忘れえぬ人

あそうぎ零(阿僧祇 零)

忘れえぬ人

 薄曇りの空から柔らかい春の日差しが降り注ぎ、心地よい風が吹き渡っていく。

 私は、芝生しばふ広場のはしにあるベンチに座っている。

 

 今日は、子供の頃よく遊んだこの「くぬぎの森公園」を、半世紀ぶりに訪れた。少年時代に出会ったある人の記憶が、急によみがえったからだ。


 私は、バッグから一冊の古ぼけた文庫本を取り出し、それを読んだり、広場で遊ぶ人々の様子ようすをぼんやりと眺めたりしていた。


 そのうちに、遠くに立っている一人の人が、なぜか気になった。顔はまだ判別できない。こちらに向かって歩いてくるようだ。

 その人の顔や服装は、徐々じょじょにハッキリしてきた。紺色こんいろのセーラー服。長い髪が春風はるかぜに揺れている。

 

 太陽を隠していた薄雲に隙間ができて、明るい春の光が降り注いだ。

 陽光ようこうの中で、その人は私に向かって微笑ほほえんでいる。

優子ゆうこさんに実によく似ている。でも……>

 私の頭は、過去と現在が合わせ鏡のように行き来して混乱した。


 私の前まで来た彼女の姿は、半世紀前に初めて彼女に会った時と、寸分たがわなかった。


義男よしお君?」

 初めに言葉をかけたのは、彼女だった。

「はい、義男です。あなたは優子さんのお孫さん?」

「ふざけないでよ! 優子よ。忘れちゃった?」

「え!」

 優子さんは、私の隣に座った。



 内気うちきな少年だった私は本が好きで、よく櫟の森公園のベンチで読書した。


 中学二年生の晩秋。

 穏やかに晴れ渡り、陽のぬくもりが感じられた。

 私は芝生広場のベンチに座り、国木田独歩くにきだどっぽの小説を集めた文庫本『武蔵野むさしの』を読んでいた。

 気が付くと、すぐそばに紺色のセーラー服を着た女性が立っている。

「そこ、座っていい?」

 ベンチを指差して言った。

「は、はい」

 私は、おずおずと答えた。

「君、独歩を読んでるの?」

「はい」

「独歩が好きなんだ」

「国語の先生が、文豪の短編を集めた本を僕にくれたんです。その中で、独歩の『忘れえぬ人々』が一番気に入ったので、独歩のほかの作品も読んでみようと――」

「そうだったの。私も独歩が好きだから、君が読んでる本のタイトルが目に入って、思わず話しかけちゃった。私、この近くに住んでいる丸山まるやま優子。君は?」

北川きたがわ義男です。けやき中学の二年で、僕の家もこの近くです」

「私は私立武蔵山むさしやま女子高の二年生。中二で独歩を読むなんて偉い。『忘れえぬ人々』もいいね。ちょっと、その本貸してくれる?」

 私は、優子さんに本を渡した。


「どこだったっけなぁ……。あ、ここ。『皆なれこの生を天の一地方の一かくけて悠々たる行路を辿たどり、相携えて無窮むきゅうの天に帰る者ではないか、というような感が心の底から起って来て我知らず涙がほおをつたうことがある。その時は……ただ誰もれも懐かしくって、忍ばれてくる』、いいよね」

「ちょっと難しいです。僕は、大津おおつが『忘れえぬ人々』の最後に書き加えたのが、秋山あきやまでなく亀屋かめやの主人だったのが面白かった」

「ねえ、義男君。『武蔵野』を読んでいるんなら、そこの雑木林ぞうきばやしを散歩しない?」

「はい」


 公園の一角に、クヌギ、シイ、コナラなどの雑木林があり、武蔵野の面影おもかげを残していた。私達は、独歩の話をしながら散策した。

 午後の斜めの光が、色付いた樹々きぎの美しさを、いっそう際立たせていた。私は話しながら、それとなく優子さんを見上げた。その横顔はとても美しかった。


 やがて風が出てきた。

 急に強い風が吹き、樹々の葉が吹雪ふぶきのように、私達に降り注いだ。

 優子さんの長い黒髪が私の方になびいて、何か甘い香りがしてきた。私は体のしんしびれるような感覚に襲われた。

 優子さんは、私から『武蔵野』を受け取ると、朗読した。

「天高く気澄む。夕暮に独りに立てば、天外の近く、国境をめぐる地平線上に黒し。星光一点、暮色やうやいたり、林影漸く遠し――」


 日が傾いて、気温が下がってきた。

「寒くなってきたから、帰りましょう。今日は楽しかったわ」

「僕もです」

「また、この公園で会うかもしれないね」


 そののちも時々、公園で優子さんと会う機会があった。

 ある日、私は勇気をふるい起こして、優子さんに一つのお願いをした。

「僕に英語を教えてくれませんか? 僕、英語が苦手で、先週は赤点あかてん取りました」

「私に家庭教師なんてできるかな」

「できます。武蔵山女子高は進学校ですから。月謝は払います。まだ親に言ってませんけど」

「私、学校の勉強あまりしてないけど、英語ならできるかも。親とアメリカに住んだことがあるから」

「すごい!」

「引き受けるよ。ご両親のお許しが出たら、行ってあげる」


 両親は賛成してくれた。

 優子さんは翌週から週1回、英語を教えにきた。教え方は上手じょうずで、英語に対する私の苦手にがて意識は薄れていった。

 優子さんは大概たいがい、トレーナーとジーンズというカジュアルな服装だった。私は優子さんに「大人の女」が持つ何かを感じて、ドギマギすることもあった。

 

 ある時、中央線M駅前にある独歩の詩碑しひについて、優子さんが話してくれた。詩碑には、独歩の詩の一節「山林に自由存す」がきざまれている。

「私の勝手なイメージだけど、人が死んだ後、そのたましいは、山や林を自由に行き来するんだと思う」


 しかし、優子さんとの楽しい関係は長続きしなかった。

 優子さんは、父親の転勤に伴って関西に引っ越し、系列校に編入することになった。


 最後の個人授業が終わる時。

「高校受験、頑張ってね。私も大学受験頑張るから」

 その日、私は無口だった。私の心を察するかのように、優子さんは優しくささやいた。

「きっと、また会えるよ。最初に出会った、あのベンチで会いましょうね」

 優子さんは私の両肩に手を載せ、そっと私のひたいした。


 中学三年になると高校受験で忙しく、優子さんの記憶は薄れていった。しかし、優子さんとの思い出は私の中で、小粒の真珠のように穏やかな光を放ち続けていた。


  *


 私の隣に座った優子さんは、半世紀前とまったく変わりなかった。

「『武蔵野』を読んでるのね?」

 優子さんは、私が手にしている古ぼけた文庫本に視線を落とした。あの時の本だ。

「はい」

 私は、さっきから頭の中でふくらみ続けている疑問を、抑えられなくなった。

「優子さんは……、昔のまま、少しも変わっていませんね」

「あら、そう?」

 軽く受け流された。

「義男君、雑木林に行ってみよう。新緑が綺麗きれいだよ」


 私たちは、雑木林の中をゆっくりと歩いた。時折ときおり、薄雲の間から陽光が降り注ぐと、新緑は宝石のようにきらめいた。

 優子さんの若さと美しさは、半世紀前と何ら変わらなかった。つややかな黒髪が、春光を受けて輝いている。

「独歩は『武蔵野』で、春の雑木林についてあまり語っていない。その本、貸してくれる?」

 私は、古本を優子さんに渡した。

「『春はしたたるばかりの新緑ずる』とあるけど、『林に座って居て日の光のもっとも美しさを感ずるのは、春の末より夏の初であるが、それは今ここでは書くべきでない』と、そっけないね」

「そうですね。その本、家の本棚の奥から引っ張り出して、電車の中でもう一度読み直しました」

「え? 義男君の家、この近くじゃなかった?」

「今は墨田すみだ区に住んでいます。優子さんは?」

「今も、公園の南門を出てすぐだよ」

「優子さんは覚えてます? 家庭教師の最後の日、僕の額にキスしてくれたこと。中学生だった僕には、ドキドキものでした」

「そんなことも、あったねー」


 優子さんともっと話がしたかった。

「せっかく会ったんですから、お茶でも飲みませんか?」

「ごめんね。これから受験勉強しなければならないの。そろそろ帰らなくちゃ」

<何かの国家試験でも受けるのかな?>

 私たちは、握手して別れた。私は公園の北口に、優子さんは南口に向かった。


 北口を出てすぐに、私はきびすめぐらして再び公園に入った。

<優子さんの家を訪ねて、連絡先を教えてもらおう>

 別れぎわに、聞きそびれていたのだ。

 公園内を見渡したが、優子さんの姿はなかった。南口から優子さんの家までは近いはずだ。「丸山」という門札を探した。


 その家はすぐ見つかった。チャイムを鳴らすと、90歳くらいの老婆が玄関口に現れた。

「私、北川義男と申します。中学の時、優子さんに家庭教師をしてもらった者です」

 老婆は少し驚いたようだ。

「失礼ですが、優子さんのお母様ですか?」

「そうです」

「優子さんは家に戻られていますか? さっき公園で偶然にお会いしました」

 老母の顔に困惑の表情が浮かんだ。

「立ち話もなんですから、よろしければお入りください」

 老母は私を、応接間のソファに導いた。

「お茶、お持ちしますね」

「どうぞ、お構いなく」

 私は部屋を見回した。

 壁にはがくに入った写真が一枚、掲げられていた。大阪万博でのスナップ写真だ。「太陽の塔」の前で、優子さんと両親が微笑んでいる。


「お待たせしました」

 老母が、お茶と茶菓子を持って戻ってきた。

「お手数をお掛けします」

「あの写真、ご覧になりましたか? 真ん中が優子です」

「今日会った人と、瓜二うりふたつです」

「そうですか……」

 しばらく沈黙してから、老母が口を開いた。

「実は、優子は高校三年生の時、交通事故で亡くなったんです」

「え!」

「ひき逃げでした。犯人は結局分からず仕舞じまいで……」

 老母の目に、うっすらと涙が浮かんだ。

「そうでしたか。お気の毒なことでしたね」

 私はこれ以上、公園で会った「優子さん」のことは話すまいと思った。

「あの、お線香をあげさせていただけますか?」

「もちろんです」


 老母は和室に置かれた仏壇の扉を開き、蝋燭ろうそくに火をともした。

 私は仏壇の前に正座した。仏壇には、優子さんと、父親とおぼしい男性の写真がそなえられていた。


 私はふと思い立って、かたわらの老母に尋ねた。

「あの、もし差しつかえなければ、思い出の品を、供えさせていただけませんか?」

 私はバッグから文庫本『武蔵野』を取り出して、老母に見せた。

「昔、優子さんと読んだり朗読したりした本です」

「もちろんです。さぞかし優子も喜ぶでしょう」

 私は仏壇に本を供えて合掌がっしょうした。そして囁いた。

「また、あのベンチで会おうね」

 写真の中の優子さんが、私を見て優しく微笑んだ。

《完》




 

 





 

 


 


 

 

 


 

 

 

 

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