第一章 王弟の箱庭

第1話 おかしな夢


「────おい、起きろ!」


 乱暴に揺さぶられて目を開けると、眉間にしわを寄せた見知らぬ男の顔が見えた。

 日に焼けた若い男の顔。長く伸びた前髪が片方の目をまるまる隠している。


「やっと起きたか。おい娘、おまえ、いつこの船に乗り込んだ?」

「ふね?」


 夏乃なつのはぼんやりと聞き返す。何のことやら、さっぱり覚えがない。

 起き上がってみると、そこは確かに船の上で、しかもかなり年季の入ったボロボロの帆船だった。

 周りには光る海が広がっていて、船は上下に揺れながら波を蹴散らせている。


「なに……これ。あたし、船に乗った覚えなんかないよ。だって、さっきまで……」


 夏乃は頭を抱えたまま固まった。

 これは夢だろうか。

 ついさっきまで、夏乃は学校の図書室に居た。夏休みの図書当番を終え、帰り際に立入禁止の海岸へ向かう人影を見つけて後を追いかけた────はずだ。


 ぶるっと寒さに震えながら自分の体に目を落とす。

 半袖の白いYシャツに紺色のベスト。紺地に白のチェック柄が入ったプリーツスカート。高校の夏服に間違いない。


(……夢じゃない?)


 背中にはリュックがあるし、ポケットを探ると生徒手帳もあった。


「おいっ、いつ乗ったかと聞いている! 出港する時はいなかったはずだぞ!」


 片目しか見えない男の顔がグッと近づいてくる。せっかく整った顔なのに、獰猛な表情を浮かべているせいで人相が悪い。

 よく見ると、彼はおかしな服を着ていた。例えるなら、日本の着物を膝上でバッサリ切って、その下にズボンを履いたような格好だ。


 周りにいる他の男たちも同じような着物を着ているし、そのもっと遠くで固まっている少女たちは、ズボンの代わりに足首まである細身のスカートをはいている。


「ここ……どこ?」


 夏乃はようやく、この奇妙な状況に気がついた。


「おまえは異国人か? ここは多島海諸国の領海だ。我らは白珠島に向かっている。おまえは港から乗って来たのか? 今まで気付かなかったのは我らの手落ちだが、怪しい奴をこのまま〈銀の君〉のご領地へ連れて行くことは出来ぬ。可哀そうだがここで降りてもらう」


「……ここ?」


 何も言い返せないうちに、夏乃は軽々と男の肩に担ぎ上げられていた。

 高い位置に持ち上げられたせいで、きらきら光る海面が一段と良く見える。


「ここって海じゃん! や、やだっ! 落とさないでったらぁ!」


 夏乃がジタバタと男の肩の上で暴れていると、少女たちの集団から小柄な少女がひとり進み出た。


「あの、あたし見たんです。その人、突然そこに現れたんです! 紫色の光に包まれてました! 神様のお使いではないでしょうか?」


「は? 何を言っている」


 男は少女を睨みつける。しかし、意外なところから賛同の声が上がった。


「いや、でも、おれたち何度もここを通ったけど、誰もいなかったっスよ。神のお使いかどうかは知りませんけど、突然現れたのは本当なんじゃないですかねぇ」


 大人しそうな少女に加え、船乗りの男たちから出た言葉のおかげで、夏乃は海に投げ落とされずに済んだのだった。

 どうやら、白珠島とかいう島まで連れて行ってもらえることになったらしい。



(それにしても、よく出来た夢だなぁ)


 船の上で、夏乃はぼんやりと海を眺めた。

 いろいろと考えた結果、これは夢なのだという答えにたどり着いた。そもそも、それ以外に選択肢はなかった。


(とりあえず、目が覚めるまでは映画でも見ているつもりでいよぉっと)


 何事も切り替えが大事だ。

 夏乃は改めて、自分の周りを見回した。


 夏乃が乗っている船は結構大きな帆船だが、見たこともないほどオンボロな木造船だ。

 乗っている人間は十人ほどの少女たちと、舵を操る親父が一人と、もう少し若そうな男たちが五人ほど忙しそうにしている。


 さっきの片目を隠した男は、若いがこの船の頭領らしい。今は男たちを指揮して帆の調整をしている。

 見ていると、帆が風を受けて大きく膨らんだ。

 波しぶきがサバッと音を立て、船が大きく上下に揺れる。


(風が強くなってきたんだ……けっこう寒いな)


 夏乃は木箱の上に座ったまま、両腕を抱いた。


(今は夏休みだから夏服なんだろうけど、夢なら冬服でも良くない? でか、そもそも制服じゃなくても良くない?)


 心の中で文句を言っても服装が変わる訳ではない、そこは諦めるしかないかと自分を慰めていると────。


「着ていろ!」


 上からバサッと上着が降って来た。

 顔を上げると、さっきの片目を隠した男が立っていた。


「あ、ありがとう」


 男の親切に驚きながらも、夏乃はさっそく背負っていたリュックを降ろして上着を羽織った。厚地の上着にじわりと体が温まってくる。

 体育会系の匂いを覚悟していたが、意外や意外。男の上着からは異国のお香のような香りがした。甘くて、エキゾチックな香りだ。


「あの娘たちは白珠島で働く奴隷たちだ。おまえも行くところが無いなら、雇ってやってもいいぞ」

「え、あの子たちって奴隷なの?」


 夏乃は木箱に座ったまま男を見上げた。


「ああ、人買いから買った奴隷だ。おまえは働いた分だけ給金をやる。考えておけ」


 男が踵を返した瞬間、風を受けて前髪が上へ流れた。

 さっきまで前髪の奥に隠れていた左目が露わになる。黒い右目とは異なる琥珀色の瞳に、夏乃は吸い込まれそうになった。


「オッドアイなんだ。きれいだね」


 夏乃がそう言うと、男は眉間を険しくした。


「この目が……邪眼がきれいだと? 驚かないのか?」

「え、ちゃんと驚いてるよ。あたし、瞳の色が違う人を見たのは初めてだから!」


 夏乃が素直に答えると、男はしばらく眉間にしわを寄せたまま睨んでいたが、やがてため息をつくようにフッと笑った。


「そうか……おれはハクだ。おまえの名は?」

「あたしは夏乃」

「夏乃か……島で働く話、考えておいてくれ」


 珀はそう言うと、忙しそうに持ち場へ戻ってしまった。


(本当に変な夢だ……)


 夏乃は、足元に置いたままだったリュックの中身を確かめた。

 大したものは入っていない。小さな水筒とノートと筆箱。それにハンカチとティッシュ。他にはポーチに入った薬や細々としたものだけ。何の変哲もないいつも所持品だ。

 夏乃は小さくため息をついて、リュックの中身を片づけた。


 少し離れた場所では、奴隷だという少女たちが肩を寄せ合っている。

 水平線に目を向ければ、大きな太陽が海面に浮かんでいるのが見えた。もうすぐ日が沈むのだ。

 濃紺の海はキラキラと光りながら朱色に染まってゆく。

 夏乃は冷たい海風にさらされながら、世界で一番美しい夕日を眺めるのだった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る