猫とイチョウ

明日原

第1話


 三山友香はぼうっとした頭で机の上の書類を眺めていた。

 よくある話だ。就職活動が芳しくない結果に終わり、内定が出たのが派遣会社一社だけだった。ただそれだけのありふれた話。

 スーツを着て化粧をして、にこにこしながら自分とはなんの関係もない会社の手伝いをするのだ。年収はほぼ100万。一月で8万。一日で3000円。これから十年、二十年、それから先もきっとずっと、わたしの価値はそんなものだ。這いあがれない沼に落とされたような気持ちだった。

 でも、ああ。そうか。

「それだったら」

 カシュッと缶ビールを開けて、飲むために顔をあげると、暗いパソコンのモニターに自分の顔がうつりこむ。泣いているような情けない笑顔だ。

 昔からそうだ。体も声も気も小さくて病弱。顔もかわいくないし、なにか特技があるでもない。グループカーストはいつも底辺で、周りの顔色をうかがう。学芸会では少し勇気を出して主役に名乗りをあげて、すぐに笑われてることに気づいて取り下げた。それからのあだ名は主役ちゃん。主役になんてなれたことないのに。

 唯一勉強だけは少しできたから、地元でも指折りの進学校に行って、そこそこの大学に進んだ。けれどなにしろ気が小さくてあがり症だから、面接で毎回何も話せずに終わってしまう。

 友香はずっと脇役だ。クラスメイトの、後輩の、これからは派遣先の会社の。ああ、意味のない人生。価値のない人生。

「一回くらい、主役になってみたかったなあ」

 ビールの泡と一緒に、唇の間から言葉が滑り落ちた。瞬間、視界が暗転した。



 目を開けると、細切れにざわざわ動く青い空が見えた。

「え……?」

 体を起こしてみる。肌に小さな石がいくつかくっついてきた。どうやら砂の上に寝ていたらしかった。友香の近くには何枚か扇のような形のバナナみたいな葉っぱが落ちている。イチョウの葉だ。見ると、すぐ左に木がある。友香は木の下に倒れていて、風で揺れるイチョウの葉の向こうの空を見ていたのだった。

「ここって……」

 何か考える前に、きゃあきゃあと高い声が耳に届いた。見ると、子供と呼べる年齢の子たちが数人で集まって走りまわっている。子供たちの向こうに視線をやると、登り棒にうんてい、鉄棒、砂場……。

「しょ、小、学校……?」

 友香は信じられないような気持ちでぱちぱちと目を瞬いた。だって今の今まで自分の家で泣きながらお酒を飲んでいたのだ。それが突然こんなリアルな、幻覚(?)を見るなんて……。

「そりゃそうだろ。いつの間に卒業したの」

「ひいっ……!?」

 後ろからかけられた声に驚いて、肩が痙攣するように震える。息を吸い込むような悲鳴が漏れた。

「ご、ごめんなさい」

「はあ?」

 咄嗟に友香の口から出た謝罪に眉をひそめたのは、佐伯優斗。友香が小学4年生の時のクラスメイトだった。顔がかっこよくて足が速くて、クールで成績も優秀。いつでもクラスの中心にいた。ただあまりにも関わりが無さすぎて、友香とは別世界の人間だったという記憶しかない。

「まあいいけど」

 佐伯くんはため息をつく。友香はまたびくっとして、地面を見つめる。佐伯くんは眠いような怒ったような目で面倒くさそうに続ける。

「頭、もういいの」

「え、……は」

「さっき打ってた」

 言われてから、後頭部が熱くじんじん痛む。

「あ、……大丈夫、です」

 大丈夫かはわからないが、とりあえずそう答えた。大丈夫じゃないと佐伯くんに言ったところでどうにもならない。

「あ、そ」

 佐伯くんはもう興味をなくしたように短く言って、昇降口の方に向かおうとする。

「あ、あの!」

 友香は弾かれたように叫んだ。

「なに」

 佐伯くんが面倒くさそうに振り返る。

「あ、ありがとう」

 友香は精一杯はっきり、口ごもらないように声に出して言った。少しどもったが、伝えないよりはましだと思った。

「……」

 佐伯くんはまたあの眠いような怒ったような目でしばらく立っていた。それからゆっくりと友香の方へ戻ってくる。

「……あ、」

 友香は頭が真っ白になった。なにか取返しのつかないようなことをしたのかもしれない。

「ご、ごめん」

「三山はさ」

 友香の言葉を切るように佐伯くんが言う。友香は目を瞑った。

「なんで謝るの」

「え」

 怒っているんじゃなく、嘲笑うんでもなく、単純に疑問に思っているみたいな聞き方で、友香は虚を突かれた。

「あ……その、」

 友香の心の中に、もしかしたら佐伯くんは違うのかもしれないという気持ちの芽が出た。友香が言葉を探しているうちに、佐伯くんは笑う。

「だから”主役ちゃん”なんだ」

「……」

 友香は黙り込んでしまう。はっきり、傷つけてやろうという響きがあった。佐伯くんは、別の世界の人間なんかじゃなかった。友香が勝手に思い込んだことなのに、すぐに裏切られたような気がして顔があげられなかった。

「おれはライオネルだった」

「え……?」

「学芸会の話」

 佐伯くんはイチョウの木に、友香と背中合わせに寄りかかるように立つ。それが妙に大人びていて、黄色いイチョウの葉っぱがひらひら横を落ちていくのが様になっている。だから女子に人気なんだなと思った。

「小川はジリアンで田辺はスワガード。中村が魚屋のトリバー」

 佐伯くんと同じグループのクラスメイトの名前があがる。友香たちのクラスが演じたのはロイド・アリグザンダーの「人間になりたがった猫」。猫のライオネルが2日間だけ人間になり、人の優しさに触れて、永久に人間になることを望む話。ヒロインのジリアン役の小川絵里香は、友香を最初に"主役ちゃん"にした人物だった。

「三山は?」

「あ……照明」

 友香は仕方なく答えた。

 一度主役に名乗り出るなんて大層なことをしてしまったおかげで友香は学活の時間中クラスの視線を集めてしまい、結局他の役に手を上げられずにそうなった。

 それ以上思い出すと自分がみじめになるのがわかったから、友香は話題を変えた。

「……佐伯くんは、すごいね」

「おれが?」

 佐伯くんは声を出さずに笑った。

「うん。いつも、真ん中にいる」

「三山は真ん中にいたいの?」

「……ううん。最後だから、なにかやりたかっただけ。それだけ」

 友香は目を閉じる。

「でも、ダメだった。何もできなかった。わたしはダメなやつだから、……結局いつも、なにもしてない。なにもできない。わたしは、わたしだから。だめなわたしだから!」

 友香は吐くように言った。これはきっと夢だから。目が覚めたら誰もいないんだから、ここで何を言ったって本当にはならないんだから。誰にも迷惑はかからないんだから。

「小川さんは……合ってる。わたしは、きっとずっと主役にはなれない。主役になろうとして、そのたび失敗する……”主役ちゃん”だから。器じゃないんだよ。主役っていうのは……佐伯くんみたいな人だ」

 ああ、話題が戻っている。調子にのってこけてしまった”主役ちゃん”。経験の足りない子供が自分の能力を過信して失敗する。ありふれたありきたりな話だ。それだけだ。

 たまっていたものを全部吐き出してしまって、いつのまにか目に浮かんでいた涙をぬぐいながら佐伯くんの方を見る。佐伯くんは、笑っていた。黄色いイチョウの葉が落ちる。

「三山は」

 ああ、嫌だ。聞きたくない。友香は耳をふさぎたくなった。

「主役じゃない」

 ほら、来た。うるさい、うるさい。友香は主役じゃない。そんなことは自分が一番わかっている。主役に言われるまでもない。

「そんなのは__!」

 わかってる、と言おうとして、さえぎられた。

「おれ、ネコ好きなんだ」

「……え?」

 思っていたのとかなり違う言葉が出てきて、友香は勢いを失う。

「あの学芸会で、三山は主役じゃなかった」

「………」

「でも、三山にはセキニンがあるだろ。おれを照らしたセキニン」

「……は?」

「学芸会の日。おれを照らしたんでしょ」

 話が見えない。が、当然のように話を進める佐伯くんに、友香は戸惑いながらもうなずく。

「え……う、うん」

「じゃあ、何もやってないのとは違う。おれを照らしたのは三山で、それはやったんだって言わなきゃいけない。そうじゃないと、おれが嫌だ」

「え、あ……」

 友香はどうしたらいいのかわからなくて、佐伯くんの足を見ていた。

「三山が照明係をなかったことにするなら、舞台の上でおれは見えてなかったことになる。おれはそれ嫌だよ。ネコ、けっこう好きだから」

 友香はそっと佐伯くんの目を見た。佐伯くんはイチョウの木から背を離して、眠そうでも怒っても笑ってもない目で友香を見ていた。その時の佐伯くんは大人びているとかじゃなく、本当に大人の男の人みたいに見えた。

「……」

 友香がなんと答えるべきか迷っていると、キーンコーンと休み時間の終わりを告げる鐘が鳴った。

 その時、強く風が吹いた。地面に落ちたイチョウの葉が巻き上げられ、黄色い波になる。友香はその中に飲まれて、やがて意識を失った。



 再び友香が目を覚ました時、そこは見慣れた自分の部屋だった。

(夢……?)

 それにしては、随分はっきりした夢だった。手のひらに刺さった砂の感覚とイチョウのにおいがまだ残っている。

『おれを照らしたセキニンがある』

『おれはそれ嫌だよ。ネコ、けっこう好きだから』

 夢の中で佐伯くんが言っていた言葉をそっとなぞってみる。

 それから目を閉じて、学芸会の第一幕の最初の場面を瞼の裏にえがいた。

 洞窟みたいに静かで真っ暗な体育館。開演のブザーが鳴る。閉じた赤い幕の前に佐伯くん演じるライオネルが出てきて、スポットライトに照らされながら手を振って物珍しそうにあいさつする。

「やあみなさん、人間のみなさん!こんにちは、こんにちは!」……。

 ……ぱちっと目を開いて、前へ向きなおる。書類は相変わらず、壁のように目の前に鎮座している。

 でも、友香の心は不思議と穏やかだった。

 眠そうでも怒ってもいない、見えない何かに挑戦するような佐伯くんの目を思い出す。

「わたしもネコ、けっこう好きだよ」

 友香はつぶやいて、書類を手に取った。

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猫とイチョウ 明日原 @asparagus

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