前夜
それからの二日間については、全員とにかく忙しかった、と言い切ってしまっても問題ないだろう。
携帯食料用に干した魚や野菜がほとんど乾いてしまうまでの間、三人はこの先必要と思われる道具や武器などを手に入れるために奔走していた。中には自力で調達できないものもあり、そういったものは廃墟の床扉を叩いて住民に協力を要請する。ニタとレイトが交渉している間、やはりハルキは遠巻きにその様子を睨んでいるだけだった。
意外だったのは、これまでレイトやハルキの視界に出てくることすらなかった住民たちが突然親しげになったことだ。突然異邦人がやって来て警戒するのは頷けるが、それが出ていくからといって笑顔で協力するということにはならないだろう。
「たぶん、私のせいだと思うの」
レイトがこの疑問を口にした時、そう答えたのはニタだった。
「街の中で『外に行きたい』なんて言ってるの、私だけだから。下手に動かれて犬や他の獣を街に呼び込んでしまうより、誰だか分からないけどとにかく旅人に連れて行ってもらった方がいいだろうって、そう考えたんじゃないかな」
多数の安全を守るために、ただ一人の異端を切り捨てること。自分たちと何一つ変わらない命を、『必要な犠牲』として扱うこと。まるで生贄にするかのごときその思想を、被害者であるはずの本人は何でもないかのように語っている。
ただ、この街は外敵に対する十分な防衛機構を持ち合わせておらず、襲ってくる外敵はともすれば街の全てを滅ぼしてしまう可能性すらあるわけで。
ならば、酷く残酷に思えるその発想も、真っ当な防衛本能によるものといえるのだろうか。正当化できる? まさか。
くだらない発想に至ってしまった自分へ、レイトは酷い嫌悪感を覚える。
モヤモヤと行き場のない感情を抱えたまま、気が付けば出発目前の夜になっていた。
ニタが眠ってしまったのを確認して、レイトは音がしないようにそっと地上へ出る。
無数の星々に取り巻かれ、夜天の君主が今日もしめやかに月華を咲かせていた。絢爛な都市の灯りはこの光彩を打ち消してしまうのだと、レイトが気付いたのはごく最近のことである。
灰色の空箱に囲まれた路地は、殺風景なくせに何かが息づいているようで。相変わらず距離感の曖昧な波の音が、路傍の雑草を揺らしながらたゆたっていた。
「うぅ、やっぱり夜は冷えるね。集めた発熱材、あれで足りるかなあ」
「……レイト。おまえ、明日出発なんだぞ。体力無いんだから、ニタみたいにさっさと寝とけよ」
にっこりと笑顔を浮かべ、レイトはハルキの隣で廃墟の壁に寄りかかった。タバコの火は暖房するに乏しいらしく、ときおりズズッと音を鳴らすハルキの鼻先はうっすらと朱に染まっている。
――やっぱり、ハルキには夜がよく似合うな。
月光に映える端麗な横顔を見上げ、レイトは胸中でそう呟いた。
「……ハルキ、今回は早かったね」
「何が」
「ニタちゃんに対して警戒をとくまで。僕の時は一年近くかかったのに……やっぱり、距離感のせい?」
「…………」
「いいよね、ああいうの。疑う余地が無いっていうかさ」
「勝手に結論づけてんじゃねぇよ」
「あはは、ごめんごめん」
レイトの小さな笑い声は、予想していたより何倍も長い距離を伝播する。ハルキが小さく舌打ちをして、白い煙を勢いよく空中に吐きだした。
「……人間ってのは、どこにあっても例外を排除するようにできてるらしいな。自分が知らないものに出会ったとき、理解を拒んで自分の中の『正解』を保とうとする行動らしいけど……自分から拡声器持って『私は馬鹿です』って喚き散らしてるようなもんだぜ? 笑えるよな」
「ニタちゃんのそれは、『一人だけ外に行きたいと思ってるから』だって本人に聞いたよ。でも、僕はそれだけじゃないと思ってる」
「犬のことか? 明らかに執着してるっつーか、やけに必死だなとは思ったけど」
「うん。僕もハルキもそうだったから何も思わなかったんだけど……冷静に考えたら、十四歳で一人暮らしって、どうあっても普通じゃないんだよね……」
「ああ……そうか。なら、やっぱりそういうことなんだろうな、アレは」
親を失った子供には、周囲から同情や憐憫が与えられるのが通常である。
レイトですら表向きはそうだったのに、それが排他の対象になる例外があるとすれば。
――その原因が、子供自身にあるときだ。
「……あのさ。ハルキ、僕たちがそれを察してるっていうのは――」
「隠しとくんだろ、んなこた分かってる。そもそも、絶望とか孤独とか、ただ言葉で表すのと実際に体験するのとでは全然違うもんだろうが。心配しなくても、そこらへんの判断は似たような経験をしたおまえの領分だ」
ハルキが指に挟んだタバコでレイトを指す。ありがとう、とレイトは深く頷いた。
「僕にニタちゃんの面倒を見るように言ったのも、もしかしてそれが理由?」
「そりゃそうだろ」ハルキがさも当然というように片眉を上げる。「都市じゃ俺の後ろに何人いたと思ってんだよ。今更一人が二人になったところで、守れなくなるなんてことがあってたまるか」
「ほんと、ハルキのその自信はブレないね……みんな、今頃どうしてるかな。一緒に行くって言ってくれたのに、ハルキが力ずくで宇宙船に押し込んじゃうから」
「あいつらはあの場所で生まれ育ったんだ。『上』を知らないって意味じゃ、降りてきた俺とも落とされたおまえとも在り方が根本から違うだろ。社会とやらを棄てるのは、多数決で勝利する権利を放棄するのは、自分自身でその全貌を体感してからでも遅くねぇよ」
そう言い切るハルキは、しかし言葉ほどに割り切った表情はしていない。おそらく自身のその判断に不安とも後悔ともつかぬものがあるのだろうと、レイトにも簡単に予想がついた。
これまで何年も守り続けてきた大切な人たちを、自分が既に敵と定めた集団の中に自分抜きで放り込む。それはあの社会にだっていくつもの要素や側面があるからで、自分が率いる立場だからといってその価値観を押し付けてはいけないと、属するかどうかを選ぶ権利を奪うことはできないと――そういうちゃんとした理由があっての行動なのは、レイトも理解しているのだが。
だからこそ、それが裏目に出てしまったときが恐ろしいのだ。自分自身が既に決別を選択しているからこそ、同じ苦しみを味わわせたくなかったからこそ、今まで彼らを守ってきたはずだったのに。
守る側、守られる側という立場こそ違えど、レイトだって同じように社会を見限った存在である。ハルキが抱えているであろうその矛盾した行動原理が生む葛藤は、まるで手に取るように伝わってきた。
「……大丈夫だよ」気休めにもならない言葉を言ってみる。「あの狭い宇宙船の中では、中枢部の住民から郊外の住民までほとんど差別化されてないって説明だったじゃない。僕たちみたいな経験をする方が珍しいんだからさ……他のたくさんの人たちと同じように、あそこの良い部分の恩恵を潤沢に受けてるよ、きっと」
「だと、いいんだがな」ハルキが顔を夜空に向け、大きく息を吸う。「まあ、あいつらが妙なレッテルに囚われない、目の前にあるものを『そういうもの』として受け取れる連中なのは確かだ。適応力だけは抜群だろ」
タバコを口に運ぼうとして、ハルキは小さく息を呑んだ。強く振った手から、二センチ程になったタバコが地面に落ちる。
「あっつ、いつの間に……あー、もったいねぇことしたな」
「いや、さすがにそこまで短くなってれば充分でしょ」
「そっちじゃねぇよ」
一応、形見みてぇなもんだし。
そう呟いて、ハルキはまだ細い煙をあげていたタバコを踵で踏み潰す。漂っていたタールの臭いが、潮の香りと混ざって消えていった。
「この風、あんまり浴びてると髪ごわっごわになるんだよな。明日、出発前にもう一回シャワー浴びとくか……」
「じゃあ僕も。森に入っちゃったら、いつ水が手に入るかも分からないし」
「言っとくけど地図書くのはおまえの役目だからな。もし迷って限界まで喉が渇いたら、責任としておまえの血を飲み干すから覚えとけよ」
「怖いよ⁉ あと血は余計に喉乾くからね⁉」
ハルキの軽快な笑い声が、階段を降りる足音と共に遠ざかっていく。
その声でニタが起きてしまわないかとひやひやしつつ、レイトは小走りでハルキの後を追った。
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