番付表

増田朋美

番付表

その日も、秋になったというのに昼間は暑くて、朝と晩は寒いという気候が続いていた。全く、今年も少しで終わるというのに、こんな暑い日ではどうなってしまうのだろうと不安になってしまう人が多いような気がした。そんな中でも、いろんな理由があって、普通の生活、つまり、どこかへ勤めて家族を持ち、次の世代を作るということができない人が居る。そういう人たちは、家でなにか手伝ったり、時には、誰かの家を訪問するような形で、労働の代わりにしたり、中には、芸術的な事をやるとか、運動をして、体を鍛えて生きるという選択肢をする人もあるだろう。人生と言うのは本当に人それぞれだ。それに対して、甲乙つけるということは、本当はしてはいけないことでもあるのだが、、、。

「はい、水穂さん、ご飯を食べましょうね。食べないと力がつかなくなるわよ。それは誰でもやらなくちゃいけないことよ。今日もたくさん食べて。」

須藤有希は、眠っていた水穂さんを揺すって起こし、サイドテーブルにおかゆのたくさん入った器を置いた。

「こんなにたくさんは食べられませんよ。」

水穂さんはそう言うが、

「そんな事、言わないの。大丈夫よ。三分粥だから、食べても、体には負担はかからないわよ。さあ、たくさん食べてね。」

有希は、にこやかに言って、水穂さんにお匙を渡した。水穂さんは、よいしょと布団の上に起きた。少し咳をしたが、有希は、お匙を差し出す。水穂さんは、ハイと言って、お匙を受け取り、おかゆを口にしてくれたのであるが、二口ほど食べて、もう咳き込んでしまうのだった。

「ほら、だめじゃない、ちゃんと食べなくちゃ。いくら食べたくないと思っても、食事はちゃんとしないとだめじゃないの。」

そういう有希に、水穂さんは咳き込みながら、ハイといった。そして、再度食べ物を口にしようとするが、咳き込んでしまうのであった。

「一体どういうことなのかしらね。あたし、材料よく考えたし、当たる食品である、肉も魚も一切使ってないわよ。それなのに食べないってことは

、なにかわけがあるのかしら。飲み込むことができないのかな。それとも、他の事で?」

有希が考えながらそうつぶやくと、水穂さんがまた咳き込んで、とうとう口元に赤い液体が漏れてきてしまった。有希は急いでそれをタオルで拭き取った。それと同時に、

「ただいまあ。今日は二人お客を連れてきたよ。」

と、言いながら、杉ちゃんが製鉄所に戻ってきた。製鉄所といっても、居場所のない人に勉強や仕事をするための部屋を提供している施設である。中には水穂さんのように、部屋を間借りしている人もいる。杉ちゃんは、和裁をするにはちょうどよい場所だと言って、時々製鉄所に長居をして、着物を縫うことがある。それは和裁をするだけではなく、水穂さんの世話をするのも兼ねている。昔は家政婦さんを製鉄所で雇っていたが、いくら募集をしても、殆どの女性が水穂さんに音を上げてやめてしまうのであった。なので、今は杉ちゃんや有希が調子がいいときに来訪するしかなかった。

「お客が二人って誰かしら?」

有希は呟いた。

「こ、こ、こ、こん、にちは。」

こういう不自由な言い方をしているのは、紛れもなく有森五郎さんであった。彼は、座布団を縫う職人だった。

「お、お、おじゃま、します。」

五郎さんは、不自由な言い方で製鉄所の中に入ってきた。吃音症さえなかったら、俳優にでもなれるんじゃないかと思われるほど端正な顔立ちをしている五郎さんに、有希はなんとなくだけど、ある種の感情を持っていた。

「いやあ、偶然、バス停であったんだよ。そして、こちらのあんこさんも一緒だった。五郎さんから聞いたんだが、女相撲で横綱を目指してるんだって。」

杉ちゃんが、車椅子を押してもらいながら、入ってきた。車椅子を押しているのは、紛れもなく女性だったが、なんだか潰れたバスケットボールぐらいの大きな顔の女性で、体格も、もしかしたら水穂さんを片手で持ち上げることができるんじゃないかと思われるほどの大きな体格の女性だった。正しくあんこという体格がピッタリの女性である。

「えーとお名前は。」

杉ちゃんはいうと、

「榊原市子です。」

と、彼女は言った。

「すごい名前だな。こいつはな、女相撲で横綱目指しているんだって。正しく、市子という名前にふさわしい。」

杉ちゃんが彼女を紹介した。有希は、その女性を見た。確かに、大きな体をしていて、相撲取りという職業にふさわしい女性だった。

「すぎちゃ、ん、お、ん、なず、も、うと、じょ、し、すも、うは、ちが、いま、す、よ。」

五郎さんが急いで訂正した。確かに、昔の興行で行われていた女相撲と、今のスポーツである女子相撲はちょっとルールが違うということはよく知られていた。例えば現在の女子相撲では、髪を引っ張るとか、胸を突っ張りで叩く事は禁止されている。でも、五郎さんの発音はとても悪く、杉ちゃんにはそれが聞き取れなかった。

「まあ、どうでもいいや。やることは、同じなんだから。どっちも、太った女が相撲取り合う競技だ。それにふさわしい体型じゃないか。ぜひ、横綱目指せるといいね。」

杉ちゃんは、にこやかに言った。有希はちょっとおもしろくない様な顔をする。

「あなた、四股名は?」

有希は、彼女、榊原市子に言った。

「市野山です。市子の市に野山と書いて市野山。」

市子さんが答えると、

「番付は?」

有希はつっけんどんに言った。

「はい。まだ平幕で、前頭です。でも、いつかは、本気で横綱を目指したいと思っています。」

と、彼女は言った。

「そう。大体の相撲取りは、前頭でおしまいよ。横綱なんて、ほんの一握りしかなれないんだから。」

有希は彼女に言ったが、五郎さんが、

「そ、んな、こ、と、いわな、いで。これ、で、も、い、ちこ、さ、んは、にゅ、うもん、して、いち、ね、んで、しん、にゅう、まく、を、」

という。五郎さんは一生懸命口を動かして、喋ろうとしているのだが、その発音は変なところを強く読んだり、変なところで言葉を切ってしまうので、有希にも杉ちゃんにもうまく聞き取れなかった。水穂さんが、

「つまり、彼女は、一年で新入幕を果たしたというわけですね。それは確かに、スピード出世ですね。そうなれば、たしかに横綱になれるかもしれませんね。」

と言ってくれたのでやっと杉ちゃんも有希も理解できた。

「そうですか。まあ、それまでの強さを維持していくのが大変よ。大体の相撲取りは、怪我したりなにかしたりして、短命で引退していくじゃないの。それに、現役中に亡くなった力士だって居るでしょうが。」

有希は、嫌な顔をしてそういうのであるが、

「確かに玉の海もそうだったな。でも、綱取りに挑戦するのは悪いことではないよ。それに強くなりたいって思わなければ相撲はできないでしょうしね。」

と、杉ちゃんは言った。

「まあいいじゃないか。それで、相撲取りが何をしにここへ来たんだよ。」

「え、え。もず、ほ、さん、に、こ、ういう、ひ、とがき、てくれ、れば、げ、んきに、な、て、く、れると、お、もい、まし、て。」

「つまり慰問か。」

五郎さんの説明を、杉ちゃんが通訳した。

「まあ確かに、スポーツ選手が、病院に来たりすることはよくある話だけどさ。相撲取りがここへ来たってことは、珍しいな。」

「え、え。だか、ら、も、ずほ、さんに。」

五郎さんはなんとか通じてくれたようで嬉しそうな顔をした。

「もずほさんじゃなくて、水穂さんだ。気持ちはよく分かるけどさ。水穂さんご覧の通り、疲れちまっているみたいで、大変だったんだよ。」

と、杉ちゃんが急いでそう言うと、

「そんなに、お悪いのですか?」

と、榊原市子さんが言った。

「ごめんなさい。昔ほど怖い病気ではないって、本で調べてみたから、もっと、気軽に来ても良かったのかと思って五郎さんの話に応じたんですけど、、、。」

「まあねえ。文献ではそうかも知れないけどね。」

杉ちゃんはでかい声で言った。それと同時に、水穂さんがまた咳をした。有希が急いでちり紙を渡すと、水穂さんはそれで口元を拭いた。それに、朱肉のようないろの液体が、見て取れた。

「びっくりしました。昔の映画とかでしか、そういう人を見たことなかったから、本当にそうだったなんて、気が付きませんでした。ごめんなさい。あたしの事は気にしないで、横になってください。」

市子さんは、そういった。勝負師とか、アスリートにはふさわしくないセリフだった。有希がこれに便乗して、横になりましょうと言って、水穂さんを布団に寝かせて、掛ふとんをかけてくれた。

「具合悪いようでしたら、言ってくださいね。私、すぐに帰りますから。」

「もう帰ってくれますか。水穂さんは、容態が良くないので、すぐにお帰りください。」

有希は嫌味っぽく言った。

「ま、だ、ざ、ぶと、ん。」

五郎さんがそういう。

「ああ、そういえば、座布団仕立ててもらったんだよね。納品がまだだったな。」

杉ちゃんがすぐいった。五郎さんが、はいと言って、風呂敷を開けて、座布団を取り出した。

「ひ、ひ、ひ、ひと、つ、せ、ん、えん、です。」

それが1つ千円と言っているのだと理解するのに、杉ちゃんも有希も数秒かかった。水穂さんが

「五千円でよろしいのですね。」

というと、

「じゃあ、えーとこの女性の顔が付いているのが五千円だったっけ?」

と杉ちゃんが、急いで財布から五千円札を取り出した。

「は、い。りょ、う、しゅ、しゅ、うしょ、を、かき、ま、しょう、か?」

五郎さんがそう言うと、杉ちゃんはじゃあ頼むと言った。五郎さんは、すぐに丁寧な字で五千円と金額を書き、内訳として、座布団五枚と書いた。こういうふうに話し言葉もちゃんと話せたら、文句は無いのだが、五郎さんはそういう事はできなかった。

「はい、たしかに受け取りました。座布団ありがとうね。」

杉ちゃんがそう言うと、

「い、い、い、い、え。ど、ど、どう、どう、いたし、まして。」

そういう五郎さんを有希は、不自由な感じではあるが、頑張っているのは五郎さんの方だといいたかった。逸ノ城みたいな女性よりも、五郎さんのほうが、一生懸命座布団を縫っているのではないか。それなのに、横綱目指して頑張っている女性ばかりが激励されて、五郎さんが何も言われないのはおかしい気がする。

「ま、た、な、なに、なにか、あ、り、ま、したら、お、お、おも、うし、つけ、く、ださい。」

五郎さんは一生懸命言っている。

「じゃ、じゃ、じゃ、じゃあ、こ、の、ごせ、んえ、んは、い、い、いた、いた、だい、て、いき、ま、す。」

五千円をお財布にしまった五郎さんを眺めながら、

「樋口一葉さんか。彼女と同じ病気の人が目の前に居る時代はとうの昔に終わってしまったと思っていましたが、そうでも無いんですね。ごめんなさい、水穂さん。あたし、軽い気持ちで来ちゃったけど、なんだか申し訳ないことをしましたね。」

と、市子さんはいった。

「いやあ、いいんだよ。一般的に生きていればそういうもんだ。だからお前さんの言うことは間違いじゃない。もう若いヤツには、とうの昔に過去のものになってるよ。だからそれでいいの。」

杉ちゃんがそう言うが、有希は、彼女を許すという気持ちにはなれなかった。そういうふうに水穂さんのことを、軽い気持ちで見てしまうような人は許せなかったし、それを堂々と連れてくる五郎さんも納得できなかった。

「本当にごめんなさい。水穂さん。なんだか私が逆に水穂さんに励ましてもらったみたいですね。だって、そこに置いてあるピアノの楽譜、とても私には解読できない程、難しい作曲家の作品でしょ。私、これからもがんばります。頑張って、横綱を目指して、番付をあげて行きたいと思います。本当に今日は申し訳なかったです。」

市子さんは、申し訳無さそうに言った。

「いいんですよ。僕も、あなたが来てくれて良かったです。若い人は元気でいいですね。いろんなことにチャレンジして、番付をあげてください。」

水穂さんがそういった。そういう事を、言えるのは水穂さんだけであった。

「じゃあ、もしかして、一期一会の出会いになってしまうかもしれないですけど、今度の番付表が出たら、私、水穂さんに送ります。水穂さんも、体調を良くして、元気になってくださいね。」

市子さんはにこやかに笑って、水穂さんに言った。

「つ、れ、て、きて、あげ、て、よかっ、たです。」

五郎さんが下手な発音で、そう言っている。有希は、そうする五郎さんもに対しても嫌な気持ちだった。なんで五郎さんは、こういう、容姿にはまるで才能がない相撲取りの女性を連れてくるのだろう。そんな事して、何になるのだろうか。例えば医療関係者を連れてくるのであれば、また話は変わるのかもしれないが、しかも、番付表が出たら、贈るなんて。

「じゃあ、私帰りますね。水穂さんもお体をしっかり治してください。きっと、昔のように難しいものではないと思いますから、頑張れば、なんとかなると思います。」

と、市子さんは、そういうのである。頑張ればなんとかなるか。それができれば苦労しないのだ。それができないから、みんなで看病してあげているんじゃないか。そうやって放置できないから、そうしてあげているのではないか。有希は市子さんを嫌な顔で見た。

「あ、り、が、とう、ござい、ました。」

五郎さんと一緒に帰っていく彼女を、有希は玄関先まで見送った。水穂さんは、布団に残ったが、また咳き込んでいる声がした。それに合わせて本当にお前さんと言う人は、という杉ちゃんの声も聞こえてくる。

「大変なですね。あたしも、なにか役に立つことをしたいんですけど、あたしは体が大きくて力が強い以外、何も役に立ちません。それに美人でもないし。それなら、相撲をするしか無いですよね。」

彼女は、靴を履きながらそういう事を言った。その言葉を聞いて有希は、なにか意外なセリフだと思った。そういう勝負師のような人は、自分に自信がありすぎるくらい自信がある人だから、結構自己顕示欲の強いはずなのに。

「なにかあったんでしょうか?」

有希は彼女に言った。

「何がですか?」

市子さんがそうきくと、

「だって、勝負師というか、相撲取りと言うんですか?そういうのにはなんか向かない発言ばっかりするんですもの。それに、五郎さんと一緒にここへ来てくれるなんて、なんか不思議ですよ。なぜ、あなたは今日ここに来たんです?なんか自分が励まされているっていってたけど、それは、本当のことだったのでは?」

有希は、思っている疑問をいってみた。

「いえ、そんな事、私がただ感じただけのことです。それ以外何もありません。それだけのことです。」

と、市子さんはそういうのであるけれど、

「そうかしら?なにかわけがある以外、私は考えられないけどな。あなた、相撲を始めたきっかけも、なにかわけがあったのでは?なんだか、優しすぎるもの。そんなんで本当に横綱目指せるのかな?ごめんなさい、報道関係者見たいに好奇心でいっているんじゃないですよ。私も、ちょっと事情があって、たまに水穂さんのところに来て、お手伝いするくらいしかできないんですよ。それは、もうしょうがないことだからって、諦めているんですけど、私も、そういう人生は、本当に辛いんですよね。あなたも、そうなんじゃないですか?それを打ち消すために、相撲をしているのではないですか?」

有希は思い込んでいることを、正直に喋った。

「そうなんですね。みんななにか事情があるって、家の家族がいっていましたが、そういう人が本当に居るんですね。私、体が大きくて力持ちである以外取り柄が無いと思っていて、つらい気持ちをしているのは私だけだと思っていたんですけど、そうでも無いのかな。学生のときにいじめがあって、不登校になってしまってから、相撲をはじめたんですよ。それからずっと私だけが、辛い思いをして生きているのか、でもそれを誰のせいにもできないと思って、誰にも言えなかったんですけど、、、。だから、五郎さんが、ここへ来ないかっていってくれたんですよ。私、半信半疑でしたけど、水穂さんの様な人が居るってことに驚きました。だから、精一杯頑張ろうって、本気で思ったんです。嘘じゃありません。それは、本当のことです。」

有希の話に、市子さんも、そう話してくれた。そういう事は、お互い事情がある人同士でなければ、通じ合うことは無いのかもしれなかった。有希も、心の病気があって外へ働きに出ることは難しかった。そして、市子さんも、できることはそれしか無いのだろう。

「きっと私、恵まれているんですよ。だって、今日、こんな素敵な人にも会うことができたじゃないですか。それに、私の悩んでいることもこうして誰かに聞いてもらうことができた。それなのに、働けないっておかしいですよね。だけど、私は、そうするしかできることがありません。だから、私ができることを、一生懸命やろうって、そう思いました。本当に今日は水穂さんには申し訳ないことをしましたが、でも嬉しいことがあったって、伝えてくれませんか?」

市子さんに言われて、有希は市子さんに、頑張ってほしいなと思った。お互いできることは限られているけど、できることと言ったらそれを一生懸命やるしかできない立場なのだ。

「だ、だ、だ、だい、じょ、う、ぶ、です。ゆ、き、さ、んな、ら、わ、かっ、て、くれ、る、はずで、す。」

五郎さんが、いつもの通りうまく行かない発音でそういった。有希は、やっぱり五郎さんの言葉が聞き取りにくいものだと思ったが、このときは彼の発言を、理解することができた。有希は、首をぶるんと振って、にこやかな顔をして、市子さんに言った。このときは、流石に明るい感じで言わなければならないと思った。

「大丈夫です。ちゃんと伝えておきます。それに、あなたが番付表を送ってくださるの、あたし、楽しみに待ってます!」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

番付表 増田朋美 @masubuchi4996

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る