花圃ちゃん先生の「にー、にー、さん、し!」

 あの日は、今にも雨が降りそうな曇天で。イヤになるくらい。思い出すだけで頭痛がするような、そんな鈍色のくもり空だった――。





「うちの保育園の子を泣かせるなんて――高校生として、恥ずかしくないの?!」


 私は声が上擦っていたのじゃないかって思う。緊張で喉がカラカラだった。鉄の聖母と周囲は勝手に言ってくれるけれど、私だって普通の高校生だ。正直、秋田君が怖いと思ってしまう。


 でも、しおりちゃんはウチの保育園の子。私が、この子を守らなくてどうする――そう自分を鼓舞する。


 秋田朱理あきたしゆり――日本人離れした赤い髪。陶磁器を思わせる肌は今にも壊れてしまいそうだ。それでいて、青い双眸からは強い意志を感じてしまう。得体の知れない恐れと、触れたら壊れてしまいそうな脆さを感じていた。


 ついたあだ名が紅鮫レツドシヤーク紅い悪魔レツドデビル


 あだ名で判断されるのは、決して気持ち良いものではない。だから私は、秋田君と話せる機会があったら、しっかりと話をしてみたい。そう思っていた。


 正直、彼が何を考えているか分からない。でも、湊ちゃんや黄島君は気安く声をかけている。その時に見せるはにかむ笑顔を、盗み見していた。だからこそ、信じられなかったのだ。子どもに悪意を振りまく人には思えなかったから。


(……でも、やっぱり噂通りだったんだ――)


 彼は紅い悪魔レツドデビル。世の中は性善説では罷り通らないことが多々あることを私は知っている。暴力を振るう人、平気で嘘をつく人。お金で裏切る人。性欲に溺れる人。そんな人はごまんといるのだ。


 火のないところに煙はたたない。つまりは、そういうことだ。

 そして、私はやはり男の人が信用できない。


「ちが、違う、違うから。花圃かほちゃん、せ、先生――」


 栞ちゃんが、狼狽えている。


「……大丈夫、怖くないから」


 私は自分に言い聞かせるように、声を絞り出した。

 ポツン、ポツン。

 雨が落ちてきた。


「――」


 え? 私は息を呑む。なんで、って思う。どうして? と声が漏れそうになるのを、かろうじて飲み込んだ。


(なんで、どうして?)


 秋田君。どうして、あなたが泣きそうな顔になっているの?


「返すよ、傘」


 ドンと、秋田君は傘を栞ちゃんに押しつけてきた。女性ものの、ハートがデザインされた傘。確かに彼が持つには不釣り合いで。でも、保育園児が持つには、大きすぎて不釣り合い過ぎた。だって栞ちゃんは、男の子が使うような傘を、愛用していたから。


「あなた、そんな乱暴に――」

「お、お兄ちゃん!」


 栞ちゃんが、慟哭するかのように叫ぶ。その声すら振り切るように、秋田君は駆けていったのを私は、呆然と見送るしかなかった。


 天気が崩れる。

 雨が落ちる。

 叩きつけるように。まるで、殴られるかのように。


「……ちゃんと、話を聞いてくれない花圃ちゃん先生なんか、大嫌い!」


 栞ちゃんの声が突き刺さって。

 私は、傘をさすことすら忘れて、立ち尽くしていた。栞ちゃんのことを探していた、彼女のお母さんと鉢合わせしたのは、それからすぐのことだった。






■■■






花花はなはなちゃん、どうしたの? ひどい顔してるよ?」


 商店街の軒下で、ぼーっと雨を見やっていた私に声をかける人が一人。そんな呼び方をする人は、たった一人しかいなかった。


「……みなとちゃん?」


 目をぱちくりさせる。確かに、ショックを受けていた。

 今でも、栞ちゃんの声が、鼓膜の奥底でリフレインするから。


 ――花圃ちゃん先生なんか、大嫌い!

 

 あの後、栞ちゃんから、ありったけの感情が降り注がれた。傘をさしても、そのキモチでずぶ濡れになってしまうくらいに。栞ちゃんのお母さんが、懸命に止めるけれど、栞ちゃんの感情は止まらない。


 でも、それ以上に胸に突き刺さったのは、秋田君の何もかも諦めたと、言わんばかりのあの表情カオが、私の瞼の裏にこびりついて、離れない。





「なるほどねぇ」


 湊ちゃんは、濡れるのもお構いなしに、あぐらをかいて座り込む。そもそも、バスケのジャージにTシャツ姿の湊ちゃんは、すでにずぶ濡れで、青いブラが透けて見えた。女の私がドキドキしてしまう。それくらい無防備で、天真爛漫。人に対して拒絶を見せない。それなのに色香を感じてしまう。海崎湊はそんな子だった。


「ん? どうしたの、花花ちゃ――あぁ、そういうこと」


 とずぶ濡れのTシャツを引っ張ってみせる。余計に透けて見えて、女の子同士なのに、私の頬が熱くなってしまう。


「いや、今日部活がなくてさ。だから、彩翔あー君と1 on 1ワンオンワンしていたんだけどね。こんなことなら、朱理も誘えば良かったかなぁ。あ、でも、それだと、その子が朱理に会えなかったもんね。世の中、なかなか上手くいかないよね」


 湊ちゃんは、そう言って髪をかきあげる。つーと雫が、髪から滴り落ちた。


「朱理って、誤解されやすいからね」

「え?」


「中学の時にね、うちのキャプテンが高校生に絡まれたことあってさ。キャプテンも意外とケンカっ早いから。それで、女子バスケ部でカチコミを、ってなったことがあってね」


「え? え?」


「それを止めてくれたの朱理だったんだよね。ちょうど、報復にやってきた高校生を一睨みで撃退してくれたのも朱理でさ。いわゆる不戦敗ってヤツ?」


 湊ちゃんら懐かしそうに言うが、かなり危ないことをしようとしていたのではと思う。


「あの時の先輩達の、ビビり具合って言ったらねぇ」

 そうクスクス笑う。




 ――先輩、ここは穏便に収めてもらって良いですかね? 落とし前、しっかり、つけるので。

 ――だ、だ、だ、大丈夫です! 俺たちもう納得した、したから!

 ――いや、そういうワケにはいかないでしょう。しっかりとお詫びをさせてください。 こちらも、このまま先輩方をタダで帰らせるワケにはいかないので。

 ――あ、悪魔? た、助けて。 お願いだから、もう、ゆ、許して! 帰して!

 ――お母ちゃんっっっっ!



 湊ちゃんは楽しそうに回想するけれど、言葉のチョイスに問題があったのじゃないだろうか。 でも、それはともかくとして。私は拳を固める。秋田君が、みんながイメージする子ではないと知れた。それだけで、収穫だって思う。今さらだって、自分でも思うけれど。


「でも、花花ちゃんって、男の人が苦手だったでしょ?」


 言葉につまる。でも、そんな個人的なことを言い訳にできないって思う。


「謝りたい――」


 私の言葉に湊ちゃんは、目を丸くして――それから、微笑んだ。 


「朱理はきっと『気にしてない』って言うよ?」


「私が納得できない。子ども達に、お友達とちゃんと向き合おうねって言っているのに。私がちゃんと、秋田君を見ていなかった」


「そっか……」


 湊ちゃんは立ち上がる。


「朱理はね、もうちょっと愛想良く笑ったら、みんなの評価が違うと思うんだけどね。花花ちゃんが、そうやって朱理と向き合ってくれるのなら、私は嬉しいかな」


「え?」

「だって、朱理は本当に良いヤツだからね」


 私を見て笑みを溢す。なぜかその笑顔と、教室で盗み見した秋田君の笑顔が重なって。私は目をぱちくりさせてしまう。





 雨は、小降りになってきた。





 ■■■





 目が覚めてしまった。

 なんで秋田君の笑顔が、今も瞼の裏側に焼き付いているのだろう?


 今になって、彼の表情が頭から離れないのはどうしてか、自分でもよく分からない。


 みんなは彼のことを怖いと言う。

 でも、私には、他の男の人のように怖いとは思えないのだ。

 あの髪が綺麗だって、思っていた。


(それなのに――)

 私は彼を疑った。


 カーテンが揺れる。

 妙に寝付けなくて、目をこする。ずっと、そんな思考に囚われてしまって、眠りが浅い。結局、私が秋田君を傷つけたことは、変わらない。後悔ばかりが滲んでいく。


 と、風が吹いて。

 なにかが焼ける。そんな匂いがした。


「え?」


 反射的に、ばっと起き上がって、カーテンを開け放った。夜闇に浮かび上がるように、紅い光が灯す。揺れる。パチンパチンと弾けて。


(あの方向は確か……)


 園児の顔が脳裏によぎる。私は慌てて、上着を羽織って家を飛び出した。妙な胸騒ぎを憶える。そんな感情を振り切りたくて、私は駆ける。ただの思い過ごしだと信じたくて――。






■■■






 どぉぉぉん!






 鈍い音が響いて――アパートの階段が崩落する瞬間を目の当たりにする。私は思わず立ちすくんでしまった。


 砂塵なのか、灰なのか。コンクリートの残骸なのか。炎に照らされて、礫が雨のようにキラキラと舞っていた。


 イヤな予感というのは当たるもので。予想通り、きりん組の朝比奈観月あさひなみづきちゃんのアパートだった。煙で目が痛い。こんなに、火が燃えさかっているのに、消防車がまだ来ていない。焦燥感ばかり募る。


「秋田、この火じゃ流石にダメなんじゃねーの?」

「自殺志願者、乙だね?」

「颯爽と助けに行ったのに、中は誰もいませんでしたとかだったら、笑うよな」

 まるで他人事のように彼らは呟く。同じ高校で見た顔だった。


(秋田君が中へ?)


 何を呑気に傍観して――。

 そう言いかけた瞬間だった。


「ウソだろ?」


 彼らは呻いた。二階に、女の子を抱きかかえている男の人の姿が見えた。炎が揺れて、その表情が灯される。間違いなく秋田君だった。階段は崩落して、降りるべき場所はない。後ろから火の手が迫っている。


 と、秋田君は、迷い一つ見せず飛んだのだ。

 まるでスローモーションのように見えた。


 この瞬間、私の周囲の音がかき消えて。

 私は息を呑むことしかできなかった。


 秋田君は車の屋根ルーフに背中を打って何回か跳ね、それから、路面アスファルト落ちた。その胸に観月ちゃんと、熊のぬいぐるみをしっかりと抱きしめたまま。


「おにぃ!」

「観月、秋田君?!」

「朱理?!」

「朱理!」


 聞き慣れた声に目を向ける。観月ちゃんのお母さん。それから湊ちゃんに黄島君――朱梨あかりちゃん? 目を丸くする。確かに彼女の姓は【秋田】だった。でも、まさか彼と兄妹だったなんて、思いもしなかった。


「花圃ちゃん先輩?」

「朱梨ちゃん――」


 でも、今はそんなことより秋田君だった。慌てて、駆け寄る。

 秋田君と一瞬、目が合って。



 ――良いヤツだよな。鉄の聖母とか、はなはだお門違いだ。

 そう彼が微笑んだ気がして、私は目を丸くする。



朱梨あかり


 秋田君が呟いた。


「お兄、無理しすぎ――」

「大丈夫だって、心配性だな」


 そう言いながら、秋田君が優しく髪を撫でたのは――私だった。


「え?」

「ちょっと、お兄? 私じゃないから! そっちは花圃ちゃん先輩だから!」

「心配しなくても、大丈夫だから」


 ぎゅっと、抱きしめられて――それから秋田君は安心したのか、カクンと力なく項垂れてしまう。彼の意識はそこで落ちてしまったようだった。


「全然、大丈夫じゃない! 私じゃない人に、そういうことするのダメだって! 最近、全然構ってくれなかったクセに!」


 とまで言って、朱梨ちゃんは周りの視線に気づく。


「……あ、あはは。あの、これは物の例えと言いますか、その、なんと言いますか――」

「あかりんが、ブラコンなのは今に始まったことじゃないから大丈夫だよ! ブラコン仲間大歓迎!」


 湊ちゃんがサムズアップして見せる。そういえば湊ちゃんはお兄ちゃん大好きっ子だったよね。


「海崎先輩、私はブラコンじゃないから!」


 狼狽える朱梨ちゃんを尻目に、私は秋田君から目が離せないでいた。

 遠くから聞こえる消防車のサイレンを聴きながら。

 睫毛が長くて。

 紅い髪が、やっぱり綺麗だって思ってしまう。

 かすかに漏れる秋田君の呼吸に、安堵してしまう。


 ――でも、花花はなはなちゃんって、男の人が苦手だったでしょ?


 あの時の湊ちゃんの声が響いて。苦手というよりは嫌い。嫌いというよりは、拒絶したい。もう、治ったはずなのに、じくじくと背中が痛む気がする。

 でも、秋田君には、不思議とそういう感情が湧いてこない。


(……お兄ちゃんがいたら、こんな感じなのかな?)


 観月ちゃんや栞ちゃん。それから朱梨ちゃんのように、何かあれば私のことも守ってくれるのだろうか?

 なぜか、そんな図々しいことを思ってしまっていた。


「ちょっと、お兄?! 起きて、起きて!」


 お酒なんか飲んだこともないけれど、まるで酔っ払ってしまったようで。


 朱梨ちゃんの叫びと、サイレンの音。野次馬の喧噪。それから未だに、燃えさかる炎。そんな音が入り交じって。でも、それが、まるで遠い世界の出来事のように感じて、呆然としてしまう。





「お兄! 起きて! ねぇ、お兄ってば! 花圃ちゃん先輩、困ってるから! お兄!」


 朱梨ちゃんの声すら遠い。

 心臓がバクバクと、胸を打つ。

 顔が熱を灯す。これは、きっと火事のせいだ。予想外の出来事が続きすぎて、思考が追いつかない。きっとそう。きっとそうなんだ――。






 それなのに、どうしてなのだろう。

 私は、秋田君から目をそらせなかった。

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