第20話 平和な日々


 冬晴れの青い空が広がる浜辺の作業場。

 十日ぶりに戻って来た貝割り作業は実に平和だった。生臭さと寒さを我慢すれば、身の危険を感じるような出来事は起こりようがない。


「はぁー、やっぱこっちの方がいいや」


 しみじみと夏乃なつのがつぶやくと、隣で紅羽くれはが笑った。


「あっちには夏乃の大好きなお風呂があるんでしょ? 残れたら良かったのにね」

「お風呂なら温泉に入ればいいよ。あっちは確かに待遇はいいけど、気を遣うから疲れるんだ」


 そう言った途端、手元が狂って嫌な臭気が漂ってきた。


「こっちにも気を遣ってもらいたいものだねぇ」


 背後から小太りおばさんの声が聞こえ、つぎの瞬間、背中をバシッと箒のような物で叩かれた。


「……すみません」


 忘れていた小太りおばさんの攻撃に、夏乃は思わず笑ってしまった。

 月人暗殺未遂事件はここまでは伝わっていない。それが今の夏乃にはとても心地良い。ここにいるからこそ、久しぶりに笑うことが出来たのだ。



 仕事が終わり、宿舎の土間で薄い粥をすすると、夏乃たちは夜の温泉に向かった。

 夏乃がいない間も時々入りに来ていたようで、ヒナも熱いお湯に入れるようになっていた。


「ヒナったらね、白珠取りの人に恋しちゃってるのよ」

「嫌だ、そんな風に言わないでよ紅羽!」


 ヒナが顔を真っ赤にして、紅羽にパシャっとお湯をかける。

 幼い印象のヒナが恋をしていると聞いて、夏乃は驚いた。


「へぇ、白珠取りの人と会うことなんてあるんだ? どんな人?」


 いわゆる恋バナに自分が参加していることが、何だか変な気分だった。


「あのね、白珠取りの人が三人で、紫の貝を届けに来てくれたの」

「ヒナが一目惚れしたのは、その中の一番若いヤツだよね? それでね、別の日に貝殻捨てに行ったら、この温泉にその三人が浸かってたんだ」

「ふーん。で、名前は?」

「嫌だ、夏乃! そんなの聞けるわけないじゃない!」


 バシャッと、今度は夏乃にお湯をかけてくる。


「そっか、そうだよね」


 夏乃は笑った。

 ここは本当に平和だ。

 この場所で平和を感じるたびに、どうしても忘れたい出来事が頭をよぎってしまう。


 ここにいる少女たちと同じくらいの年頃なのに、汐里しおりは牢の中で自害した。

 雪夜と出会ったせいで利用されたのだと、夏乃や睡蓮すいれんたちは思っていたけれど、月人つきひとはそうではないと言う。

 しかし、夏乃は未だに信じられなかった。例え汐里が間者だったとしても、雪夜がまだ生きているのに、汐里が自害する必要があるのだろうか。


(やめた! あたしにはもう関係ない!)


 大きく息を吐いて、夏乃は星空を見上げた。冬の冷えた夜空には、見たことも無いほどたくさんの星がきらめいている。


(……おじいちゃん。心配してるだろうな)


 雪夜と戦っている時に聞こえた声は、祖父のものだった。幼い頃から言われ続けた『目をそらすな』という厳しい声が、夏乃の命を救ってくれた。


(突然いなくなったあたしを、探し回ったりしてるかな?)


 いくら考えても答えは出ない。出るのはため息だけだ。


「お屋敷の仕事、よっぽど大変だったみたいね」

 紅羽が気遣うように声をかけてくれる。


「こっちで気楽にやればいいよ。さぁ、そろそろ帰ろう」

「うん」


 紅羽に促されてオンボロ宿舎に向かいながら、夏乃は降って来そうな星空をもう一度見上げた。



 ────その同じ星空を、月人も見上げていた。

 夏乃の血による解呪の効果はすでに消えている。獣の姿で御殿の露台にうずくまった月人は、わずかに首を伸ばして夜空を見上げていた。


「月人さま。ここはお寒うございます。そろそろ中へお入りください」


 心配性の冬馬が声をかけても月人は動かなかった。その代わり、耳をだらりと垂らしてしょぼくれた顔を冬馬へ向ける。


「私は……夏乃に、強く言い過ぎただろうか?」

「は?」

「同僚の無実を信じる夏乃に、私は、あまりにも冷たい言葉を突き付けたのではなかろうか?」

「月人さまは当然の事を言ったまで。あの娘の無知を正してやっただけでしょう。月人さまが心配する必要などありません」

「しかし……」


 冬馬が慰めても月人はしょぼくれたままだ。


「まったく、あの娘のどこがそんなに気に入ったのですか? 解呪の血以外に役に立つことなどないでしょう……ああ、わかりましたよ。そんな顔しなくても大丈夫です。少しのあいだ貝割り作業をすればあの娘も落ち着くでしょう。すぐに呼び戻しますよ。王都へ行くなら、どちらにせよ、あの娘を同行させない訳にはいきませんからね」


 冬馬がそう言うと、垂れていた黒犬の耳がぴょこんと立ち上がった。



 〇     〇



 貝割り作業の仕事に戻って数日が過ぎた。

 気分が落ち着いてくると、夏乃はまた細かいことが気になりだした。一番気になるのは、今までに自分が稼いだ銀の粒の価値である。


「ねぇ紅羽、紅羽は都の近くに住んでたって言ってたよね?」

「そうだけど?」

「都ではさぁ、一日いくらあれば生活できるの? 宿屋に泊まるとしてだけど」

「宿屋かぁ。詳しいことはわからないけど、安めの宿屋と食事で、銀三粒もあれば生活出来るんじゃないかな」

「銀三粒かぁ」


 夏乃は、前にもらった銀の粒とお屋敷を出る時にもらった銀の粒を、頭の中で数えてみた。

 最初の貝割り作業で十四粒もらって、侍女仕事で五十粒もらったから、全部で六十四粒あるはずだ。今働いてる分をもらったら、ざっと二十五日くらいは暮らせることになる。


(なるほど……)


 ひと月で帰る方法が見つかるとは限らないけれど、これ以上時間が経つのは良くない気がする。そろそろこの島を出て、とりあえず都に行ってみるのもいいかも知れない。

 来た時と同じようにハクの船に乗せてもらえればいいのだが、下手に相談すると止められる恐れがある。自分で船を探さなければならないのが一番の難問だが、もう一つ困ったことがあった。


(リュックを月人さまの御殿に置いたままだった……)


 取り戻せたのはお腹の薬と小さなポーチだけだ。ポーチは銀の粒を入れるのに重宝しているが、リュックがないとこの着物のまま元の世界に戻ることになる。それだけは絶対に避けたい。


「うーん」


 夏乃が空を見上げて唸っていると、後ろから箒のような物で叩かれた。


「サボってないで、仕事しな!」


 小太りおばさんは今日も元気だ。

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