不埒な季節

押田桧凪

第1話

「キスしやすい身長差ってきっと俺たちのことだよな」と舐めるように俺のことを見つめながら、小さく呟いたほづみくんは体を小さくして肩で息をしていた。「なにそれ。俺が小さいこと馬鹿にしてんの?」と問うと、「さあねー」と答える。俺は体をすり寄せながら、服の上からでも十分に形の分かる鎖骨をゆっくりと指でなぞった。ほづみくんは猫なで声を上げる。


 だんだんとその小さな突起は固くなって、大きく膨らむ。ねじれるようにして、うねる。そして、異形となる。


 映画館の最前列に座った時のような、少し首が痛くなるくらいの位置にほづみくんの顔はあって、なんだか先輩としての威厳が失われてるというか、見下されている気分になって、でも大きなぱっちりとした目の奥に宿る弱さに惹かれた。それから、した後の「好き?」「好き」という喃語のような何の生産性もないやり取りだけで俺はいつも満足した。というのも、俺たちはカタツムリで好き嫌いに関係なく殖やせる最小単位だからだった。交わらずとも、生きていける俺たちみたいな種族は当然、地上で忌み嫌われている。勿論、それだけが理由ではなく「気持ち悪い」というその見た目で判断されていることの方が多いように思えた。


 普段は人間としての体を保ちながら、夜になるとカタツムリに姿を変える俺たちは粘液を共有しながら、ひとつになった。人間でいうところの「体液の交換セックス」が俺たちのそれで、炭酸カルシウムでできた管をお互いに刺しあう。快とも不快ともとれる刺激はつま先からふくらはぎにかけてを静かに侵食していくような温さを持っていて、その深みからは抜け出せない。それを、何度も繰り返す。


 人間から言わせれば俺たちは本来、両性具有だった。だけど見かけとしては、男だった。男性器が付いていた。それだけだった。愛着の上に成り立っている愛情だけで、生きていけるはずだった。だけど、やっぱりそれじゃ物足りなくて、カタツムリになったり、人間になったりしながら、精液を出し合って、シーツの上に白い跡をつくる。それはカタツムリが残した道のようで粘っこくて濁っている。


 勿論、カタツムリになった時のほづみくんも好きだった。透けて見える内臓がどくどくと動くのを見ながら、攻守交代で刺す。刺されると、寿命が縮むのを分かっていながらも、その快感に浸らずにいられないところは人間の抱える業の深さに似ている気がする。挿入する時が一番気持ちいいのだ。


 ほづみくんは左利きだった。だから、小さなテーブル席で隣に並んで食事する時は下で手をぎゅっと繋ぎながら、器用に箸を使うのが得意だったし、俺は別に自分が使う訳でもない対応ハサミを筆箱に入れて持ち歩いていた。頭のつむじも左巻きで、カタツムリになった時の殻も左巻きだった。それゆえ、左巻きのほづみくんと右巻きの俺は不完全な「交尾」しか出来なかった。遺伝的にほとんど現れることのなかった左巻きのほづみくんはいわゆる俺たちの中でマイノリティで、仮に交わったとしても、右巻きが生まれてくるのが順当だった。


「淘汰圧が高い環境下では形態や機能の均一化をもたらします。例えば、チーターは足の速い個体ばかりで噛み付き能力に特化している種は少ないのです」と、生物進化学の講義で先生が言っていたのを思い出す。あの時、すぐに俺の頭の中にはほづみくんの顔が浮かんで、「俺こんなだからさ、人間になれて良かったわ」と寂しそうな顔をしていたことがふいに脳裏をよぎった。だからだろうか。訳もなく守りたくなるようで、その自分よりも大きな彼の背中に体を預けたいと思うのは。だからだろうか。人間の体を借りて、絶頂に達したときの方がよっぽど幸せそうな顔をしているのは。「ほら、左巻きの殻は蛇とかに捕食されにくいって言うじゃん」と俺はフォローしたが、「でもそれが何?」と拗ねたような態度を取るところも俺は好きだった。


 俺がほづみくんと出会ったのはバイト先の先輩と飲みに行った帰りのことだった。えだ豆に付いた塩はなるべく振り落としたはずだったが、えずくような苦しさに襲われて、アルコールで喉を洗おうにも気分が一向に良くならなかったので俺は途中で退出した。アパートまであと少しの所で道端にへたり込むと、そこにほづみくんが立っていた。「だいじょぶっすかー?」と声を掛けてきたのは、いわゆる敬語の使えない、距離の詰め方難ありの男だった。話を聞くと、同じ大学に通う二個下の後輩とのことだった。


 この時、俺たちはもうお互いに何かを感じ取っていたのかもしれない。それが生物学的な「フェロモン」や「シグナル」と呼ばれる類のものなのかは分からなかったが、少なくとも人間が運命と名付ける現象に近い作用機序が起きたことは確かだった。


 ほづみくんと付き合い始めてからは、同棲を匂わせる歯ブラシを洗面所に並べるのと同じ感覚で、コンビニで買ったビニール傘が玄関先に増え続けるような、一回きりの関係を続けていた。要は、雨が降る周期と俺たちの性欲の波の干満が似ているからだ。だから、今日みたいに晴れた日はいつも家にいる生活を送っているせいか、大家からは、薄々俺がカタツムリであることを勘づかれているようだが、俺は大して気にしていなかった。ほづみくんがいる。それだけで良かった。


 二人でじめじめした雨の日を選んで外食に行くようになってからは、その流れで「雨宿りさせてもらっていい?」と言って俺の部屋に上がり込んで来るようになって、当然それは俺とするための口実だということは分かっていて、「は? またかよ」と嫌そうな顔をつくるまでが一セットだった。


 逆に、からっと乾いたような洗濯日和は何をするにも憂鬱で、「あー早く梅雨が来ればいいのにな」と思いながら俺はいつもほづみくんのことを考えていた。夕方になると、自称雨女のお天気キャスターが出演する番組をつけて、「雨こい、こい」と声に出して応援する。ほんの一滴で良かった。雨が降れば、体が軽くて、髪がいつもよりツヤツヤしている。爪の伸びが早い。快眠できる。そんな些細な変化でさえ、俺の本能を呼び覚まして、ほづみくんにふと会いたくなるのだ。


 遠くていい。だけど、傍にいないと塩をかけられた時のようにぐったりと体が思うように動かなくなって、そんな朦朧とした意識の中で、ほづみくんほづみくんほづみくんと俺は名前を呼び続ける。


 すると、くすくす笑うような声が聞こえてきた。すっかり真っ暗になった画面に油断していたのか、切っていたはずの携帯のディスプレイには「通話中」と表示されていることに俺は慌てて気づき、指を動かす。すぐさま、文字を打ち込んで薄い掛け布団の中で俺はじっと光を見つめた。


〈もしかして聞こえてた?〉


 ぽっと付いた既読に安心と興奮、それから遅れてやってくる恥ずかしさに身悶えするように体をくねくねさせていると、通知の振動音が聞こえた。


〈なんのこと?〉


 その文字からいたずらっぽく笑うほづみくんの顔が画面の向こうに浮かんでは、歯噛みするように俺はキーボードを叩く。


〈うそつけ〉


 そしたら、多分次は突拍子もないことを言い出すに決まってる。


〈ねえ、今から会いに行っていい?〉

〈なんで〉

〈ありがとう〉


 二つ返事を通り越して、俺の拒絶がなんの文脈も介さずに「会いたい」に変換されてしまったこと、そしてそれをほづみくんに読まれていることに気づいて体が熱くなる。


 なんだ、両想いか。

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