魔女は精霊の戸を開く

可燃性

01『ユニコーンの角』

 あたり一面、草原だった。風にあおられて緑の表面がなめらかに動いた。

 額縁に収められた風景画のようなその場所に、無粋ないたずら書きがされた。四本の直線だった。

 それらが結ばれて、風景が四角く切り取られる。切り取られたその内側が茶色に塗り潰された。あっという間に木製の扉になって、ぱっかりと開いた。白い光に包まれた扉の向こう側からトランクを両手で持った少女が現れた。銀髪で瑠璃色の瞳をした美しいかんばせのひとである。瞳には右目に三日月が、左目には薔薇が浮かんでいた。

 服は白と黒でまとめられていて、装飾も彩りも最低限に抑えられている。袖が肘のあたりからまるで着物の袖のように割れたワイシャツに黒のネクタイをあわせ、下半身はタイトかつ大きくスリットの入ったミニスカート。厚底の靴がより彼女のすらりとした体を際立たせていた。

 彼女の足元あたりからぴょん、と赤い猫が飛び出した。鱗模様があちこちに浮かんでいて、首に鈴のついた紐を背中側で蝶結びにしている。耳についたたくさんの金具が太陽光にきらきら輝いていた。そしてその目は星の宿る不思議なものだった。

 ひとりと一匹が草原に降り立つと、扉は下部からすこしずつ透明になって消えてしまった。

 少女が空を仰ぐ。真っ青な空には油彩絵の具で描かれたような白い雲が泳いでいた。


「……さて、と」


 少女がひとりごちて、持っていたトランクを開けた。

 なかからおよそトランクに収められぬ大きさの、虹色に輝く細長いなにかを取り出して――ふう、と息を吐く。


「<ユニコーンの角>だなんて……大層なものを奪うものでございます」


 少女が憂うのを、猫が心配そうに見上げていた。


 ◇◆


 精霊たちは夢を見る。

 彼らの見た夢は現実と変わらない世界を生む。ひとはそれを<異世界>と呼んだ。

 基本的に不可侵領域であるから、出入り口など用意されていないものだけれど、<異世界>になにか大変なことが起こると非常口として扉が現れる。

 それが、さきほど少女と猫が出てきた扉――<精霊の戸>である。もちろん誰もが出入りできるものでも、開くことができるものでもなくて、きちんと資格がいる。

 この資格を生まれながらに持つのはわずかな者だけだ。

 たくさんの屋台の立ち並ぶ大通りをトランクを提げて歩く少女と猫はその資格を持っている。


 ときに、少女のほうは資格を持つ者のなかでも特別な存在――魔女だった。


 魔女の名前は綺光きみつという。前まで違う名前で生きてきたけれど、今はもう綺光として生きている。

 猫の名前は絹夜きぬやという。でも猫のときは猫だからひとの名前は名乗らないと決めているらしい。呼ばれる分には構わないらしいけれど。猫のわからないこだわりだった。

 綺光と同じ速度で軽やかな足取りで歩く彼は屋台からするいい匂いに鼻をひきつかせていた。

 すると突然、猫がはたと立ち止まったので、綺光も立ち止まった。彼の目線の先にはなにか黒い生き物が火鉢の周囲に串焼きにされていた。見た目はなんだかヤモリやイモリなど四足歩行の爬虫類に似ている。


「美味しそうな香りがしますけれど、あれは一体なんでしょうか?」


 綺光は空中に浮かぶ女に向かって問いかけた。姿かたちは綺光にそっくりだが、髪の色と目の色が違う。女は金髪で、目は翡翠のようだった。軽やかに十二単を纏ったそのひとは朗らかに口元に笑みを浮かべながら綺光の問いに答えた。


『ああ、あれは……。サラマンダーの丸焼きでございますね』


 答えに綺光は「え」と短く声を上げて驚いた。


「……サ、サラマンダーを食べるのですか……?」

『あら、夢ですもの。善き隣人を食らったところで罪には問われませんよ』

「……なんでもありなのでございますね」

『ええ、夢ですから』


 女は悪戯っぽく笑った。彼女は月の精霊カグヤである。名前は綺光がつけたもので、綺光にとって母同然の存在だった。


『聖獣さえ守られていればほかはなんだってよいのでしょう。私もこの世界の食文化は悪趣味だと思います――水の恵みであるウンディーネだって、珍味として食べるのですから』


 カグヤがやや不機嫌そうにそう言って、着物の裾を魚の尾びれのようにひらめかせて、大通りを直進した。その後をすこしだけ早足で綺光と猫が追った。

 さまざまな屋台のうえには決まった模様の旗がひらめていた。どうやら商売をするためこの国に認められた証として掲げるのが決まりらしい。

 旗の印はユニコーンだった。


 この国はユニコーンによって守護されている。より詳しく言うなら彼らがもたらす<結界>により森を挟んだ向こう側からやってくる魔物たちを追い返しているのだそうだ。

 しかし、その<結界>の要に異変が起こった。<結界>の核を成すユニコーンの虹色の角がなくなってしまったのである。だから国をぐるりと囲む紫色の透明な壁――<結界>は不安定な状態だった。

 はたからそれは一目瞭然で、いうなれば薄いカーテンで申し訳程度に覆っているという具合だった。しかもカーテンはとても破れやすい。すこし爪で引っ掻いた程度でも破けるそうだから、<魔物>たちにとっては絶好のチャンスだった。ちなみに<魔物>というのは、精霊たちが考える恐ろしいものの具現化である。

 昼夜問わずカーテンを引き裂いて襲ってくる<魔物>の軍勢を国の軍隊が討伐していて、国民は常に<魔物>の脅威に怯えながら過ごしているというのがこの<異世界>の現状だった。


『ああ、ちなみに。まるでほかにも国があるような物言いでございますけれど、ほかに国はございません。ここはユニコーンの夢のなか……善き隣人たちにとってとても有利な領域でございますから、<夢見主>さえ満足できれば国はひとつだけで良いのです』


 カグヤが資格のある者以外には聞こえない声で言った。

 綺光と猫は木陰に隠れていた。眼前には王宮につながる跳ね上げ橋があるが、兵士たちが守っているため近づけない。国は厳戒態勢なのだ、怪しい連中は一目見ただけで追い返されるだろう。


「角をお返しに来ました、と正直に申し上げても無理でしょうね……」

『あの様子では寧ろ盗んだ者として捕らえられ、最悪その場で首を跳ねられますね』

「……」


 綺光も猫も黙った。

 <異世界>で死ぬと、永遠にもとの世界に戻ることができない。ふたりにはとても大切な帰る場所があるから、それだけは避けたいのである。

 綺光は考えて、結論を出した。


「……出直しましょうか」

『策を練ると言うのでございますね、名案でございます』

「……腹。……減った」

「さすがに五時間の潜伏は厳しゅうございましたね」


 綺光の言葉に、猫は力強く首を上下させた。

 それからふたりは居酒屋のような場所で食事を摂ることにした。支払いはいらなかった。

 出てきたのは木製の食器に注がれたおかゆのようなどろどろとした真っ白な物体となにかの肉の炭焼きだった。香ばしい匂いはしているけれど、肉質自体はあまり上等ではなさそうだった。


「……」


 猫がすこし考え込んでから、肉の端っこをかじった。相当硬いようで、歯茎が見えるほど牙を立てている。なんとか噛み千切ってすぐ、猫は「……うすい」と言った。


『仕方がありませんね、特にユニコーンは人間の食べ物を食べないから味など想像できようがございません』

「……」


 カグヤの同情するような言葉を無視して、猫はもしゃもしゃと咀嚼した。とりあえず腹が満たせればそれでよかった。


『でも愛しい子――あなたはほんとうにやさしい子ですね。わざわざ返しに来るだなんて』


 カグヤの言葉はおそるおそる白い液体をすする綺光に向けられていた。綺光は眉間にしわをよせながらも、ごくんと飲み干した。


「――やさしさではございません。私は、母と同じでいたくないだけ……ただ、それだけです」

『あなたはもうじゅうぶん、あの女とは違う存在でございますよ』


 カグヤがやさしく言う。綺光は答えなかった。

 綺光の母は、偉大な魔女だったがひどく傲慢だった。

 どこをどう思い出しても、母との記憶は常に色と強奪にまみれているようなひとだった。

 特にとても大切にされているものを奪うのが好きだったから、<異世界>の<宝物たからもの>にまで手を出した。

 <宝物>は精霊の夢の核である。これを奪われると精霊たちの力に異常をきたす。魔女であるなら当然知っていて、触れてはいけない禁忌の物体であることもわかっているはずなのに。

 でもだからこそだろう。母は奪いたいと強く思ったのだ。<精霊の戸>を魔女であることを理由にこじ開けて、根こそぎすべてを奪った、奪ったものは<宝物庫>に放り込んで終わり。母は奪うことにしか興味がなかったから。管理することなどはじめから考えていない。

 正直綺光はそんなひとを肉親だと考えたくもなかったけれど、だからといって奪われたものをそのままにしておくことはできなかった。それでは母と同じだと思ったから。


 ――君は僕の人生のうちで、唯一の生産物だよ

 ――いいや、景品だね

 ――景品なのだから、まあ精々着飾っておくれよ


 そんなことを幼い綺光に平気で言うようなひとだった。娘であることは屈辱以外のなにものでもなかった。それでも、繋がった血筋は千切ることができなかった。


 ――私はあの女とは違う


 その強い感情は、怒りだったかべつのなにかだったか。

 綺光にはわからない。けれど母の犯した罪を償わないままでいるのは気分が悪かった。

 自分勝手なことだと思ったけれど今までやってきた役目を降りて、綺光は<宝物>を返す仕事に専念することにした。

 ほんとうならこの仕事をするのはカグヤと綺光だけだった。でも猫が協力を申し出た。最初は必死に断ったけれど、猫は頑として応じなかった。その強い意思はあたたかくて苦しかった。

 硬い肉に悪戦苦闘する彼を見つめながら、綺光は目を細める。その視線に気付いて、猫が首を傾げた。鈴がりりんと首元で唄った。


「……ん?」

「いいえ。そのお肉、美味しいですか?」

「……ん」


 猫は黙った。彼はとても素直だから、その反応で美味くないのがわかった。

 おかゆのような物体も塩気がほんのりと余韻を残す程度で、あとはほとんど無味だった。

 綺光がふとトランクに目を遣ってからそういえば、と口を開いた。


「ユニコーンの角はああも簡単にとれるものなのでございますか?」


 鹿なんかは生え代わりの時期があるそうだが、ユニコーンもまた同じなのだろうかと。

 綺光の問いかけにカグヤが答えた。


『ええ。角は煎じて薬になりますから』

「そんなに日常的に……?」

『あれらは善き隣人の世界では家畜と同じ扱いでございますよ。まあ無駄に気高いから決して認めはしないけれど』

「……か、家畜でございますか……」

『ええ。聖獣などと勘違いも甚だしい……神秘的に見えますけれどね、あれは処女しか好まないので、魔女であろうと言うことを聞きません。善き隣人と魔女は古き約定によって繋がっているというのに』

「まあ……」


 カグヤはどこか苛立った様子で言った。

 精霊たちと魔女の間にはとても古い約束がある。それは『精霊は魔女に従い、魔女もまた精霊の良き友として連れ添う』とか『魔女は精霊を傷つけてはならない、精霊は魔女を見下してはならない』などだ。精霊たちはいかなる場合も魔女への助力を断ってはいけないので、ユニコーンの態度は大きく問題である。月の精霊は位の高い存在だからより一層いやなのだろう。


『だから夢を使って国の守り主などになろうとするのでございます。ちなみに角は季節ごとに生え変わりますが、あの女が奪った虹色に輝く角は人間で言う永久歯なので折れたら二度と生えてきません』

「けれど元に戻せるのでございますね」

『ええ、勿論。でなかったから私はあなたに入ることをやめるよう言っていますもの』


 たしかにそうですねと綺光は笑った。

 猫が再び硬い肉に口をつけようとしたとき、今度はさきほどよりもずっと居心地の悪い視線を感じた。

 視線の多くは男のもので――そのほとんどが綺光に向けられていた。


「……」


 猫は知らぬふりをして、硬い肉に牙を立てた。

 やはり不味かった。


 日が傾いた頃に、もう一度跳ね上げ橋まで来ていた。大通りの屋台のほとんどは店じまいをしていて、空には大きな穴を開けたような満月が輝いていた。

 橋の前には護衛の兵士たち以外に、ひとがいた。それは年端のいかぬ少女たちだった。

 きれいな白い服装に身を包んで、一列に並んでいる。そのまわりを厳かな衣装を纏った大人たちが囲んでいた。まるで生贄を捧げるがごとくだった。


「……あれは」

『ユニコーンのご機嫌とりでございますね、ああいやだいやだ……』

「……」


 カグヤが袖で口元を隠しながら首を左右に振って嘆いた。

 ユニコーンは処女の膝のうえに乗って眠る。太古のひとびとはその方法で彼らを捕獲していたらしい。

 しかしこれは好機だった。


「――橋を下ろせ!」


 号令と共に跳ね上げ橋が音を立てて降りてくる。大きな振動と共に橋が完成し、兵士たちと共に少女たちの列が進んだ。

 今しかない! と綺光が素早く地面を蹴った。

 疾風のごとく少女たちを追い抜いた。遅れて気付いた兵士たちが慌てて取り押さえようとするが、突然頭にのっかってきた猫に驚いて怯んだ。


「! 絹夜さん!」


 猫の名を呼ぶと、猫は兵士の鼻にに蹴りを食らわせてから、綺光のあとを追って王宮へ入った。

 けれどうまくいったのはここまでだった。王宮に入ってすぐ表に居た兵士よりも屈強な兵士たちに綺光は取り押さえられた。上等な赤い絨毯のうえに組み敷かれ、猫は首根っこを掴まれて宙に浮いた。


「……っ!」

「――何者だ」

「……こ、国王様への謁見えっけんを……」


 我ながら愚かな事を言っているとは思った。

 予想した通り、兵士の顔が歪む。

 ――お前は何を言っているんだという風に。


「許されると思うか?」

「……許されなくては困ります――カグヤ!」


 綺光が呼びかけると、カグヤが光を纏って出現した。兵士たちが身に着けている重厚な鎧に光が反射し、周囲を包みこんで目を眩ませた。


「っぐ、あああっ!」


 押さえ込む力が緩んだ隙を見て、綺光は背筋を使って飛び起き足を振り上げて側頭部を叩いた。

 兜を震わせる衝撃に兵士がよろめく。道が拓けた綺光は眼前に見えていた階段に向かって走り出した。


「っ、綺光! 場所はっ……! わかる、……っのか!?」

「上へ向かえばよろしゅうございましょう! ――おそらく!」

『うふふ、間違ってはおりませんね』


 カグヤの楽しげな声に猫はすこしだけ不安になった。


 どこをどう通ったか――綺光も猫も覚えていない。カグヤだけが『ああ、そこは違いますよ』『そこは大浴場』と冷静だった。

 そうやって向かって辿り着いた先は王宮の屋上だった。国が一望できる見晴らしのよい場所からは王宮の出っ張った屋根があちこちに見えた。

 月もひどく近いように思えた。そして、その丸い月を隠すように白い生き物が浮かんでいた。生き物は群れを成していて、足元は細やかな煌きに包まれていた。

 羽を生やし、額に一本の角をもった白馬たち。しかし王の前にいる白馬だけは角がなかった。


「な……何者だっ!?」


 国王が突然現れた綺光たちを見てそう言った。

 しわだらけの顔が驚愕に固まっている。綺光は無視してトランクを開けた。なかから虹色の角を取り出した。

 夜の闇にも映える、美しい角だった。月明かりにもはっきりと七色を見せていた。


「――お返しに参りました」


 綺光の言葉を遮る者はいなかった。

 息を整えつつ、白馬の前に歩み寄る。銀色の髪が風に踊って、月光と同じ輝きを放った。


「これは、あなたのものでございましょう?」

『……』


 ユニコーンは何も言わなかった。

 宝石のような目でじっと綺光を見据え、口を開いた。

 了承されると思った。許されはしなくてもよい、受け取ってくれさえすれば。

 そう思っていた綺光だったが――


『ヤダ』


 はっきりとユニコーンは拒んだ。一瞬なにを言われたかわからず、今度は綺光が驚愕に固まる番だった。猫も不可解な顔をしている。カグヤだけが額に手を当てて再び嘆いていた。

 ユニコーンは拒絶してからすぐ、上唇と下唇をぺろんと裏返した。馬鹿にしているようだった。


「え? は? いえ、でもこれあなたの……」

『ヤダ。オマエ、オレノタイプジャナイ』


 ユニコーンはぷいと顔を逸らした。

 沈黙――そして、


「――その者どもをひっとらえよ」


 という国王のほんのわずかに憐憫の含まれた声がかかった。


 ◇◆


「……なぜ返すものを返して私はこんなところにいるのでございましょうか」

「……」


 あの後、ユニコーンの角は連れてこられた少女たちの手で返された。

 そのときのユニコーンは終始でれでれしていて、ご機嫌だった。


『カワイイネ~? ドコスミ? ッテヤッテル? エ、ヤッテナイ? ソレナラ』


 としきりに少女たちを口説いていた。

 兵士たちに連行される最中、その様子を見ていた綺光は心底気持ち悪いと思った。

 そして、王宮への不法侵入で綺光と猫は捕らえられ、牢屋に閉じ込められていた。幸いにも即座に首を跳ねられることはなかった。

 地下牢は、鍾乳洞を改造したような場所で、じめじめしていて天井から雫が垂れてくるので猫の安眠を定期的に阻害していた。

 猫であれば通り抜けられそうな地下牢の格子戸には<結界>が張られていた。無理に通ろうとすれば電撃が走り、猫の丸焼きができあがってしまう。だから猫のほうは諦めて寝ることにしていた。

 牢獄のなかで正座をし、そろえた膝のうえにトランクをのせて綺光はまっすぐ前を見ていた。ほかにすることがないからだった。


「……これでは<精霊の戸>は開きませんね」

『ええ、まったく。忌々しいことです』


 <精霊の戸>を開く権利を持つのは<夢見主>ただひとり。つまり虹色の角を持ったユニコーンだけである。どうやら彼の機嫌を大いに損ねたせいで一同は<異世界>に閉じ込められることとなったわけだ。


『ユニコーンは気高いうえに面倒くさい性格をしていますからね。角を奪われてタイプではない者の手に渡ったとなると彼らはきっと今頃尊厳を傷つけられたとでも思っていることでしょう……』

「……うわあ」


 綺光はカグヤの言った家畜扱いに同情した気持ちを返してほしいと思った。


「……」


 綺光はトランクからぬいぐるみを取り出した。

 ツギハギだらけで、パンキッシュな見た目の猫のぬいぐるみだった。吊り上がった目を表した半月型のボタンの目は開いたままだが、どうやら寝ているらしい。ぬいぐるみは「ぐごー」だとか「ぐげえー」だとかいびきをかいていた。


「マッド、起きなさい」


 マッドと呼んだぬいぐるみの腹を叩くと「ほご」という妙な声を上げて、ぬいぐるみの耳が動いた。綿が詰まってふっくらとした布の耳にはピアスを模した金属の飾りがついている。


「あぁん? あ…… ぐごぉ……」

「寝るんじゃありません、お前の出番ですよっ!」


 もう一度力強く腹を叩くと、叩かれた反動で勢いよく首と釘の打ちつけられた尻尾が飛びあがった。しばらく周囲を見渡してから、マッドが長い爪のついた腕でわしわしと頭を掻くと背中についたこうもりのような羽根で空中に浮かんだ。


「……あ? なんだァ? ココ……。なんでェ、キミツよぉ、お前まっさかまた牢屋でプレイしてンのかぁ? 好きだなァ? ヒヒッ」


 ねぼけているのか、寝起きでからかっているのか定かではない言動をするマッドに綺光は半眼になった。


「……ここは紅壽こうじゅの寝床ではございません。あと牢屋でなどした覚えがございませんが」

「キャハッ、なぁにカマトトぶってンだよォ? 首輪つけて鎖つけてワンワンってやってたろ? あ、いやァ、あれはにゃんにゃんかぁ~? ヒヒッ」

「やっておりません。……いいからしっかり起きなさいマッド、お前の出番だとさきほどから申し上げておりますでしょう」


 マッドがぐるりと旋回する。それから、口をがばりと開けて、


「キャハ、ヒッ、ヒヒッ、――キャハヒヒヒッ! うぃ~す! マッドサマふっかぁつ! いやァ、よぉく寝たゼ! ひっさしぶりすぎてフノウになったキブンだなぁ~!? ヒヒッ!」


 地下牢に響く甲高い声でマッドが言う。大層反響するものだから猫も寝ていられない。のっそりと体を起こしてマッドを見遣った。猫と目が合うと、マッドが再び笑った。


「キャハヒヒヒッ! ンぁ? おぉ、ネコちゃんじゃねェかァよぉ! よォネコちゃん、毎日ハリーな旦那とにゃんにゃん♡ ってかぁ!? ヒヒッ」

「……うるさい」


 猫が起き抜けに文句を言った。大きな欠伸をしてから、猫は後ろ脚で耳の裏を掻いた。


「……ん。……出る。……のか?」

「キャハヒヒヒッ! なァに、出すってェ!? ナニを! 出す! ッテ!?」

「……マッド、起きろとは言いましたが騒げとは誰も申し上げておりません」

「ヒヒヒッ!!」


 マッドは笑いながら綺光の手に縋りつく。

 するとマッドは光を纏って形を変えて、一振りの刀になった。

 狂気的な笑い声と下品な言動を繰り返すものからは想像もできない、淡い光の灯った美しい刀だった。柄の終わりには三日月を象った装飾が施されている。


『あら、なにをなさるおつもりで?』

「直接話をつけるしかございませんでしょう――<夢見主>に」

『うふふ、あなたのそういう感情的なところ私は大好きですよ』


 カグヤが袖で口を押さえながら言った。

 綺光が刀を構える。淡くおぼろげだったのが構えた刹那、強く光を放ち出した。


「<月光一閃げっこういっせん>〝二光にこう達磨だるま落とし〟」


 詠唱と共に綺光が刀を横に振り抜くと、剣戟けんげきが光の余韻になって空中に現れそれはふたつに分かれた。ふたつの光の直線は<結界>の張られた格子戸を真っ二つに断ち切った。格子戸を構成していた鉄の柱の破片がばらばらと転がり、床とぶつかって金属音を立てた。


『お見事』


 カグヤの賛辞に綺光が肩を竦め、猫がひょいと飛び越えた。

 兵士たちが来る様子はなかった。


『キャハヒヒッ! こいつァずいぶんガッバガバな牢屋だなァ!? まるで――』


 刀のままマッドが軽口を言おうとしたが、


「――マッド、それ以上言うと腹の綿を抜き取りますからね?」


 尋常でない威圧感にさすがのマッドも閉口した。

 見ていたカグヤが注意する。


『愛しき狂気よ。お前はいい加減、言って良いことと悪いことの区別くらいつけなさい』

『ヒヒッ』


 反省しているのかしていないのかわからないマッドの返答に、カグヤは呆れるしかなかった。

 綺光はぼそっと、


「あと私は……違いますからね」


 と誰にも聞こえない声で言った。


「カグヤ、ユニコーンたちの宿木やどりぎはどちらでしょうか」

『満月のたもと。――ああ、あそこでございます。ほら、あれ、ひときわ目立つ大きな木』


 この<異世界>のひとびとは三日月を知らない。なぜなら空に浮かぶあの満月は欠けることがないからだ。

 満月の光のみで育つ巨木にユニコーンたちの住まいがある。

 夜の闇に覆われた森を刀を持ったまま綺光が走っていた。持ち歩いていたトランクは綺光の左ももに太いベルトでポーチの形になって固定されていた。

 トランクはマッドの寝床だ、マッドがいないのであれば縮めたところで文句は言われないのである。


「……?」


 綺光がふと違和感を覚えて立ち止まる。並走していた猫が不思議そうに彼女を見た。

 カグヤが周囲を見て言った。


『――<目隠し>ですね、素直に宿木に向かっても辿り着かないでしょう』

「……っち」


 綺光は思わず舌打ちをした。

 周囲を見渡してもあるのは似たような木々ばかり。目印になるようなものもない。

 <目隠し>とは精霊が使う術のひとつである。その名の通り、自分たちの正体を隠すときに用いられる。

 これを解く方法もまた、ひとつだけ。


「……<眼>を見つけなければ」

「……まなこ?」

「<目隠し>は<眼>と呼ばれる継ぎ目が存在するのです。そこを破ることで術は解かれます」


 森は大きなベールに包まれている状態だった。だからこのベールの端の部分を見つけ、そこを解かなければならないのである。しかし森は広い。くわえて夜なので視界もよくなかった。

 綺光は隣を見る。


「カグヤ」

『ええ、愛しい子。満月のもとで私に勝る力などございません』


 カグヤが答えて、袖を振った。袖の先から、水面に石を落とすように光の波紋が広がった。

 しゃらん、しゃらん、と涼やかな音が響くなか、不意にそれがなにかにぶつかってきぃん、と鳴いた。


「――見つけた!」


 深い黒のなかに一筋の銀色が現れた。

 綺光が叫ぶとほぼ同じタイミングで猫がその銀色に向かって駆け出した。猫が地面を蹴って飛び上がると宙で一回転した。猫の姿が伸びてあっという間にひとの姿になる。耳と尻尾だけを残した青年絹夜だった。だぼだぼの上着にくるぶしだけが覗く白いズボン、そして底の平たい白い靴を履いている。りりんと首についた鈴が猫のときと変わらぬ音色で唄った。

 精悍な顔立ちの、その肌のあちこちには赤色がときおり金の色を滲ませる不思議な色合いの鱗が浮いていた。


「――<清流せいりゅうぎ>」


 青年の穏やかな声がそう唱えた。猫が引っ掻くような素振りをすると、彼の指先から三つに分かれた水流が顕現した。引っ掻いた部分から黒が布のように破けて、煙のように消えた。

 闇が晴れて、隠されていたほんとうの夜が露わになった。そしてそのなかに銀色に輝く葉っぱをつけた巨木が出現した。


「わ」


 絹夜が着地と共にその眩さに後ずさった。

 月のすぐ下にあるから目が潰れそうなほど光り輝いている。


『相変わらず悪趣味なぎらつき方……』


 カグヤが心底いやそうな声で言った。

 巨木の下には無数の白馬がいて、誰もが三人に好戦的な眼差しを向けていた。


『――ア、タイプジャナイヤツダ』


 虹色の角をした白馬が言った。

 文句が飛び出しそうになるのをぐっとこらえ、綺光は恭しく言った。


「ユニコーン、お頼みしたき儀がございます」

『ヤダ』


 にべもない返答だった。

 綺光は奥歯を噛んだ。そして深い息を吐き出すように言葉を紡ぐ。


「……なにゆえそこまで拒むのでございましょう」

『ダッテ。タイプジャナイ』


 子どもっぽい、拗ねた言い方だった。


「……それだけございますか?」

『ウン』

「……」

『テイウカサァ、ココマデ、オレノコト、オッテクル、トカ、メッチャ、オレノコト、スキジャン? デモ、ゴメンネ、オレ、タイプジャナイトハ、ツキアエナインダヨネ』

「……」


 白馬が断るのを見ていた仲間たちは『ダヨナー』とか『ソウソウ』とか賛同しているばかりだった。

 告白もなにもしていないというのに、なぜ綺光が振られたような気分になっているのか不明だった。カグヤは一層嘆かわしい素振りを見せて唸った。マッドは笑いを堪えていて、絹夜は真顔だった。

 綺光の柄を握る手に、わずかに力がこもる。しかし切り捨てることはできない。

 約束があるからだ――決して傷つけてはならない、という古い約束が。

 ユニコーンには適用されないようだけれど、だからといって約束を破るような真似を率先してしたくなかった。


「……ならば……」


 綺光はカグヤに目配せをした。

 そして、


「ああ、カグヤどうしましょう……」


 突然、綺光がカグヤに向かってくずおれる。絹夜が驚いたが、大事ではないことを察して黙っていた。


「私、……ユニコーン様と申しますは、清廉潔白で誰に対しても平等で強く美しい――と聞き及んでおりましたが、どうやらそれは単なる噂話だったようでございます」


 カグヤも全力でそれに応えた。


『嘆くことはありませんよ、愛しい子。欠けぬ月があったとて流れゆく時の流れに誰も抗えないもの……』


 綺光がさめざめと泣くふりをして、カグヤがそれを抱き締めて慰めた。

 あからさまな寸劇に絹夜は感情を殺し、綺光の腕のなかでマッドが笑いを堪えていた。


『……』


 ユニコーンがふたりの寸劇を見て黙った。それから周囲に目配せをして、わざとらしく咳払いをした。


『――申してみよ、我が愛し子』


 ユニコーンの口調が変わった。百八十度まったくもって変わった。

 軽薄さ全開だったのに、ずいぶんと落ち着いた堅苦しい口ぶりになっている。

 してやったりと見えない位置で笑った綺光は、寸劇のテンションのまま胸の前で手を組んで乞うた。


「<精霊の戸>を開き、私たちをもとの世界にお戻しくださいませ」

『良かろう。慈悲深き我が御心はそなたを外の世界へ帰ることを許す――』

「ああ、なんと喜ばしい――」


 あんなに拒んでいたことをユニコーンは拍子抜けするほど、あっさりと了承した。三人の背後に<精霊の戸>を開く。来た時と同じ、木製の扉だった。

 綺光はうっとりとした表情で立ち上がり、優雅にユニコーンに礼をとった。


「ああ、なんと慈悲深い……この御恩、一生涯忘れることはございません」

『アア、ウン。ソウシ……んんっゴホン、ゴホン! ――いや、気にするな。私は清廉潔白で誰にでも平等で善き隣人のうちで一番美しい存在だからな』


 ユニコーンのそんな声が聞こえ、ついで扉が閉まった。

 そこは<宝物庫>だった。扉が消え、なにもなくなった空間に綺光が、


「……誰もそこまで言っていないんだが……」


 とぼやいた。

 しばしの沈黙があって、それから刀のマッドがげらげらと笑い出した。


「キャハヒヒヒヒッ!! ンだよありゃァ! ヒーッヒッヒ! サイッコーだなァ!? オイオイ!! いやぁずっと見てられンなァ、アレ!! ヒヒヒッ!! ヒ、ヒヒッ死んじまうゼェ!! なぁ、キミツよもっかいあれヤって……」

「――黙れ」


 綺光は無言で床に切っ先を突き立てて黙らせていた。

 猫の肩がびく、と震えた。


『――お疲れ様でございました』


 綺光とマッドの応酬を見ながらカグヤがそう言った。綺光は溜息をついてマッドをぬいぐるみに戻し、トランクへ収納した。ぬいぐるみに戻ってもまだ笑っていたマッドに、綺光は容赦なく腹を殴りつけて、トランクに押しこんだ。


「……<精霊の戸>が開くのは一度きり。<宝物>をお返しいたしましたし、二度と開くことはございませんね」


 綺光をそれを眺めつつ、嘆息した。

 ここは<宝物庫>――普段はトランクのなかにしまっている<亜空間>である。


「……改めて見るとほんとうに果てしない……」


 <宝物庫>のなかにはみっちりと隙間なく、<宝物>が積み上げられている。これをすべて返さなくてはいけない。けれど、<異世界>への出入りはふだんよりもずっと体力を消耗するので、一日にひとつが限界だった。


『愛しい子、時にはだれかに頼るのも大切でございますよ』


 カグヤが囁くのに、綺光は首を振った。


「これは私が最後までやり遂げます……だって、どう足掻いても私は瑠璃光るりみつの一人娘だから」


 苦しげに言う彼女を、猫がやはり心配そうに見上げていた。


 ◇◆


 猫は小高い丘に建つ小さな家に来ていた。

 彼の住まいだった。かりかりと戸を引っ掻いて開ける。

 その家の看板には木の板が張り付けられていて、『赤猫郵便あかねこゆうびん』という文字のうえにたくさんの猫の足跡がおされていた。

 彼は、そこの郵便配達員だった。従業員はひとりを除いて全員、猫である。自由気ままではあるものの、仕事はきちんとこなす優秀な仲間たちだった。

 今は自由時間で、皆家の好きなところでごろごろと寛いでいた。

 赤い猫に気付くと彼らは口々に「あ、兄弟だ」「おかえりー」「おかえりなさーい」とにゃあにゃあ鳴いた。それらに「にゃあ」とひとつ鳴いて答えてから、二階に上がった。二階に上がって部屋の前にやってくると鳴き声で気付いたのか、部屋の主がすぐに襖を開いた。

 薄氷色の瞳がやわらかに猫を見る。


「お帰り絹夜。――おや、どうしたの。そんな、浮かない顔をして」


 出迎えたのは額から二本の角を生やした男だった。螺鈿細工のような角だった。髪の色も同じ色をしていた。端正な顔立ちだが、右の口の端は硝子に罅が入ったように裂けている。

 男は襟の折り返しがないシャツにすこしだけ柄の入ったベスト、そしてそのうえに、着物を袖を通さずに羽織っていた。スラックスをあわせたその姿は生真面目な書生のようで、気ままに過ごす風来坊のようにも見えた。

 彼の部屋のあちこちにはこんもりと書類の山ができあがっていた。すべてさまざまな形の手紙である。

 ひとは彼を〝玻璃はり零雨れいう〟と呼ぶ。猫は軽い足取りで文机の隣まで来ると、青年の姿に変じ、身を横たえた。


「……疲れたのかな」


 零雨の革手袋に覆われた手が伸びてきて、やさしく赤い頭を撫でた。


「……んん」


 ぐずるように首を振ると、零雨はやや不可解そうな顔をした。


「そう? それにしては表情が晴れないようだけれど」


 猫の――絹夜の表情はそれこそ猫のときと同じようにわかりにくいことで定評があるのだが、なぜだか零雨にはばれてしまう。長年一緒にいるせいか、あるいは彼が恋人だからか。

 絹夜にはわからないけれど、土足で上がり込むようではなくて、膝をそろえてそっと上がってくるような感覚があるからいやではない。


「……助けに。……なれたら。……と」


 絹夜の言葉を受け取って、零雨は口角を緩く持ちあげた。


「――きっともう、充分じゃないかな」


 そんなことない、と言おうとしたが、頭を撫でる手がとんでもなく眠気を誘うもので――絹夜は返事をする前に寝てしまった。

 寝入った絹夜の顔を見ながら零雨は視線を足首のほうにずらした。

 彼の足首には一周、星と金魚を象った模様がある。淡く光るその部分を見つめて、零雨は呟いた。


「……この子をどうか守ってやってくれ」


 どこかで呼応するように水の音が響いた。

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