第6話 呪詛


『きゃー!』

 叫び声とともに、少女たちは着物をつかんで温泉から逃げ出した。


「ちょっ、ちょっと待ってよみんな! ええっ、紅羽くれはまでぇ?」


 出遅れた夏乃なつのは、慌てて湯から出ると着物を羽織った。

 上下に分かれているこの国の着物は、たぶん日本の和服よりは簡単なのだろう。しかし、夏乃はまだ慣れていないし、焦るとよけいに手間取ってしまう。


 べつに火の玉なんて信じてはいないが、何となく気になって、そっと後ろへ振り返る。

 すると、岩場の奥の山の方から小さな炎のようなものが二つ、ゆらゆらとこちらへ近づいてくるのが見えた。


「うそっ……待ってよみんなぁ!」


 何とか着物を着て岩から飛び降りる。

 砂浜を走りながら前方を見ると、遠くに五人の人影がかすかに見える。


「薄情者ぉ……」


 温泉で温まった体はホカホカしているが、心臓は凍りつきそうだ。

 何かが追って来る気配に気づいて足を速めたが、次の瞬間ガシッと腕をつかまれた。


「きゃぁぁぁぁ!」


 つかまれた腕を振りほどこうとすると、もう一方の手が腰に巻きついた。次の瞬間には、夏乃の体は何者かに抱えあげられていた。


「ひっ……」

 叫ぼうとすると、大きな手で口をふさがれてしまう。


「夏乃、俺だ」

 低く抑えた声が後ろから聞こえる。


「ふっ……ふぁく?」

 声でハクだと分かると、夏乃の恐怖はかなり軽減された。


「ああ。湯につかってたのに、脅かしてすまなかった」

 珀はすぐに夏乃を地面に下ろしてくれた。


月人つきひとさまが散歩をされているんだ」

「こんな夜中に、散歩?」


 夏乃はそう言ってから、近づいてくる炎の方へ目を向けた。

 炎の脇に見える人影が月人なのだろう。そう思った瞬間、夏乃は自分の状態を思い出した。

 適当に着た着物に、水滴を垂らした髪は梳かしてもいない。ここに小太りおばさんがいたら、きっと『〈銀の君〉に恥ずかしい姿を見せるんじゃないよ!』と怒るに違いない。


「あっ、あたしこんな格好だから、もう行くね」

 逃げ出そうとする夏乃の手を、珀の手がつかんだ。


「大丈夫だ。おまえたちが温泉に入ってたのは知ってるから」

「は、何それ? まさか覗いてたんじゃないでしょうね?」

「いやいや違うって。月人さまが、おまえを試してみたいと仰せになったんだ」


 珀の言葉にギョッとする。


「あたしを……試すって、どういうこと?」


 嫌な予感に背筋がざわついてくる。

〈銀の君〉は魔物なんだって、と言っていた紅羽の言葉が耳に蘇る。


(まっ、まさか、あたしを食べるんじゃ……)


 ビシッと姿勢を正す珀につられて前を見ると、月人だと思っていた背の高い人影は冬馬トーマだった。ランプのようなものを二つ手にしている。

 あのランプが火の玉に見えたのか、と心の隅の方で納得するが────。


(あれ、月人さまは?)


 ポカンとしていると、冬馬が偉そうに口を開いた。


「娘、おまえには特別に、月人さまのお姿を見ることを許す」


 冬馬がそう言うと、彼の後ろから黒い何かが前に出た。


「えっ……と」


 向かい合って立つ、冬馬と珀。

 二人が手にした明かりに照らされたモノは、どう見ても、スラリとした体形の黒い大型犬だった。


(……ドーベルマン?)


 身じろぎもせずに黒い犬を見つめる夏乃。

 冬馬も珀も、何も喋らない。


「……犬、ですよね?」


 沈黙に耐え切れなくなってそう尋ねると、冬馬が怒りの形相で夏乃を睨みつけた。


「ひっ……」


 ぶたれるかと思って一歩飛び退けば、「まぁまぁ、冬馬さま」と珀が取りなしてくれた。


「夏乃。月人さまは何者かの呪詛を受けて、このようなお姿になってしまったのだが、本来は、輝く銀の髪と紫の瞳を持つとても美しいお方なのだ。

 月人さまが魔物だという噂が流れてからは、この島の働き手が減ってしまった。

これ以上使用人たちを不安にさせないために、月人さまは自分の身代わりの人形を部屋に置いている。おまえが見たのはその人形だ」


「へぇ」


 夏乃があまりにもじっと見つめていたせいなのか、黒犬がフッと視線を外した。


「何か……言うことはないのか?」

 そっぽを向いたまま、黒犬が口を開いた。


「あっ、言葉は喋れるんですね! 誰が月人さまを呪ってるのか、わかってるんですか?」

「娘っ! 無礼が過ぎるぞ!」


 再び冬馬がクワッと目を剥いたので、夏乃は思わず顔の前で腕を交差させた。


「冬馬、控えよ。珀、夏乃を送ってやれ。合格だ」

「はい、月人さま」


 珀は満足げな笑みを浮かべ、月人に一礼した。

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