第57話 別れ


 月人の宮は静かだった。

 自分の部屋で制服に着替え終えた夏乃は、リュックを背負って月人の部屋に入った。

 月人は、窓辺に佇んでいる。

 夏乃は月人から少し離れた場所で立ち止まると、静かに床に正座した。


「帰るのか?」

「はい。仕事を途中で放り出すような事になって申し訳ありません。月人さまやみんなのおかげで、あたしはこの国に来てから困ることなく過ごせました。本当にありがとうございました」


 師範にする礼よりもずっとずっと心を込めて、夏乃は月人に深く頭を下げた。


「ここに残るという選択肢は、ないのか?」

「はい」

「私が行くなと言ってもか?」

「はい」

「そなたは、私の生活をかき乱した。その責任をどう取るつもりだ?」

「ごめんなさい……」

「どうしても、帰るのだな?」


 翳りを帯びた紫水晶の瞳を、夏乃は正面から捉えた。


「はい。これはお返しします」


 夏乃は紫の宝石がついた首飾りを床に置くと、もう一度頭を下げた。


「良い。持って行け」

「えっ……」


 月人は夏乃の前に膝をつくと、夏乃の首に首飾りを留める。


「私のことを忘れるな。これは……そなたが私のものだという印だ」

 月人は夏乃を立たせると、自分は背を向けた。

「行くがよい。私の気が変わらぬうちに……」


 夏乃は首飾りに触れながら、月人の背中を見つめた。

 この国に迷い込んだばかりの頃は夢だと思っていたから、少しも不安になったりしなかった。ようやく戻れることになった今、どうしてこんなに不安な気持ちになるのだろう。


 ふいに、涙が溢れてきた。

 この年になるまで、恋をしたことがなかった。

 二次元のイケメンや、三次元のアイドルにキュンとしたことすらなかった。

 遥香に干物女だと揶揄からかわれるほど恋に縁遠かった自分が、初めて恋した人が異界の王弟だったなんて────。


(向こうの世界に戻っても、きっともう恋なんてできない……ああ、そうか。だから記憶を消されるのかな?)


 笑おうとしたけれど、くしゃりと歪んだ泣き笑いになってしまった。


(忘れたくない。月人さまにも、あたしのことを忘れて欲しくない)


 これが自分の我がままだと、十分わかっている。

 月人の記憶から自分の存在が消え、何事もなかったように日々が続く。

 何もかも忘れた彼は、そのうち誰かを愛するだろう。当然だ。そしてそれが一番自然な事なのだ。

 それなのに────そんなのは嫌だと心が叫んでいる。


(心はなんて自分勝手で、我儘なんだろう)


 月人の背中に手を伸ばす。

 彼の腕をつかみ、体の向きを変えさせ、その白い頬に両手を伸ばす。


「あなたが好きです」


 泣きそうな顔で告白すると、思いきり背伸びをした。

 驚いたように目を瞠る月人の唇に、そっと触れるだけのキスをする。


「……さようなら!」


 夏乃は勢いよく踵を返すと、月人の部屋から駆け出した。

 これ以上そばに居たら、帰れなくなってしまう。


「凪さん!」


 廊下で待っていてくれた蒼太に、夏乃は駆け寄った。


「ねぇ、あたしの記憶も消すの?」

「規則だからね」


 蒼太は冷たいほどあっさりと答える。

 夏乃は蒼太の黒い服をつかむと、両手でグイグイ引っぱった。


「嫌だって言ってもダメなの? ねぇ、あたし誰にも喋ったりしないよ。自分の心の中だけにしまっておくから、お願い!」

「そう言われても、規則は変えられないんだ。おれ、バイトだしね」


 蒼太は淡々とそう言うと、夏乃の後頭部を捕らえた。

 夏乃は逃げようとしたけれど、蒼太がポケットから取り出したものが唇に触れたとたん、強烈な眩暈を感じた。


(忘れたくないのに……)


 必死に蒼太の顔を睨みつけながら、夏乃は意識を手放した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る