第30話 間者の正体


 波美なみの傷は思ったよりも深かった。

 高齢の医師が手当てをしてくれたが、その甲斐なく波美は息を引き取った────今際いまわきわに、驚くべき言葉を残して。


「くれ……はに、ころもを……わたした」


 掠れ声だったが、波美が侍女の衣を渡した相手が紅羽くれはだと、その場にいた誰もが耳にした。

 冬馬トーマはすぐに貝割り作業の宿舎に兵を向かわせたが、紅羽は姿を消した後だった。


(信じられない……)


 波美が殺されたこと。紅羽が間者だったというショックに、夏乃なつのは呆然としてしまった。

 睡蓮すいれんと一緒に波美の部屋から出るのがやっとで、廊下の壁に背中を預けて立ったまま、しばらく動くことが出来なかった。


「夏乃!」

 冬馬が大股で近づいて来た。

「今夜は夜通し警護の指揮を執らねばならない。私の代わりに、月人つきひとさまの部屋の前を守れ」


「……わかりました」


 お屋敷の中も外も、いつもより沢山のかがり火が焚かれてまるで昼のようだ。

 夏乃は槍の柄を持ったまま御殿へ上がると、月人の部屋の扉を背にして座り込んだ。

 何だかずっしりと体が重い。

 息を引き取った時の波美の顔と、禍々しい雪夜ゆきやの顔が頭に浮かんでは消えてゆく。でも紅羽の顔は、夏乃を気づかう明るい笑顔だけしか浮かばなかった。


(だめだ……もっとしっかりしないと)


 何度も頭を振っていると、カタリと音がして扉が開いた。


「夏乃、中に入れ。ここでは寒いだろう」

「月人さま……部屋から出ないでください。この島には、わかっているだけで刺客が二人いるんです!」


 振り向いて槍の柄で月人を止めようとしたが、月人は構わず部屋から出てきてしまった。


「刺客がここまで来たら、どのみち私も戦う。心配はいらぬ」

「それでも、あたしはここにいます」

「ならば私も、ここに居ることにする」


 月人は夏乃の隣に座り込んだ。


「そなたが親しくしていた貝割り作業の奴隷が、間者だったらしいな」

「はい。ああ、いえ、紅羽はもう奴隷じゃないって言ってました。お金を稼いでから帰るって…………ああ、そうか、間者だったからなんだ」


 ポロッと、涙がこぼれ落ちた。

 この世界に来たばかりで何もわからない夏乃に、紅羽は親切にいろいろ教えてくれた。


「優しい子……だったんです。ほんとに」


 夏乃は衣の袖で涙をぬぐった。

 月人は何も言わずに、夏乃の頭をそっと抱き寄せた。

 止まりかけていた涙が、またじわりと滲んでくる。


(優しくされると、ダメだな……)


 夏乃はもう一度涙をぬぐうと、月人から離れた。


「月人さまはもうお休みになって下さい。あたしの警護じゃ心元ないでしょうけど、きっと大丈夫です。雪夜を追ってるハクたちと、お屋敷の警備をしている冬馬さまたちが必ず守ってくれますから」

「では、私がここに居ても構わぬだろう?」

「それは……」


 夏乃は答えに困り、気まずい沈黙が降りた。

 ほんの数刻前、月人の腕の中で彼の告白を聞いたばかりだと言うのに、今はそれどころではない事態になっている。


「私の事情に、また、そなたを巻き込んでしまったな」


 申し訳なさそうに、月人がつぶやく。

 夏乃はすぐにかぶりを振った。


「月人さまのせいじゃないです。それに、あたしはもう逃げないって決めましたから。月人さまの呪いを解くまでは、ここで月人さまを守ります」

「呪いを解くまでは……か」


 少し不満気な顔で月人が何か言いかけた時、階下からガヤガヤと人の声が聞こえて来た。雪夜たちを追った兵が報告に戻って来たのかも知れない。


「……どうやら、時間切れのようだな」


 月人は残念そうにため息をついた。

 彼は流れるような身のこなしで立ち上がりながら夏乃に顔を寄せると、彼女の唇を啄んでから扉の内側に入った。

 その間、夏乃は身動きひとつ出来なかった。


(ゆ、油断したっ……)


 夏乃はパッと両手で口を覆い、後ろへ振り返って月人を睨んだが、彼は何事もなかったように廊下を見つめている。


 階段を上ってくる足音がだんだんと近づいてくる。

 二階に上がって来たのは冬馬だった。


「申し上げます。珀が雪夜を仕留めました。雪夜は深手を負って絶命。間者と思われる女は拘束しました」

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