第51話 珠里


 年嵩の侍女が厨房で夕餉の御膳を受け取り、ゆっくりと回廊を歩き出す。

 月人の若い侍女が姿を消してから、彼女が月人の膳の上げ下げをしている。

 王宮のあちこちには灯明が灯され、広間ではとうに宴が始まっている頃合いだ。


(ふぅん。結局、王宮の侍女の手は借りないつもりなのね。用心深いこと)


 少し離れた回廊に、白いおもてに赤い唇が印象的な少女、珠里しゅりが佇んでいた。

 彼女はえものを見る猫のような目つきで侍女の背を眺めていたが、ややあって、彼女の背を追って歩き出す。


『どうやら、月人は今夜の宴を欠席するらしいのぅ?』


 王太后は命令しない。ちらりと珠里を横目で見るだけだ。

 彼女の無言の命を珠里は心得ている。月人の様子を見てこい────ということだ。

 微笑む紅麗こうれいに、珠里はうやうやしくこうべを垂れて部屋を後にした。


(どうせなら、殺せと命じて下さればいいのに)


 珠里は不満げに唇を尖らせる。

 自分なら、あの膳にを混ぜる事など容易いのに。

 呪は、毒と違ってある特定の状況になって初めて毒となる。あの膳は毒見役を殺すことなく、ごく普通に月人の元へと運ばれるだろう。そして、呪の対象である月人が料理を口にすれば、あっさり死ぬことになる。


 珠里は呪師であることに誇りを持っている。必ずや、拾ってくれた王太后の役に立ってみせるという気概もある。

 雪夜は剣で首を落されたらしいが、紅羽くれはを殺したのは珠里の呪だ。彼女には〈裏切りの呪〉をかけておいた。まさか本当に裏切るとは思っていなかったが、おそらく酷い拷問でもされて口を割ってしまったのだろう。

 一方で、同じ呪をかけた夏乃は、呪が発動する事なく月人の護衛に殺された。


(きっと、裏切る暇もなく殺されたのね……)


 そう思うのに、珠里の心にはどこか釈然としない思いがあった。

 もっとも、一番釈然としないのは、王太后と珠里が力を合わせて練り上げた、犬を使った呪詛が効かなかったことだ。


 犬を使う呪詛────狗毒クドク蟲毒コドクの一種で、呪の毒性は強力だ。呪われた者は犬のように牙をむき、苦しみぬいて死ぬ。どんなに体力のある者でも一週間は持たないはずだった。

 なのに、月人は呪詛の障りを一切受けていない。


(まさか……呪詛が効かないのは、あやつ自身が魔物だからか?)


 王弟が魔物だという噂はよく聞くが、珠里は信じた事などなかった。異母弟を厭う王の虚言に違いないと、そう思っていたのだが────。


(確かに、月人の母親は異国の魔女だ。半分とはいえ、その血を引いているのだから、魔物だったとしても不思議はない)


 珠里は、美しい紅麗の顔を思い浮かべた。

 狗毒による呪詛を成したとき、王太后はその身の力を使い切ってしまった。もはや呪師としての力は無い。それゆえに、今後は珠里が呪師として力を発揮せねばと思っていたのだ。


(紅麗さまは何故、わたくしにお命じにならないのかしら? 霧夜なんかに頼んで、呪詛ではなく刃物での暗殺に切り替えるなんて……)


 物思いにふけりながら静々と歩くうちに、月人の宮が見えてきた。

 いっそ、ぶつかったふりをして、月人の御膳に呪を振りまいてやろうかと足を速めた時だった。

 月人の宮の出入口から、若い兵士が顔を出した。年嵩の侍女を労うように、御膳を受け取ろうと手を伸ばしている。

 ドクン、と心の臓が跳ねた。


(あれは……まさか!)


 どんなに姿を変えようと、呪師である珠里の目は誤魔化せない。

 人にはそれぞれ違う魂の彩りがある。そして、呪師はそれを見ることが出来るのだ。目の前の若い兵士は、間違いなく、あの娘と同じ魂の彩りを持っている。

 その彩りを見た瞬間、珠里の心に怒りが湧きあがった。


(まんまと騙されたわ! あんな小娘が、いったいどうやって、わたくしの呪を解いたというの?)


 珠里の胸に沸きあがったのは、己の呪を無効化された疑念と悔しさ。そして、ほとばしるほどの殺意だった。


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