第18話 通訳の男


(……こんな事ってある?)


 広間で酒を酌み交わしていた男たちが全員寝落ちしている。

 いくら深酒をしたとしても、夏乃なつのがうたた寝をしたわずかな時間に、全員が眠ってしまうなんてことがあるだろうか。

 少なくとも、夏乃はこの光景を見た瞬間、背筋がゾッとした。


 三十人の客と月人つきひとたちが一堂に会する大広間。日本旅館の宴会場のように床に座っていた客たちは、ごろんと床に転がって寝ている者もいれば、ローテーブルに突っ伏している者もいる。

 夏乃はそっと月人たちのテーブルに近づくと、少し迷ってから床に転がっている冬馬トーマの肩に手をかけた。


「冬馬さま、冬馬さま、起きてくださいよ!」

 揺り動かしてもピクリともしない。

「こんな所で寝てたら風邪ひきますよ。月人さまが風邪ひいたらどうするんですか?」


 日頃のうっぷん晴らしに冬馬の頬をつねったり、鼻をつまんで引っ張ったりしてみるが、それでも起きない。


「もう、どうしよう……」


 夏乃ひとりではどうして良いかわからない。ひとまず厨房に戻って助けを求めよう。そう決めて、夏乃は広間から広い回廊に出た。


(暗い)


 中庭のあちこちに焚かれていたはずの篝火が消えていた。

 夏乃がハッと扉の方へ振り返ると、扉脇に立っているはずの兵士が槍を抱くようにして眠っていた。


「なに……これ?」


 回廊上に目を向けると、他の兵士たちも同様に回廊にうずくまっている。

 酒を飲んでいない警備の兵が全員寝落ちしていれば、これがただの居眠りだとは思えない。


(もしかして、厨房も同じだったらどうしよう?)

 厨房の料理人や下働きの者までが眠りこけている姿が、夏乃の脳裏を過ぎった。


「────あれぇ、まだ起きている人間がいたんだ」


 聞き覚えのある声に振り返ると、回廊に黒い覆面をした男が立っていた。


「あなた……雪夜ゆきやさん?」

「せっかくあげた干しナツメ、食べなかったんだね。可哀そうだけど、きみも月人の道連れになってもらうよ」


 雪夜はなんの躊躇ためらいもなく、腰に帯びていた剣をすらりと抜いた。


「道連れって……うそでしょ? あなた、月人さまを殺しに来たの?」


 夏乃はじりじりと後ろへ下がった。

 近寄ってくる雪夜の剣が、広間から漏れるわずかな灯りに反射してキラリと光る。


「月人以外は殺さない予定だったけど、知られてしまったから仕方がないよね」


 雪夜の声に殺気は感じられない。まるで世間話でもしているように穏やかな声だ。

 夏乃はそれが何よりも恐ろしかった。

 じりじりと後退りながら、救いを求めるように辺りに目を配る。居眠りをしている兵士が抱いている槍が視界に入った。


 その槍を、夏乃はとっさに抜き取った。

 使い込まれた白木の棒の感触が、しっくりと手に馴染む。

 夏乃が槍を構えると、雪夜の眉間にしわを寄せた。


「へぇ、槍が使えるの? でも残念だったね。剣には敵わないよ」


 雪夜はそう言うと、足音も立てずに飛びかかって来た。

 夏乃は構えの姿勢から一気に槍を突き出したが、槍の先はむなしく空を切る。

 雪夜の剣が閃いた瞬間、槍の穂先が飛んだ。


 刃を無くした槍の柄を、夏乃はすぐさま回転させた。棒術に慣れているせいか、刃がない方が動きやすい。

 ただの棒になった槍を上下左右に振り回し、無意識に繰り出した一撃が、わずかに雪夜の体を掠めた。そのおかげか、夏乃に向けられていた刃が逸れる。


 狙いを外してもなお繰り出される雪夜の剣を、二度三度、夏乃の槍が防ぐ。

 冬の夜だというのに体からは汗がにじみ、息も上がってくる。


(やばい!)


 道場で育った夏乃でも、真剣相手に戦ったことはない。

 焦りが弱気を生み、その弱気が生み出した、一瞬の隙をつかれた。

 夏乃の結い上げた髪を、ザクッと刃が掠めた。

 パラパラと切られた髪が闇に散り、夏乃は驚愕のあまり目を見開いたまま雪夜を見つめた。


(あと一瞬遅かったら、頭をかち割られていたかも知れない……)

 冷たい汗が背中を伝う。


『夏乃、相手から目を逸らすんじゃないっ!』


 頭の奥に祖父の声が聞こえた。何度も叱られた低い声。その声にハッと我に返り、夏乃は再び雪夜の動きに集中した。

 聞こえるのは呼吸の音だけ。

 腰を低く落とし、槍の柄を手のひらの上で滑らせるようにして、相手の胴をめがけて突き出す。


 少しだが手ごたえを感じた。

 ダメージにはならなくても、雪夜の体勢は崩せるかも知れない。


「くっ……」


 軽やかな足取りで雪夜は後ろへ飛び退いた。ここで時間を与えたら体勢を整えられてしまう。夏乃は一気に前へ出た。

 防戦から攻めに転じる。夏乃は雪夜を追うように槍の柄を突き出し、刃を薙ぎ払い続けた。


「何ごとだ?」


 ちょうど夏乃と雪夜の間にある開いた扉から、月人が姿を見せた。

 ハッと目を瞠った雪夜が、すぐさま標的を月人に転じるのがわかった。


「ちょっ、月人さま! 下がって下がってっ!」


 月人に向けて振り下ろされた雪夜の刃を、夏乃が突き出した槍が受けとめる。がっちりと柄に食い込んだ剣は、振り払ったくらいでは外れそうにない。


「ちっ」


 雪夜の判断は早かった。

 柄に食い込んだ剣を捨てると、懐から短剣を取り出して月人に狙いをつける。

 夏乃は剣の刺さった槍で雪夜の邪魔をするが、余計な物があるせいで思うように動けない。


「月人さま逃げてっ! マジでヤバイったら!」


 そう叫んだ時、表門の方から誰かが走って来るのが見えた。大柄の男、ハクだ。


「夏乃?」

「珀っ! 急いで!」


 ものすごい勢いで回廊を走って来る珀と、夏乃に挟まれるかっこうになった雪夜は、月人をあきらめたのか回廊からパッと庭へ飛び出した。

 裏庭に逃げ込むつもりだったのだろうが、珀が追いつく方が早かった。


 珀の剣が、雪夜の背中に斬りかかる。

 飛び散る血。

 崩れ落ちる雪夜の体。

 血のついた剣を振り払う珀の姿。

 元の世界に居たら目にする事もなかった現実が、怒涛のように夏乃の目に飛び込んで来て、頭が真っ白になる。


 ガクガクと震える足は体重を支え切れず、夏乃は回廊に座り込んだ。

 いくらテレビや映画で見慣れていても、目の前で人が殺されるのを見るのは別物だった。

 その光景は────悪夢としか思えなかった。

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