第八話 おともだちナースチェンカ

 この日、テストから開放された汀ちゃんは料理に挑戦しました。至くんはというとずっとパソコンの前です。

 このところ至くんは、わたしの度し難い石頭に推察するという概念を理解させるために悪戦苦闘しています。至くんはまず、推察には空間認識能力が欠かせないと考えました。一見関係無さそうに思えるけど、推察の前段階として客観性なんて言葉を持ち出してみると、そこには空間という概念が介在しているように思われます。餌を隠している瞬間を他の個体に見られていて、その個体が自分にとって好ましくない行動をとるかもしれない、と推察するとき、たしかに視点は自身を離れているように思われます。


 コンピューターに主観、つまり視覚に飛び込んでくる地形や物体を認識させることはそれほど難しいことではありません。昆虫をシミュレートするというのならばそれでこと足りるのかもしれません。でも人間は自分を取り巻く環境を無意識に俯瞰ふかんしています。そしてそれを時間軸上に展開して捉えることができます。このとき人が頭に描いているイメージは、たくさんの仮定の上に成り立つ錯覚です。


 集めた情報からコネコネと生地を作って、それを錯覚という麺棒めんぼうなかば無理やりにぐいぐいっと展開しているのです。石はきっと動かないでしょう。歩いていたネズミは、きっと同じ速度で進行方向に進むでしょう。錯覚という曖昧さを持たせなければ情報はオーバーフローを起こしてしまいます。


 錯覚をアルゴリズムで解決しようとすると、情報を取捨選択する時点で既に懸案けんあんである推察という作業を含んでしまいます。人間はそもそも曖昧に物を記録し、曖昧に呼び出すことができるようです。データを壊して記憶し、壊れたデータを読み込むだなんてコンピューターには酷な話です。


 人間は視野の中のものでさえほとんどを錯覚しています。至くんがディスプレイに没入しているとき、至くんの視野の隅ではわたしが充電のケーブルを指に絡ませたままずっと同じ動作を続けているのですが、わたしが違う動作を初めてもきっとすぐには気がつかないでしょう。人間は見ているようで見ていないのです。


 ところで、この日わたしは自分で充電ケーブルをつなぐ練習を始めました。これはわたしにとっての食事と言えるかも知れません。充電のためのコネクタは腰の部分の前と後ろ、シャツとパンツの隙間の部分にあります。わたしが歩行することを前提とすると、背中側というのが都合よかったのでしょうけども、自ら背中にコネクタを接続するという作業は困難です。そこで至くんは前面にもコネクタを用意してくれました。このコネクタは、実は至くんの力作なのです。ハードが出来上がる前のことはわたしは詳しくは知りませんが、試行錯誤したらしいという予想はつきます。


 わたしの握力は弱く、そして親指以外の四本の指は全て連動して動きます。一言で言ってしまえばぶきっちょなんです。そんなわたしの為に、至くんはコネクタを磁石式にしてくれました。湯沸しポットのコードなんかによくあるタイプのあれです。近づければそれだけでくっつくし、体ごと強引に引っ張れば簡単に外れます。


 湯沸かしポットと違う点はプラスとマイナスがあることですが、至くんはコネクタを円形にすることでそれを解決しました。真ん中がプラスで、外側がマイナスという構造です。これならばわたしはコネクタを親指と四本の指で挟み込み、自分のおへそのちょっと下あたりに近づけるだけ済みます。もっとも、それすらも上手に出来ないで昼過ぎからずっと練習しているわけですけどね。


 汀ちゃんは、お味噌汁を作り終えると至くんを呼びました。作業に区切りのつかない至くんは、今日も中断を余儀なくされました。


「やっぱり議論はしませんっていうのはおかしいと思うね。理由を述べた上で反論は受け付けませんっていうなら分かる。それならば、そこには少なくともその人なりの理由があるという風に捉えることが出来る。でも……、理由すら述べませんって言うんじゃまるで合理的な理由がないみたいじゃないか」


 この日、学校は昼には終わっていたのですが、汀ちゃんはどこかに寄り道をしてから帰ってきました。帰ってくるとすぐに買い物に向かって、戻ると肉じゃがを作り始めます。肉じゃがを作り終える頃、至くんの母親がやってきて、汀ちゃんを連れて銭湯へ向かったようです。


 至くんのお母さんはこのところよく顔をだします。至くんのお母さんは至くんをかわいがっているので、きっと前からもっと顔を出したいと思っていたのでしょう。それでも汀ちゃんが来る前は、至くんが嫌がるものだからと遠慮していたみたいです。でも汀ちゃんに会いに来たと言われれば、至くんだって邪険にすることは出来ないでしょう。


 汀ちゃんと至くんのお母さんは仲良くやっているように見えます。わたしには込み入った事情は分からないのですが、この二人に血のつながりは無いみたいです。でも世間から見れば親子になるのですから、この二人は仲良くせざるを得ません。少なくともその方が都合がいいはずです。


 お互いが仲良くなろうという姿勢をもっている限り、人というのは誰とでも仲良くなれるようです。環境からくる必然性は前向きな動機になるでしょう。でもそれが無い場合は仲良くなること自体に必要が無ければなりません。


 だから学校で友達を作ることは難しいのです。相手に面倒くさい奴だなんて思われていると、こちらがどんなに前向きな姿勢を持っていても仲良くなんかなれない。逆にこちらが友達を作ることに後ろ向きになってしまうと、もう誰とも仲良くなんてできなくなってしまいます。


 銭湯から戻ると、汀ちゃんは肉じゃがを温めなおし、そしてお味噌汁を作りはじめました。今日の献立こんだてはその肉じゃがとお味噌汁、そして惣菜の魚の煮物、漬物です。わたしには鼻が無いので匂いを楽しむことは出来ませんが、きっとガレージには食欲をさそう匂いが充満していることでしょう。何せここのキッチンには換気扇が無いのですから。


 作業を中断させられた至くんは、ぐちぐち言いながらも料理を見るとうまそうだと言って汀ちゃんをめました。

「こんな味噌汁見たの久しぶりだよ。肉じゃがにたまねぎを使ったのに、味噌汁には豆腐とワカメだけっていうのもいいセンスだよ」


 至くんが褒めていたのは主に味噌汁でしたが、もとより汀ちゃんだって至くんが肉じゃがを好むはずもないと分かっているでしょう。わたしも汀ちゃんの作ったお料理を見てみたいと思い、至くんにまとわりついてみましたが叶いませんでした。そうこうしていると汀ちゃんも席につきます。

「至さん、さっき、合理的な理由がないみたいって言いましたね。たぶんその通りで、家族そろって食事をすることに特に理由なんてないんですよ。挨拶と同じです。――いただきます」

「だったら挨拶だって拒否しますよ。おれは」

「しないとご飯抜きです」

「いただきます」


 わたしにはありませんが、人々は友達と給食を一緒に食べたり、約束をして食事に行ったりします。それはきっと、楽しいという理由からでしょう。こんな至くんでさえも、なんだかんだで汀ちゃんとのやり取りを楽しんでいる節があるのですから。


 それでも、もっとずっと家族との食事が日常的なものになってしまって、それが特別なものと感じられなくなった時、さらには大変気分が落ち込んでしまっていて、家族とどうにも顔をあわせたくないと思った時。それでも汀ちゃんは、家族とはそういうものですと言って無理にでも食事に誘うのでしょうか。果たして汀ちゃんは、楽しくなくても家族は一緒に食事をしなければならないと考えているのでしょうか。


「至さん、テレビ買ってください」

「スマホ替えたらいいよ。テレビ見れるやつに」

「テレビ買って」


 わたしは汀ちゃんのおねだり口調に少し驚きました。至くんもそれで本気なんだと気がついたようです。そういえば汀ちゃんにはパソコンもありません。テスト期間中は必要なかったにしても、テレビもパソコンも無いではさすがに退屈でしょう。


「テレビはいいけど、屋外アンテナが無いんだ。本気ならちょっと調べてみるよ。ワンセグで我慢できるなら、そのほうが手軽だとおもう。あるいはパソコンなら、食べ終わってからすぐにでも組んであげるよ。一人暮らしだとテレビないって人も結構いるんだよ」

 汀ちゃんは少しがっかりしたようです。普通の家ならばテレビを買うだけで見れるようになります。そんな大それたおねだりでもないでしょう。

「テレビ見ないから視野が狭くなって、引きこもるんじゃないんですか?」

「なに言ってるんだ。テレビなんて見るから人は物を考えなくなるんだよ。大体、引きこもりで何がいけないんだ」

「人間的な生活に支障をきたさない限りにおいては問題ありませんよ」

「人間的な生活ってなんだよ。引きこもりは宇宙人か? 汀も人を宇宙人よばわりする手合てあいか」

「な……、失礼な。そんなこと絶対にしません。――つい、ちょっとあてつけがましく言ってしまっただけです。ごめんなさい」

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