第九話 お箸持つ方の、汀

 テストが終わると、クラスの雰囲気はいっぺんに緊張感を失った。お皿にあけたプリンのように締りがない。誰の意識にも冬休みが漂っているせいか、あるいは汀が学校生活に慣れてきたせいなのかも知れなかった。


 汀にとって有野さんと水村さんとの関係は居心地がよかった。水村さんは真面目で責任感が強い。おっとりと優しい印象の有野さんは人気があるものの、あまり活発ではない。


 このクラスで一番人気があって活発なのは大野さん、岡田さんのグループだ。大野さんは背が低くて、目が大きく、ポニーテール。かわいい外見に似合わぬ大胆な物言いが魅力だ。きっと男の子たちにも人気がある。対して岡田さんはスタイルがよくて、女の子に人気があった。

 大野さんの周りにはいつも一生懸命彼女たちの歩幅に合わせている子達が居る。グループの外にも彼女達にあこがれている子が居て、その子達は別のグループとして集まっている。なんにしても大野さんたちが大きな渦の中心にいて、そこから少し距離を置いた生徒は二、三人の小さいまとまりをいくつか作っていた。向井さんだけはいつも一人で、たまに近くの子に声をかけられても、うなずくか、首を振るだけでほとんど声を聞いたことが無い。


 ところが今朝のことだ。汀が教室に入り、席までたどり着いて鞄を机の上に置き、手袋を外していると、向井さんがやってきて「本間さん、おはよう」と、声をかけてくれた。反射的に「おはよう」と返し、それでも急なことだったのですこし戸惑っていると、向井さんは気恥ずかしそうに席に戻って行った。有野さんみたいに、もっと嬉しそうにおはようを返したらよかった――汀は思った。

 試験が始まる少し前に汀が声をかけて以来、向井さんとはしゃべっていなかった。

しかしその後も、向井さんが汀に興味を持っているのではないかというような、不思議な視線を感じることが度々あった。もしかすると好意じゃない方の興味なのかな、なんて不安にも思っていたので、挨拶をしてもらえたことはとても嬉しかった。


 その日も給食の時間になるといつものように有野さんが机を後ろに向けて汀と向かい合い、早々と給食ナプキンを広げた。水村さんは少し離れているので、椅子だけをもって来てさっとナプキンを広げた。ノートの整理をしていた汀は出遅れた。二つの机に三人がナプキンを広げるとどうしても重なる部分が出る。真っ先に広げれば下に入るので汚れる範囲が少なくなるという、どうでもいい遊びだった。

 乗り遅れた汀が給食の準備をしていると、向井さんがやってきて汀に声をかける。

「あのね、本間さん……」向井さんは神経質に自分の人差し指を触っていた。「一緒にたべよ?」

「うん。一緒にたべよ」

 汀はこのときばかりと目いっぱいの笑顔を作った。向井さんははにかみながら頷いた。


 汀は薄い黄色地のナプキン、有野さんのは水色に桜の花びらを散らしたような柄。水村さんは京都を感じさせる緑で、ぼてっとした茶色い模様に素朴なおもむきがあった。意外と個性が出るもので、女の子はポップなものを選ぶ傾向がある。しかし向井さんの、紺色地に白くて大小さまざまな星がちりばめられたデザインは地味で、どちらかといえば男の子が選びそうなデザインだった。


「向井さんって、やっぱり星とか好きなんだよね?」

 汀は向井さんが星の絵を描いていたことを思い出して尋ねてみた。それでも向井さんは少し笑いながら首を振った。

 星が好きだなんて言うとまた高橋くんにからかわれると思っているのかもしれない。汀は、向井さんがはにかんだ笑顔を見せてくれるようになったことが嬉しかったのと、それにそんな向井さんがなんだかかわいかったので、もう少しからかってみたくなった。

「でも向井さん、この前も星の絵描いてたでしょ? 土星みたいなのとか」

「へえ、向井さん星好きなんだあ」

 有野さんもその話に乗ってくると、向井さんはむずがゆそうにして下を向いた。

「あのね、おにいちゃんなの……」向井さんが口を開く。「これ、おにいちゃんの」

 確かに男の子っぽいデザインなので本当なのかもしれない。向井さんは話しかければだいたい恥ずかしそうに反応した。有野さんも、それを楽しむように遠慮なく話しかけた。

「向井さんって、左利きなんだね」

 有野さんがそういうと、向井さんは「あっ!」っと言って左手に持っていた箸を右手に持ちかえた。

「えー両利きなの?」

「両利きなんだ」

「書くのはどっちだったっけ?」

「書くのもどっちでも出来るの?」

 三人にいっぺんに話しかけられた向井さんは、箸を右手に持って口を半開きのまま、首を振ったり、頷いたりした。

「いつも左手で書いてたよね。わたし、向井さん左利きなんだなってずっと思ってたもん」以前に前の席になったことがあるという水村さんが言う。

「……つも左手で……えっとね、いつも右で書いてると思う」

「じゃあ左でも書けるってこと?」今度は有野さんが尋ねる。「左利きの人って、はさみだけ右とか言う人いるよね」

「え、嘘だよ。ちらちら見てたけど、いつも左で書いてたと思うよ」汀が言う。

「……左でも……左でもかけるってこと。はさみだけ右とか……」

「えー。汀ちゃん、なんでそんなに向井さんをちらちら見てるの?」有野さんが冗談交じりに言う。「はっ、汀ちゃんってもしかして向井さんのこと……」

「向井さん、本当はどっちが得意なの?」水村さんは有野さんの冗談に取り合わず、向井さんに尋ねた。

「向井さん、本当は……。あ、わたしは本当は……ほんとは……」

 向井さん――。復唱していたはずみで自分の事を向井さんとさん付けしてしまったようだった。

 向井さんは返答がまとまらないときには、よく口の中で質問の内容を復唱した。いっぱいいっぱいになると、早く返答を返さなきゃという気持ちに急かされるように、うっかり口の中の復唱が声に出てしまうみたいなのだ。

 自分で自分を「向井さん」なんて言ってしまったことに落胆してしまったのか、向井さんはしゃべらなくなってしまった。彼女は人見知りが激しいようなのでもっと遠慮するべきだったかな、と汀もまた気を落とした。

「うーん……向井さん、食べてたのに話しかけちゃってごめんね」有野さんがいつもの柔らかい調子で言う。「わたしとか思い付きでしゃべってるだけだから無視していいよ。ほら、さおりちゃんみたいにさ」

「え、わたし無視して無いでしょ?」

 もしも汀が、話に付き合わなくてもいいよ、なんて言おうとすると嫌味っぽくなってしまったかも知れない。こういうのはやっぱり有野さんの才能なのかな、と汀は思った。

「だってさ、さおりちゃん一緒に話してるのに、いつもわたしより食べるの早いじゃん」

 有野さんは一緒に話しているつもりになっているみたいだが、だいたい話題を振っているのは有野さんなのだ。箸の進むスピードが違うのは当たり前だ。

「あのね……」向井さんが口を開く。「右でお箸って思っても、どっちが右か分からなかったの。だからどっちも使えるの」

 向井さんはそれだけ言うとまた面映おもはゆいといった様子で顔を伏せ、右に持った箸で給食の豆を器用につまみ上げ、口に運んだ。今回はうまく言えた、というような安堵した様子が伺えた。

「ああ、そういうことか」水村さんが言う。「お箸持つ方の手とか言われても、両利きだとどっちがお箸持つ方か分からなかったってことだ」

「そういえば言われたね、小さい頃」有野さんも納得する。「お箸が右とか、お椀が左とか。いちいち食べる時のポーズしないと分かんないんだよね。こうやって」

 向井さんはまだ緊張しているみたいでぎこちないが、きっと慣れれば普通に仲良くできる。汀はそう思った。

「わたし……」また向井さんが口を開く。「正面に誰かがいると、今でも分からなくなるの……。右と左……」

 有野さんはそれを聞いて笑ったが、汀にはそれが冗談なのか本気なのかよくわからなかった。仲良くできそうだが、やっぱり少し不思議な子だ。


 それからというもの、給食になれば向井さんは星柄のナプキンを持って汀の席までやってくるようになった。

 向井さんは相変わらず自分から話題を振ることはほとんどなかったし、しゃべろうとして話の整理がつけられなくなることもあったが、聞いている話はちゃんと理解しているようだった。さらには、成績も決して悪くは無さそうだということも分かった。

 実際に確認したわけではないが、すぐに試験の答案の返却が始まると給食の時間には解けなかった問題なんかが話題に上る。有野さんが、あの問題みんな出来た? なんて尋ねると、向井さんは照れくさそうにうなずく。とくに数学や英語なんかだと難しい問題でもちゃんと出来ているみたいだ。英語や数学に関して言えば有野さんが苦手としているようだった。

「トゥー・タイムズ・オールダー・ザンじゃなんでだめなの? 倍って言うか二倍って言うかくらいの違いでしょ」

 有野さんが不平をこぼすと、向井さんはその例えに感心したように顔を上げた。

「先生は、アズをちゃんと理解してるか見たかったんでしょ」水村さんは正解しているので有野さんの肩を持ってはくれない。

「語数を合わせるための高度なテクニックを評価してくれてもいいとおもうんだけどなあ」


 向井さんに何が苦手なのかと尋ねると国語だと答えた。向井さんとしばらく付き合っていると、やはり国語が――というよりも文脈を読むのが苦手なのだろうと思い当たることがあった。

 向井さんはいつもあまり身だしなみに気を払っていなかったのだが、いつも以上にに寝癖がひどかった時があり、汀は向井さんの髪をといてあげた。

「向井さん、寝癖くらい直してこなきゃだめだよ」

「直してもいいの?」

「身だしなみっていうのはマナーだよ。普段はおろそかにしてしまい勝ちだけどさ、誰かが、自分に会うために時間をかけて身奇麗みぎれいにしてきてくれたら嬉しいでしょ?」

「好きな人に会うときとか?」

「ふふっ。そうだね」

 好きな人だなんて、向井さんからは意外な単語だ。誰か想う人でも居るのだろうか。

「んー、だってね……」向井さんは葛藤を打ち明けるように話を続ける。「整髪料使ったらだめだって、先生言うでしょ」

 怠惰なだけなのかと思っていたのだが、向井さんは寝癖を直すことをよくないことだと考えているようだった。

「寝癖直すのに整髪料は要らないでしょ?」

 汀がそう言っても、向井さんは納得しないような顔をした。そういう意味じゃなくて……、と言葉を続けたそうに見えたが、自分の考えを説明することを諦めたようだった。


 向井さんは自分の考えを伝えることを諦める癖がある。彼女は結論を真っ先に口にするのだが、いつもその考えに至った過程をはぶいた。あまりしゃべるとまたとんちんかんことを言ってしまってからかわれるのではないかと恐れているのかもしれない。

 汀は寝癖を直してあげながら、向井さんが何を言いたかったのかを考えた。

 校則にはたしかに、整髪料を使ったらだめだと書いてある。まれにではあるが、先生も整髪料を使っている生徒に注意をすることがある。しかし、なぜ整髪料を使ってはいけないのかはどこにも書かれていなかった。

 身だしなみを整えることがだめなのか、目立つことをしてはだめなのか。きっと向井さんはこのあたりの判断がつかなかったのだ。目立つことをしてはいけないというだけの理由ならば、たしかに整髪料全般を禁止するのは無闇むやみだ。

 馬鹿げたことのように思えるが、たしかに校則は言葉足らずだ。何が整髪料なのか。オリーブオイルは整髪料だろうか、トリートメントならいいのか、蜂蜜、炭酸水、ミネラルウォーターはどうなのか――。整髪料の定義と理由は不文律で、常識だか読解力だかにゆだねられている。


 向井さんは数学や英語の授業では例の宇宙ノートのようなものを出して何かを書きなぐっている。ほとんど授業は聞いていないようだ。それでいて、少なくとも有野さんの間違える問題を理解出来ている。問題の国語はというと、板書はもちろん、先生が口頭で言ったことまでびっしりとノートに書きつけていた。国語なんて汀に言わせれば勉強しなくても点の取れる科目なのに、向井さんはそれを本当に苦手としているのだろう。


「あのね、本間さん。みんなで給食たべてて、たまに一人で食べたくなったらどうするの?」

 髪をといてもらいながら向井さんは汀に尋ねた。考え事をしていたら必要以上に長い時間といてしまっていたが、向井さんはじっとして案外心地よさそうにしているようにも思えた。

「えー、そんな重たく考えなくても、来たい時だけくればいいよ」

「ほんと? 嫌われない? 給食を一緒に食べるのが友達です、とか言わない?」

「そんなこと無いよ。元気ないのかなって心配するかもしれないけど……。心配したり、心配してるかなって思うのが友達なんじゃないかな」

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