逃れられない一本道で

 心臓がドクドクと脈打つ音が、聴覚の九割を占有している。

 呼吸以外の動作に何のやる気も見出さない上半身は、全てが肺に成り代わってしまったかのようだ。

 頭が痛い。咳が出る。暗くて計器の確認はできないけれど、ここの空気に含まれているのはおそらく放射線だけじゃない。空気そのものが腐り果てたかのような、凄まじい毒気を孕んでいる。


 震える手で、レイトはヘルメットを装着した。フィルターも清浄機もついていないけれど、ないよりはマシだ。


「ニタ、ちゃん……大丈夫?」

「うん、もうちょっと、息を整えたら……レイちゃんこそ、声が掠れてるよ」


 喉に手を触れ、レイトは咳払いを数回繰り返す。あ、あ、あ、と小さく発声してみたが、改善したような感覚はなかった。


 本当は水を一気に流し込みたいところなのだが、それにはヘルメットをとらなければいけない。一瞬だけ明かりをつけて計器を確認してみると、数値は二桁に達しようとしていた。


 今すぐ上階に戻らなくては。だが、ネズミがいる限りそれは不可能だ。ただ時間を消費するのもまずい。呼吸が正常にできるようになったら、他の登り口を探さないと。それとも、この辺りの床に防護服が落ちている奇跡に賭けるか。


 様々な思考がレイトの脳内を猛スピードで駆け抜けていく。走馬灯でなくて良かったと、安心している場合ではない。


「ニタちゃん……ネズミの、音はなにか聞こえる? ヘルメットだと、やっぱり聞き取りづらくて」

「ええとね。私たちの居場所には気付いてないけど、この階にはまだいるみたいだよ。ゆっくり歩き回って、私たちを探してるのかな」

「そっか……とりあえず、さっきの誘導作戦は上手くいったみたいだね」


 とはいえ、時間がないことに変わりはない。ライトの範囲でちらりと確認しただけだが、この道の幅はそう広くないのだ。隅々まで嗅ぎまわっても、あの図体ならここまで到達するのに五分とかからないだろう。


 ようやく、レイトの呼吸が通常の範囲内に戻る。多少は頭もクリアになり、冷静な思考の道筋が見え始めた。


「……まず」自分で自分の言葉を確かめるように口に出す。「上の階に戻らないと、僕が危ない。これよりも先の部分で、上に向かう階段か、もしくは防護服、ゴーグル、ガスマスクのいずれかを見つけないといけない」

「ここ、どういう場所なのかな」ニタの小さな声が聞こえた。「道の横が穴になってるのに、地下で、部屋みたいなものもここしかなくて……」

「少なくとも、この道のどこかが直接外に繋がってるのは確かだと思うよ。前に見つけた箱はここから地上に繋がってたけど、周辺の数値はここより低かったから……ああ、そうか。そういえば」


 レイトはわずかに腰を浮かし、隠れていた瓦礫から首だけを出した。暗闇の中で左右に首を巡らせ、なにか見えるものがないかと目を凝らす。


 期待したものは簡単に見つかった。少し先に進んだ地面に、ぼんやりと正方形の光があったのだ。


「レイちゃん、なにか見えたの?」


 ニタが下からレイトの腕を引く。レイトはよく見えるように身を反らし、ニタに場所をゆずった。


「ほらあそこ、ニタちゃんが箱から見た部分だよ。地上から光が入ってるから、それだけは分かると思ったんだ」


 空間の広さも形状も分からないため、距離と方向を測る指標となるものが見つかったのは大きな進歩だった。光があるとそれだけで安心するが、しかし、もう一つ見えるであろうネズミの紅い瞳がどこにも見当たらない。


 上階に戻った? いや、そんなはずはないだろう。レイトの背中を嫌な汗が伝い落ちる。


「ニタちゃん、ネズミの現在地って分かる?」

「さっきから左の方でジャリジャリ聞こえるよ。距離はけっこう遠いかな」


 レイトは足元の瓦礫をどけて直接地面に触れる。ライトで照らしたときの黒い色といい感触といい、アスファルトでほぼ間違いないだろう。たとえ天井の破片が降り積もっていたって、ニタが口にしたような擬音が出る素材じゃない。


 ジャリ、と鳴るなら砂か小石か、あるいは文字通り砂利なのか。穴の先にそういう場所があったとして、ますますこの施設の使用用途が意味不明だ。せめてそれが分かっていたら、おおよその構造や存在する道具のアタリがつけられるのだが。


「うーん……とりあえず、あの穴から箱を通って上の階に戻れるか試してみよう。踏み台になるものを拾わなくちゃいけないかもだけど、存在すら危ぶまれるものをあてもなく探し続けるよりはいいと思うんだ」

「でもレイちゃん、箱の出口は塞がれてたよね? あの板、私たちの力で動かせるとは思えないんだけど……」

「だったら一旦地上に出て、もう一度階段から入り直すとかさ。毒に晒されるのは同じだけど、明確なゴールがあるから速くて確実……ん、でも高い丘があったんだっけあそこ」


 どうせ追われるリスクを孕むのなら、ネズミが穴の先にいるらしい今のうちに引き返すべきだろうか。それなら確実に上階へ戻れるが、距離や階段のことを考えると入った時点で逃れられる箱の方が……。


 メリットと、リスクと、可能性と、確実性と。あらゆる方向から多様な要素にこねくり回されたレイトの脳は、突然プツリと全ての思考を放棄した。


「……よし。行こう」

「箱のところ?」

「うん。いやもう何も分かんないけど、戻るよりは進んだ方がいいかなって。いや結局戻るんだけどさ」


 レイトはすくりと立ち上がり、もう一度周囲を確認した。目指す光は二十メートルほど前方にある。砂利を踏む音はなんとなく聞こえるが、相変わらずネズミの瞳は見つからない。


 背後でニタが立ち上がった気配を確認し、大きく息を吸って、吐く。指先でボタンの感触を確かめながら、そっと懐中電灯の光を灯す。


 まずは落ち着いて、通路の幅や陥没を確認するべく光を左右に振った。また足を踏み外したらたまったもんじゃない。


 改めて観察してみると、穴の直前に色の薄いタイルで直線が引かれているのが分かる。電気がついていても落ちる心配があったのか、あるいは他の危険があったためか。


 そのまま穴に沿って光をスライドさせると、ギリギリまで下に向けた光の円がふと真横の穴の中に何やら茶色いものを照らし出した。毛のかたまりだ。もぞもぞと動いている。


 ――全身に、一瞬で鳥肌が浮き上がったのを感じた。


 無意識で一歩後ずさったかかとが瓦礫の一部を踏む。パキ、とプラスチックの砕ける音が響いた。目の前のそれが何であるかは、わざわざ眼を見ずとも明らかだった。


 幸いにも、ネズミが今の音に気付いた素振りはない。このまま再び身を隠せば、やり過ごせるだろうか。いや、確認は済んだのだから電気を消し足音を殺して一気に進んでしまった方が得策か。


 立ちすくんだまま最善策を求め固まるレイトの耳に、


 カァン――


 甲高い金属音が届く。瓦礫を踏んだ際に跳ね上がった小石か何かが、あの前衛アートのようなオブジェにぶつかったのだろう。そう察した。


 砂利を鳴らす音が止まる。すでに光を外した暗闇から、紅い瞳が姿を現す。


 もう、考える時間も選択する余地も何もなかった。


 レイトはニタの背中を捕らえ、箱の方向へ力任せに押し出す。懐中電灯の光をネズミの眼に真っ向から当てると、ネズミは顔を背けて苦しむように身悶えした。その隙にレイトもニタを追って走る。


 足音を気にしている余裕はない。松明のように燃え続ける光ではないため、かく乱は一瞬だけだ。


「ニタちゃん、あれ遠くにいるんじゃなかったの⁉」

「だって、音が遠かったから‼」


 光までの距離はそんなに長くないが、散らばった破片に足をとられて上手く走れない。目くらましから復活したネズミが、一足で通路の上に飛び乗った気配がした。


「レイちゃん、穴が高すぎるよ!」

「僕が持ち上げれば登れる? それも無理そう?」

「ええと、手も、引っ掛けられそうなところがない!」


 光の下に立ったニタが、箱を見上げて叫ぶ。天井から少し飛び出した箱の下端は、床面からおおよそ二メートル半といったところだろうか。


 誤算だった。上階の天井より数十センチは高い。仮にニタを持ち上げられても、今度はレイトが登れない。


「う、それじゃあ仕方ない、ニタちゃん、もっと奥まで走って!」

「うん、分かっ……ああレイちゃん、こっちも!」

「え?」

「柵が!」


 箱の下を走り抜け、レイトもニタの隣へ並ぶ。根元を床面に埋め込まれた鉄柵が、先への道を阻んでいた。横から回り込めそうな隙間はない。高さはレイトの首あたりで、超えようと思えば超えられそうだがヒラリとはいかない。


 登っている間に後ろから襲われてしまえばそこまでだ。レイトは柵に手をかけて後ろを振り返る。

 紅い瞳と大きな茶色い顔が、もうすぐそこまで迫ってきていた。


 二人との距離はおよそ三メートル。地上からの薄明かりでも地下暮らしには眩しいらしく、ネズミは目を細めて立ち止まっている。光の向こう側でしきりに首を傾げたり鼻をひくつかせたりして、二人の動向を探っているようだ。


 ネズミが一歩、前に出る。レイトは背中を柵につけた。


 もう一歩。ネズミの鼻先が明るくなる。地上から風が吹き込んでいるのか、今までで最上級に濃い獣の臭いがレイトの鼻をつく。


 さらに一歩。ネズミの頭頂部に光があたり、二人との距離が一メートル少しにまで縮まる。


 ここまで近づいて初めて、ネズミは襲撃対象の位置を正確に特定できたらしい。黒板を引っかくような鋭い雄たけびをあげ、前歯を剥き出して身体を持ち上げる。あれほど遠く感じた箱の下端に、軽々と頭がついてしまいそうだった。


 金切声に耐えきれず、レイトはヘルメットの上から両手で耳を塞ぐ。当然ながら効果はない。ただでさえ毒気にやられて意識が朦朧としかけているのに、このままでは攻撃を受けるより先に失神してしまいそうだ。


 暗闇に目が慣れたのだろう、傍らに立つニタの姿が視界の端に映りこむ。おそらく恐怖に震えながら、しかしまっすぐにネズミを睨み返している。


 レイトは自由の利かない手を伸ばし、その身体に覆いかぶさって一緒にしゃがみ込んだ。自分がニタを守らなければいけない、それだけが理由の行動だった。


 硬くつぶった目を片方だけ開いて、肩越しにネズミの顔を仰ぎ見る。紅い瞳と視線が合う。


 振り下ろされる二本の前歯が、やけにスローモーションに迫ってきて。


 そして――


 次の瞬間、グァアン、と爆発にも似た轟音が響いた。

 ネズミがびくりと身をすくめ、攻撃を中止して箱の方向を見上げる。


 その顔面に、影が落ちた。


 直後、鋭角に折れ曲がった二枚の金属板と巨大な機械が箱の中から降ってくる。脳天に直撃したネズミが絶叫して倒れ、もはや何のものかも分からない破片が盛大に巻きあがる。ぼやけた白煙の中、長躯の人影が一つ、最後にトサリと落ちてきた。


 ほんの一秒にも満たない間、静寂が場を支配して。


 次いで、倒れていたネズミががむしゃらに身を起こして走り去っていく。


 ネズミのいた分だけ体積が空き、積み上がっていた金属がガラガラと音を立てて瓦解した。上に立っていた人影はバランスを崩し、大きく腕を一回転させて体勢を持ち直す。防護服を着ているせいで、顔はよく見えなかった。


「う、おぉっと……あっぶねぇ! ったくなんなんだよ、あのバケモノは……」


 レイトはまだ動けない。あまりにも突然すぎる出来事に、頭が追い付いていなかった。辛うじて、自分たちが九死に一生を得たということだけが実感として心臓を鼓動させている。


「なぁ、そこにいるのか? んー、光でトんでよく見えねぇな……一旦コレ外すか」


 二人の方を向いた人影が、防護服の頭部分に手をかけた。胴部分との接続が手荒に取り払われ、シールドのついた頭部がゆっくりと持ち上げられていく。


 金色の髪が、ほどけるように肩に落ちた。


 身体中の血が頭に集結し、肺が強く握りしめられたような感覚。声で予想はついているはずなのに、どうしてこんなにも期待してしまうのだろう。


 やがて誰よりも待ち望んでいたその素顔が顕わになったとき、レイトの視界がじんわりと歪む。ヘルメットをかぶっていて良かったと、浮かぶ涙を懸命にこらえながらそう思うのだった。

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