず、帰って来るように」


 親の説教のような物言いに綺光はおかしくなってまた笑った。


『――朝からお熱いことで』


 <宝物庫>に入ってすぐカグヤにそんなことを言われた。

 月の精霊カグヤ。幼い綺光を親の代わりに慈しんだ存在だ。透き通った体に十二単を纏った金色の髪の女。外見は綺光の瓜二つである。

 手伝いをしてくれている友人の赤い鱗模様の猫はなんのことかわからないので首を傾げた。紐につけられた鈴がりりんと唄った。


「……カグヤ」

『あら、悪いことではございませんよ。あなたを心から愛し、そしてあなたが心から愛するひとだもの。仲睦まじいことは美しいこと――欲を言えば、早く孫の顔が見たいものです』

「孫……っ!?」

「……まご」


 綺光が言葉を失い、静かに猫が復唱した。


「ま、孫って! カグヤ、あなた……!」

『あなたは私の可愛い子、そして娘同然でございますからね。ああ、でも鬼との子どもは血を分けない限りできませんからね。そこは安心なさって?』

「……ッ! ……ッッ」

「……子ども」


 はくはくと綺光が口を開閉させ、猫が再び繰り返した。

 綺光は赤面するほどだというのに、心臓は平然としているのが忌々しい。でもきっと同じことを鬼に言ったとて、彼は心臓と同じく動じないのだろう。


「……しばらくは孫の顔は見せられませんよ、カグヤ」

『うふふ。知っていましてよ、愛しい子』


 その瞬間からかわれたのだとわかって綺光はすこしだけ頬を膨らませた。カグヤは娘を見る母のような眼差しでそれを見つめていた。


「……それで、今日は」


 猫が本題に入ったので、綺光も呼吸を整えた。

 壁を埋め尽くすほどの背の高い棚にはずらりと物が並べられている。

 母は整理整頓というものをしなかった。手に入れるだけ手に入れてそのあとはずっとそのままだった。綺光がこの<宝物庫>に閉じ込められていたとき、寂しさと苦しさを紛らわせるためにきれいにしたから、なにがあるのかわかる状態になっていた。

 どれをどのような順番というのは特に決めていないが、大きいものから率先して返していた。単純に場所を取るので邪魔なのである。


「それでは本日はこちらに致しましょうか」


 目についたのは首輪だった。

 何の変哲もないふつうの首輪だが、サイズはふつうではなかった。内側に大人がふたりほど入りそうな輪の大きさをしていた。


「……大きいな」

「ええ、これは<ケルベロスの首輪>でございます」

「……ケルベロス……」


 綺光はトランクを開けた。なかには大きないびきをかいて寝ているマッドがいた。布の腹が上下している。開けっ放しのまま綺光は首輪を両手で持つと、マッドが寝ていることにも関わらず首輪をトランクのなかへつけた。瞬間首輪は光に包まれてビー玉ほどの大きさの球体になり、マッドの口の中に吸い込まれていった。


「……これで、よしと」


 トランクを閉じて綺光は立ち上がった。そして、息を吸いこんで吐き出す。それからトランクを体の前二掲げて唱えた。


『――導け、あるべきところへ。――開け、善き隣人の深き戸を』


 虚空に四本の線が生まれる。上部は緩くカーブしていてそれ以外はすべて直線だった。

 つながったそれは丸みを帯びた可愛らしい扉になった。ドアノブが現れたので、綺光が握る。


「いざ」


 開いたその向こうは真っ白な光にあふれていて、それが晴れてすぐ飛び込んできたのは、水に濡れてつやつや光る石畳の細い路地だった。空はどんより曇っていて再び雨でも降りそうな空模様である。綺光は周囲を見渡した。

 ここがどこか確認するため綺光は歩き出す。しかし歩き出してすぐ足が止まった。


「……川……?」


 そこは大河だった。

 流れている水は灰色に濁っていてなにも見えない。生き物がいるようには思えなかった。


「ケルベロスで……川、とすると。これはステュクス河でございましょうか」

「すてゅ……?」

「冥界に流れる大河のことでございますよ」

「……」

『ケルベロスは冥界の王ハデスに仕える番犬でございます。彼に住まう館に向かうにはこの河を舟に乗っていかねばなりません』

「……ん。……ん」


 猫はとりあえず理解したという風に返事をした。

 そんな会話をしていると上流のほうから木製の簡素な舟がやってくるのが見えた。ローブを目深にかぶった人物が舟を漕いでいた。

 舟が綺光たちに気付くと、持っていた櫂を舟の先頭に突き刺して止まった。

 ローブの陰から見える顔立ちは若そうだ。


「どもー。ありゃお嬢さんたち、死者じゃないネ? まあいいや、乗ってくノ?」

「ええ、ぜひとも。これをお届けしたくて」


 綺光がトランクから首輪を取り出すと「え!」と渡し守が声を上げて驚いた。


「そいつはケルベロスの首輪じゃないカヨ! なんだってお嬢さんが持ってるノ? エ?」

「諸々事情がございまして」


 茶を濁す綺光に対し、渡し守はそれ以上言及しなかった。もう一度「まあいいや」と繰り返してから「乗るならドウゾ、お駄賃ヨロシク」と言った。綺光はポケットから古銭を取り出すとそれを渡した。


「はーい、それじゃ足元気を付けてネ~猫ちゃんあんまり水面見てると堕ちちゃうからネ~」


 呑気な注意喚起と共に、舟が動き出した。

 舟は緩やかに進んでいく。どこまでいっても川は濁っていた。


『そういえばカロンはどうしたのです、若い渡し守』


 思い出したようにカグヤが訊ねると渡し守は舟を漕ぎながら答えた。


「ん? カロン? ああ、カロンじーじ? あのひとこの前腰やっちゃったから休養中ダヨ。もう年なのに無理しちゃってサア、重量オーバーだってのにずいぶん死者乗せちゃっテ。勢い踏ん張ったらぼき、だってサ」


 櫂を動かしながら渡し守が言った。「さようでございますか」と綺光が相槌を打った。

 彼の軽口はまだ続いた。


「でもよかったヨ~首輪見つかっテ。ケルベロスの真ん中の首のやつだと思うんダケド、あいつなくしてわんわん泣いててサ~あ、これべつにダジャレじゃないヨ~アハハ~」


 退屈しないための配慮なのか、単にしゃべりたいだけなのか、渡し守の話はハデスの館につくまで続いた。最近死者が礼儀を知らず駄賃をねだると値引き交渉されるとか口元を覆っていないことを小一時間説教されて辟易したとかとんでもない美人が現れたから口説いたけど玉砕したとか――そういう世間話ばかりだった。ためになりそうな内容はなかったので綺光はほとんど適宜相槌を打って聞き流した。猫はずっと水面を見つめていた。


「あーい、到着。ホラ、あそこで泣いてるの、ケルベロス」


 渡し守が指をさす先、巨大な三つ頭の犬がいた。

 館の門を完全に陣取ったその犬は、泣いていた。

 ――ただし、渡し守の言う通り真ん中の頭だけが。


『ボクの首輪どこいったんだよおお! どこにもないよおお!』『うるっせえな! お前いい加減泣きやめよ! 何千年泣きゃあ気が済むんだよ!』『……どうにも……ならないよ……泣いた……ところで……』


 真ん中の首が泣いているのを左の頭が鬱陶しがっていて右の頭が諦めていた。

 たしかに泣いている。


『あの涙で川が出来そうでございますね』


 カグヤが言った。

 綺光たちは舟を降りて、渡し守に礼を言った。渡し守は驚いていたがすぐににんまり笑って『お客サン、次来たとき安くしてアゲルヨ』と言って去っていった。

 綺光がケルベロスに近づいた。胴体は細長く、足はそこそこに短い。尾は蛇でできているが、おもちゃの蛇のように愛らしい顔立ちをしていた。全体的に番犬というよりも愛玩といった見た目だった。

 やってくる綺光たちに左の頭が気付いてぎっと睨みつけてきた。しかしもともとの顔立ちが可愛いために、威圧感だとかそういうのはまるでなかった。


『あん? テメェどこのシマのもんだァ? あぁん?』

「――こちらを」


 怯むことなく綺光は首輪を差し出した。

 なんの飾りもない簡素な黒い革の首輪である。右の頭が「……あ」と小さく驚きをこぼした。


『……それ』『おい、テメェのだぞ!』


 声をかけられてやっと気付いたらしい。

 首輪を視界に入れた途端、真ん中の頭が泣きやんだ。


『あ、あ、そ、そそそれはボクの! ボクの首輪だよ!』

「ええ、お返しに参りました」

『わ、わ、わわわ! ありがとう!』


 頭は晴れやかな表情になって足踏みを始める。胴体は一緒なので突然動かれて左右の首がいやな顔をした。


『だ、て、テメェ、動くときゃあちゃんと言えってんだろうが!』『……目が……まわ、る……』『わ、わわごめん!』


 慌てて足踏みをやめて、真ん中の頭がずいと前に出てくる。

 くりっとした大きな瞳に威圧感などまるでなかった。差し出された首輪をくわえると、首輪には突如として棘が生えた。鉄製の棘だ。それから輪が解けて、ケルベロスの首に巻き付いた。

 ものの数秒で首輪は自動的にケルベロスの首にはまったのである。


『わあい、ありがとう! これご主人サマからもらった大切な首輪なんだ!』『っち、テメェしかつけてねえってのになくしてんじゃねェよ』『……ほんと』


 左右の頭に責められて真ん中の頭がしょんぼりと項垂れた。

 綺光は役目を果たしたから帰ろうとなにもない虚空を見つめた。しかし戸が開く様子がない。不思議に思ってケルベロスを見ると彼はなぜか上機嫌だった。尻尾をちょっとした突風でも起こしそうな勢いで振っている。


「……あら?」

『どうも、ありがとう! はいどーぞ!』


 ケルベロスが門から体をずらした。

 行動の意図が把握できない綺光と猫の頭上に疑問符が浮かびあがる。


「えっと……なにゆえ、冥界の王になど謁見せねばならないのでしょう。私たちの目的はそのあなたに首輪をお渡しすることで」


 戸惑いながら綺光が問うとケルベロスは無垢な瞳で、


『え? だって君たちそのために来たんでしょ?』


 と言った。

 カグヤが小声で囁く。


『愛しい子。あれは善き隣人の世界で、〝忠犬ケルベロス〟と呼ばれております。――ハデスの命令しか聞かないのでございますよ』


 綺光は黙る。それからまたこれか、と胸中でそれはそれは深い溜息をついた。


 ◇◆


 ハデスの命じるままにしか動かないというなら、ハデスに会ってお願いするしかない。

 綺光たちは館に入り、ハデスの待つ玉座へ向かった。館の構造は実に単純だった。入ってすぐ螺旋階段があり、それをひたすらのぼればよかった。

 ふくらはぎあたりにじんわりとした筋肉痛を感じる頃には最上階に辿り着いた。膝に手をのせてすこしだけ休むと綺光は眼前にある、やたらと華美に装飾された扉のドアノブらしき突起を掴んだ。ダイヤモンドで構成されているので大層握り心地が悪い。角が当たって掌が痛かった。

 ぐるりと回して開けて、開口一番――


「眩しいッ!」


 と言ってしまった。不可抗力であった。

 天井からぶら下がるシャンデリアはもとより、敷いてある絨毯も椅子のひじ掛けも花瓶も窓枠ですら宝石で彩られ、それらが光に照らされてきらきらというよりぎらぎらしていた。

 太陽光でも直接見ているような輝きだった。


『……あら? だあれ?』


 男らしくもありながら、女らしさも兼ね備えた独特の声がその煌きの奥からした。

 なんとか目を凝らすと絢爛豪華な椅子のうえに誰かが座っている。否、この場合ひとりしかいない。

 冥王ハデスである。

 巻き毛のボブヘアをしていて口紅は濃い紫色。顔面は首とまったく違う色をしていて、瞼のうえにもはっきりとした色をのせている。睫毛も羽のような束になっていて――かなり簡単に、そして無礼を承知で言うならばとんでもない厚化粧だった。

 ハデスは来客に気付くとはっとなって両手で頬を押さえた。


『やだ~! ちょっとぉ、ひとが来るなら言ってよぉ~! サロンの予約まだとってないのにぃ~!』


 くねくねと身をよじりながら言うハデスに綺光も猫も許容を越えていた。

 癖が強すぎる。いろいろな意味で既に敗北だった。


「……カグヤ」

『あれでも偉いほうですよ、冥王でございますから。ええ、いちおうね』


 私は認めておりませんけれど、とカグヤが無感情に付け加えた。

 精霊の世界にははっきりとした上下関係はないが、従属関係は存在する。それは従わせる――のではなく、従いたいと思うというのが重要だ。

 ハデスはなりがどうであれ、従いたいと思うだけの力を有しているということである。


「えっと、ハデス」

『ん? はぁい、なにかしら。あら……?』


 ハデスが綺光を見てそう言った。綺光はそう思ったが、なんとなく視線が横にそれている。

 目線の先を辿るとそこにいるのは猫だった。


「……カグヤ、私はどんな趣味嗜好があれど気にいたしません。気にいたしませんが、念のためお伺いいたします」

『愛しい子、あなたがおっしゃりたいことはよくわかります。しかしハデスのあれは雌雄どうのこうのではございません』


 ハデスが椅子から立ち上がった。

 身に纏うドレスにも宝石が編みこまれているようだ、動くたびにきらめきが余韻を残している。

 ゆっくりと階段を降りてきた。緊張の面持ちで綺光がかたまっていると、ハデスは綺光に視線をやってから、素早く腰を折った。


『あぁん♡ なーんてかわいいの、このふっさふさの毛!』


 そう言って満面の笑みで、猫に頬擦りをしたのである。

 刹那――猫の顔から一切の感情が失われた。


「要するに無類の動物好き?」

『ええ、まあ。でもこの悪辣な環境下で、与える餌も宝石なので長生きいたしませんけれど』


 ハデスはずっと猫をもみくちゃにしている。猫は無機物に徹して、なんの反応もしていなかった。

 ハデスは動物が好きで、宝石が大好きらしい。食べるものですら宝石にする始末なのだそうだ。それは生き物を飼ったとて同じだという。唯一ケルベロスだけが宝石を消化することができた生き物なのでああして愛玩として置いているそうだった。


「あの、ハデス……」

『あら、やだ! ごめんなさい、この猫ちゃんが可愛すぎてアンタの顔見てなかったワ。……あぁら~、なあに、ぶっさいくね』


 一息で褒めて、そして貶された。


「……えぇ?」

『この男の目玉は節穴以下なのでございます。愛しい子、いつだってあなたは私の可愛いお姫様ですよ』


 カグヤもまた、一息で貶して、そして褒めた。彼女は少々親ばかの気がある。

 綺光もべつに顔の造形をとやかく言われて怒るたちでもなかったので、罵倒を無視して続けた。


「あの、ハデス。私たちはケルベロスの首輪を返しに来ただけなのでございます。用事につきましては今しがた済みましたので、戸を開くようケルベロスに命じていただけませんでしょうか?」

『え? あ、そうなの。べつにいいわよ』


 意外にもあっさりとハデスは了承した。

 庭に出てケルベロスに胸やけのするような甘い声で『ケ~ルちゃん。はあい、良い子ね♡ 世界一可愛いわよ♡ 扉を開けてくれる? このブッサイクのために♡』と命じた。一言余計であるが、憤るものも傷つくものも誰もいない。

 扉が開き、一件落着――とはいかなかった。

 扉をくぐる段階になってもハデスは抱いた猫をこちらに寄越さなかった。彼は<異世界>の住人ではないから、返してもらわなくては困る。


「ハデス? あの、その方をこちらに」

『は? なんで?』


 ハデスの表情が変わった。明らかに気分を害している。


「なんでと申されましても、絹夜きぬやさんにはここの住人ではございませんし。それに、彼には恋人が……」

『はぁーーああ?』


 顔で芸をするということがあるらしいが、ハデスの表情はまさにそうだった。

 眉があべこべに動き、口がとんでもない大きさに開いている。


『恋人ぉ!? 知らないわよ、ここに来たんだからあたしの猫ちゃんよ!』

「どういう理論なのですかそれは……」

『この子はここであたしとずぅーっと暮らすのよ♡ んん~、だあいじょうぶ、三食ぜえんぶとびっきりきれいな宝石にしてあげるからねえ♡』


 今まで無反応だった猫が、帰してもらえないという緊急事態を察して血相を変えてじたばたと暴れだした。

 逃れようと必死にもがいているうちに――降り上げた前足の爪が、ハデスの頬を引っ掻いた。


『あ』


 その白すぎる頬にかすかな切り傷ができた。血は出ていないが、切ったとわかる傷痕だった。

 わなわなとハデスが小刻みに震え出す。いやな予感がした。


『……あ、あたしの顔に……き、ききき傷をつけたわね……?』


 空気が一段階冷え、背後で扉がばたんと音を立てて閉まった。

 カグヤが消えていく<精霊の戸>を眺めながらああ、と声を上げた。


『申し上げるの忘れておりました』

「なにを、ですか」

『ハデスは無類の宝石好きで、動物好きで――そしてとびっきりの』


 なにかが爆ぜた。

 綺光がはっとなって足元を見ると地面が抉れていた。恐る恐るハデスのほうを見れば、彼の装飾された爪の先から細い煙が上がっていた。


『――自惚れ屋でございます』


 カグヤが言うのと爆発音がしたのは、ほぼ同時だった。


 ◇◆


 空中が爆ぜ、床が爆ぜ、そして濁った川には水柱が立った。

 怒り狂うハデスの指先からは目に見えぬ速さで火球が撃ち出され、それがどこかに当たるたびに大爆発を起こしている。目に見えないので捌くことができず、かわすのがやっとだった。


『あたしのぉおおおお!! 玉の肌にいいいい!! 傷をおおおお!! つけたわねえええ!!』


 叫びながら射出される火球はあちこちを破壊していた。

 綺光はマッドを今までいちばんと思えるほど必死に叩き起こして刀にして、猫は赤い髪の毛でだぼだぼの上着と白いズボンと靴を身に着けた、耳と尻尾が猫のままのひとの姿になった。大人しそうな顔には、赤いけれどときどき金色に輝く鱗が浮いていた。

 外見は美しいが、しかしハデスの怒りは倍増しただけだった。『ひとの姿になるんじゃねえええ!!』と。


「ああ、もう! ほんのかすり傷でしょうに……! 治らないですか?」

『善き隣人ですもの、すぐ治りますよ』

「だったらなぜあんなにも怒っていらっしゃるのでしょうか……?」

『〝傷をつけられた事実〟がハデスには許せないのでしょう。傷が治る治らないとかそういう次元の問題ではないのでございます』

「……なにゆえ精霊というは面倒なのでしょうか」

『ひととは遠い場所にいるものは基本的に面倒です。だからこそ操るのが容易なのですけれど』


 綺光の問いかけに淡々とカグヤが答えた。

 現状標的は絹夜だった。おそらく、ついでに綺光も狙われているのだろう。

 絹夜は身のこなしが猫のそれなので、軽々とかわしてはいるもののそれが逆鱗に触れているようで攻撃の手は休まるどころか――徐々に過激になっていた。


『とっとと燃えな!!』

「――断る」


 爆発で上がった砂煙を利用して、絹夜はハデスの頭上に飛び出た。

 空中で縦に回転し遠心力で増幅させた力で踵落としを試みようというのである。水飛沫があがって、水の精霊が彼の足に力を込めた。


『っ、だめです! およしなさい!』


 制したのはカグヤだった。

 脳天へと行き先を決めた踵に向けて、ハデスのつむじから火球が射出された。

 間一髪で足を引っ込めて難を逃れたが、それゆえに空中で態勢を崩した絹夜は、そのまま硬い地面に腰を打ち付けた。


「ッ、絹夜さん!」

「……いたい……」


 腰をさすりながらなんとか身構える。ハデスの額には幾重にも青筋が浮かび、今にも血管が切れそうだった。


『おまええぇ、あたしにぃぃい、なあにをぉ、しようとしたんだあい?』

「……踵落とし……」


 絹夜がごく素直に答える。彼のちょっとした欠点だった。

 ハデスの血管が一本、お釈迦になった。――彼は冥王だけれど。


『ふざけんじゃねえよ、猫だからって可愛がってやったが――もうやめた! 灰になるまで燃え尽きなッ!!』


 ハデスが腕を天に向けた。掌を中心に風が巻き起こり、それから豆粒ほどの種火が生まれる。風にあおられたそれは徐々に肥大化し、絹夜の顔面は熱風に晒された。

 動こうとするも足が縫い止められたかのように動かず、絹夜は動揺した。


「……っ、あし、……なんでっ?」

『ふん、ここはあたしの庭だよ仔猫ちゃん』


 勝気なハデスの顔色を見て、絹夜は奥歯を噛み締めた。火球は小規模な隕石ほどになり、直撃したら致命傷になることは自明の理だった。

 綺光が助けに出ようとするが、その眼前を怯えた顔のケルベロスが立ちふさがる。

 真ん中の頭は泣きそうで、左の頭は睨んでいて、右の頭は寝ていた。


「……首輪を届けて差し上げた恩を仇で返すとおっしゃるのですね?」

『ああわわわ、ごごごごごめんよう、でもボク……ボク』『うるせえだまれ! オレたちゃハデス様の番犬なんだよ!』『ぐー……』


 三者三様ならぬ三首三様の物言いだった。

 綺光は切り捨てることも視野に入れて刀の柄を握った。


『キャハヒヒヒッ! いーのかよぉ? 夢見主である精霊を切り捨てちゃあ、永遠にンナカだぜェ? ヒヒッ! ナカから出してもらうにゃア、こいつにはイきててもらわねェとなァ! ヒヒッ!』


 マッドの言い分はその通りである。

 <異世界>を創造しているのはケルベロスだ。ハデスのほうを多少攻撃しても構わないが、ケルベロスが重傷を負えば<精霊の戸>は開かない。


「……わかっております……けれどこのままでは絹夜さんが……」

『愛しい子。彼なら――大丈夫』

「え?」


 カグヤの助言に綺光が目をみはる。

 ケルベロスに閉ざされた視界の向こう側で、すでに事は起こっていた。


『じゃあね、仔猫ちゃん!!』


 ハデスの生み出した炎を纏う隕石が絹夜の顔をめがけて落ちてきた。絹夜は激突の瞬間、唾を飲みこみ、そして――


「――ッ!!」


 と叫んだ。

 ハデスは鼻で笑ったが――、彼が叫んだ次の瞬間にはその言葉の通り、火球は彼の鼻先で折れ曲がった。

 くの字に曲がった火球はそのままケルベロスの背中に向かって直進する。ハデスは信じがたい光景に目を見開いて固まっていたが、すぐさま状況を理解し慌ててケルベロスに向かって叫んだ。


『ケルちゃん、よけてええ!』


 しかし、その命令を聞くことはできなかった。火球はケルベロスの右の頭のほうへ向かったのである。

 寝ている右側の頭のほうに。

 ぼごぉんと大きな音がして、ケルベロスの右の頭に小高い丘のようなたんこぶができた。反応して声を上げたのは真ん中の頭だった。


『ひ! いたいいたいいたい!! なになに!? えっ!?』『は、ハデス様の火球が、お、オレたちを……』『うぅ~ん? なあに、……え、いったぁ!』


 左の頭が動揺して、寝ていた右の頭が飛び起きた。ハデスは唖然となってそれを見ていた。


『え? は? なんで……? なんで、そっちに……? な、なんなんのよそれ……』

「……<言霊ことだま>」

『え?』


 絹夜は説明しなかった。

 猫の姿に戻ると、小走りに綺光に向かって駆け出す。巻き添えを食らうのを防ぐためだ。


『ご主人サマ……? なんで? なんでボクたちに向かって攻撃をしたの?』『ひどいぜこんなの! 宝石食わせておいて挙句これかよ!』『……オイラの安眠……邪魔した……罪は……重いぞ』


 今まで可愛いとしか思っていなかったケルベロスの顔はまさに番犬に相応しい凶悪なものになっていた。

 牙を見せて唸るケルベロスにハデスは冷や汗を垂らして見上げていた。


『――飼い犬に噛まれるとは、まさにこのことでございますね』


 カグヤがそう言って、ぼきぼきという音がしたのもほとんど同時だった。


 ◇◆


『ごめんねごめんね! 意地悪なんてするつもりなかったんだ!』『ほんとすまねえ……どう詫びていいか……』『……ゴメンネ……』


 謝るケルベロスの足元には無残な姿になったハデスが横たわっている。飼い犬に噛まれただけなのですぐ治るであろうというのがカグヤの見解だった。纏っていた衣服の宝石はとれて、ただのボロ布になり、紫色のボブヘアが、引っ張られたせいで逆立っている。あんな外見の既存キャラクターがいたような気がしたけれど、綺光には思い出せなかった。


「もとはといえば母のせいでございますので……」

『ん?』

「……いいえ、こちらのお話でございます。それでは、私たちはこれで」


 綺光はケルベロスに向かって頭を下げた。猫も控えめに頭を上下させて、一足先に扉の向こうへ足を踏み入れた。

 綺光が扉に入る瞬間に、背中にケルベロスの声がかかった。


『ばいばーい』『じゃあな』『……ぐー……』


 楽しげな声、ぶっきらぼうな声、そして寝入った声に淡く微笑みながら綺光は扉を閉じた。

 <精霊の戸>は閉じた瞬間、下部から透けていってあっという間に消えてしまった。大事がなければもう二度と開くことがない扉である。

 <宝物庫>に戻った三人は、揃って溜息をついた。


「……カグヤ、お聞きしたいことが」

『なんでしょう、愛しい子』

「――精霊というのはああも癖の強いものなのでございますか」


 綺光の問いにカグヤはすこしだけ考えた。ほんとうにすこしだけだった。


『ええ、皆とびっきりの変人でございますよ』


 答えに綺光も猫もこれからも苦労は絶えないな、と思った。


 ◇◆


 紅壽の住まいである地下の鍾乳洞へ向かうと彼は泉のふちに座っていた。

 足音で綺光の帰宅を知ると、振り返って「お帰り」と声をかけた。


「ほら、きちんと戻りましたよ旦那様?」

「……そいつはどうも」


 誇らしげに胸を張る綺光に紅壽はすこしだけ頬を緩ませた。


「……苦労したのか」

「え?」


 なぜわかるのだろうか。

 綺光が目を瞬かせて立ち止まる。しかし紅壽は理由を答えなかった。


「……いや、なんとなく。……そういう気がしただけだ」


 紅壽は泉のほうへ向き直る。心臓は平穏にとくとくと音を立てているだけだ。


「あら……ふふふ、さすが旦那様ですこと」


 綺光は彼のそばに近寄って隣に腰を下ろした。

 紅壽の毒は水によって効果が薄まるので、彼は基本的に水気のあるところで生活している。けれど皮膚は人間のそれと違うから、ふやけることはない。


「……綺光」

「はい」


 綺光は靴下を脱いで素足を水につけているところだった。ひんやりと冷たい水の感触が、戦って火照っている体に心地良かった。


「……今日は」

「……あら」


 紅壽の目を見てその意図を知った綺光は、からかうように言った。


「――ほんとうにあなたって寂しがり屋さん」


 そしてどちらからでもなくゆっくりと、ふたりは唇を重ねた。

 言葉も思考もすべて鬼に食われた。衣擦れの音が、かすかに反響した。

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