第十五幕 斎藤義龍

「時間だ。出ろ」


「……!」


 気付いたら牢の前に雫が立っていた。いつ来たのか妙玖尼も紅牙も全く気付かなかった。呆気に取られる彼女達を無視してさっさと牢の扉を開ける雫。


「さあ、急げ。解っていると思うがこれは内密だ。城の者達の注意を引かぬよう、余計な事は喋らず口を閉じておけ。そして私から絶対に離れるな」


 今まで泰然自若としていた雫にしてはやや緊張を孕んだ声音。それでこれが結構な綱渡り行為であるという自覚が2人にも生じ、彼女らも自然と緊張した面持ちになって頷いた。何といっても自分達の命が掛かっているのだ。真剣にもなろうというもの。


 雫に促されて土牢を出る妙玖尼と紅牙。地下室の入り口には見張りと思われる兵士が2人いたが、どちらも卓に突っ伏すようにして眠っていた。近くには中身の零れた盃が転がっている。雫が無言で、指で何かを摘まんで振り掛けるような仕草を取った。どうやら眠り薬か何かを盛ったという事らしい。


 地下牢から出ると雫は周囲を確認する。当然だが城は夜でも不寝番の兵士が持ち回りで巡回している。彼女の事だから、恐らくそれら不寝番の巡回時間や進路などは把握しているのだろう。だが今は妙玖尼達が一緒だ。雫1人なら難なく潜り抜けられる状況でも、隠密に慣れていない二人が一緒では思わぬ事故もあり得る。慎重になるのも当然かもしれなかった。


 雫が無言で手招きして歩き出す。小走りに近い速度だ。妙玖尼達はおっかなびっくりそれに付いて進むだけだ。



 月明りが降り注ぐ夜の稲葉山城。所々に篝火が焚かれ、それが城の各所を妖しく照らし出している。妙玖尼も紅牙も大名家の居城をこれほど間近に見たのは初めてだ。いざ戦となれば要塞へと早変わりする城は、有事に備えて高く積み上げられた石垣がどこまでも続いているかのようで、その威容だけで圧倒される。


 城を周囲の山と隔てる城郭も、石垣の上に建造された城も、夜の闇でその全容が見えない事も相まって尚更雄大に見えた。


 そんな彼女らの感慨とは無関係に、雫は事務的に城内を目指す。地下牢は城の敷地内の外縁近くにあったので、城に入るにはどうしても敷地内を通過しなければならない。


 開けた場所を移動するのは例え夜間であっても見つかりやすくなる。3人は慎重に巡回の目を潜りながら敷地を抜けて、無事に城内に入る。しかしまだ安心は出来ない。城内にも当然不寝番の武士達が巡回しているからだ。


 城の中に入るなど勿論初めての経験である2人だが、当然物見遊山している余裕などない。雫の先導に従って怖々と進むだけだ。だが妙玖尼にも基本的な城の構造の知識くらいはある。今自分達が進んでいるのが明らかに本丸ではない事に気付いた。


 城の下層部の奥に向かって進んでいく一行。やがて着いた先は……



「さあ、ここだ。人払いは済ませてあるので、あまり大声でなければ喋っても構わんぞ」


「ここは……浴場・・?」


 脱衣所があり、その先の引き戸からは仄かな湯気の香りが漂う。寺や宿のものとは比較にならないくらい大きいが、ここはこの城の浴場に違いなかった。


「既に義龍様は中で・・お待ちだ。さっさと入れ」


「ちょ、ちょっとお待ちくださいまし。中でお待ちとは、つまり……義龍公は入浴されているという事ですか? そこに入るというのは、その……」


 雫が当然のように促してくるので妙玖尼は慌てた。雫が眉を上げる。


「何だ、今更。まさかその歳で生娘という事もあるまい? 安心しろ、流石に義龍様もそこまで節操無し・・・・ではない」


「……っ! き、生娘で何が悪いのですか。私は御仏に仕える身ですよ!?」


 妙玖尼は顔を朱に染める。厳密には僧侶でも男女問わず性経験のある者など大勢いるのが現実だ。だが彼女は幼い頃から退魔師として修業の日々を送り、世に出てからもひたすら人外の討伐に勤しんできた。そういう経験・・・・・・をする機会など無かったのだ。


「ぷ……くく! 初心な尼さんには男の裸は刺激が強いかね? 話ならアタシが聞いてくるから、何なら尼さんはここで待ってるかい?」


 一方で生娘とは対極的な位置にある紅牙は当然何ら構う事はない様子で、初心な妙玖尼を揶揄する。


「……っ。い、いえ、大丈夫です。私も行きます」


 紅牙だけに任せると何か余計な事を口走ったり、変な事をして義龍の機嫌を損ねないとも限らない。であればやはり自分も行くしかない。そもそも縛り首と引き換えなのだ。選択の余地は無い。


(殿方の裸を見ることくらい、縛り首に比べたらどうという事はありません。寺で修行中は兄弟子達の裸体だって見た事はあるのですし)


 大丈夫だと自分に言い聞かせて妙玖尼は決心した。それを見て取った雫が微妙に口の端を吊り上げる。


「ふ……面白い連中だ。では早く入れ。私はここで誰か近寄る者がいないか見張っている。中には義龍様の他に近侍の小姓が二人いるが、そいつらは事情を知っているので気にするな」


 雫に促されて妙玖尼と紅牙は浴場の引き戸を開けて中に入った。すぐに雫が外から戸を閉める。浴場は人1人が入浴するにはかなり広く余裕のある造りになっていて、油で塗装された板張りの洗い場の中央に大きな浴槽があり、そこに張られた湯からは暖かそうな湯気が立ち昇っている。


「し、失礼致します……」


 妙玖尼が恐る恐る声を掛けると、その浴槽の両脇にひざまずいていた2人の若い侍(雫の言っていた小姓か)が、佩いている刀の柄に手を掛ける。



「いい、が呼んだ例の連中だ」



「……!」


 浴槽の湯気の向こうから男の声が響くと、小姓たちが刀の柄から手を離した。今の声が義龍か。妙玖尼は緊張した。


「そんな遠くに居たら湯気が邪魔でお互いに姿がよく見えんだろう。許すからもっと近くに来い。内密な話もあるからな」 


「ふん、流石は一国一城の主って訳かい。アタシの素性を知っていながら傍に寄らせるとは中々の胆力だね。気に入ったよ」


 紅牙が鼻を鳴らして堂々と浴槽の側まで歩み寄っていく。義龍の配下を強殺した張本人だというのに悪びれる様子もなく、彼女こそ相当の胆力だ。こうなっては自分だけ遠慮しているのも馬鹿らしいので、妙玖尼も覚悟を決める。



 近くまで行くと湯気が割れて、その向こう側の様子がはっきりと見えた。浴槽の縁に寄り掛かるようにして両肘を乗せた姿勢で湯に浸かっている1人の男の姿があった。


 湯に浸かっているので当然だが裸体であり、まず目に付いたのはその鍛え抜かれ引き締まった見事な体躯だ。湯の中で胡座をかいて座っていると思われるので正確には分からないが、体格がよく上背もそれなりにあるようだ。恐らく女としては長身の紅牙よりも一回り以上大きい。


 そしてその面貌。客観的に見てかなり整っている部類の容貌であろう。実年齢は恐らく妙玖尼達より若干上くらいのはずで、その若さに見合う精悍さを兼ね備えている。しかしそれよりも妙玖尼の目を引いたのは、その研ぎ澄まされた鷹のような鋭い眼であった。その眼が若干興味深そうに細められる。


「ほぅ……雫から話は聞いていたが、2人とも中々の美女だな。その成りで強力な妖怪や鬼も退治したらしいな。気に入ったぞ。まあ適当に座れ」


 その男……美濃国主、斎藤義龍が手を振って促したので2人はその場に腰を下ろす。と言っても紅牙は無造作に胡座、妙玖尼は嫋やかに正座と違いはあったが。

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