レシート不所持の災厄

吟野慶隆

レシート不所持の災厄

「おい、お前、待てよ」

 そんな声が後ろから聞こえてきたが、領崎(りょうざき)収太郎(しゅうたろう)は、自分に対する台詞だとは思わなかったため、引き続き、玄関口に向かった。

「お前だよ、そのまま、このコンビニから出て行くつもりか?」

 そう言われて、収太郎は、ぴたっ、と足を止めた。(なんだ、おれが話しかけられているのか……)思わず、眉間が険しくなった。

 直後、玄関扉が、ういいん、と自動で開いた。悪寒に襲われたが、外から入り込んできた真冬の冷気のためか、これから厄介事に見舞われるという直感のためかは、わからない。外は、軽い絶望感さえ抱くほどに真っ暗だった。今が深夜であるせいだ。

 収太郎は、警戒の表情をしながら、後ろを振り向いた。その数メートル先では、中年の男性店員が一人、腕を組んで仁王立ちしていた。顔には、強い敵意が、ありありと浮かんでいる。胸の名札には「受橋」「うけはし」と書かれていた。体つきはがっしりとしていて、両手の指には、ごつい指輪が多数はめられていた。

「お前、万引きしようとしているな?」受橋は、人差し指を、びっ、と突きつけてきた。「その袋に、未精算のブツがあるだろう」

 収太郎は、相手の指す先──自分が右手に提げているレジ袋に視線を遣った。その中には、テトラチョコという駄菓子が十数個、入っていた。

「いやいや、誤解だよ」彼は、首を、ぶんぶんっ、と激しく横に振った。「ちゃんと金を支払ったさ。疑うなら、レジ係に訊いてみればいいじゃないか」

 思わず、受橋よりも後ろのほう、カウンターに視線を遣った。彼が今いる玄関口は、店舗の東壁の北端付近に位置している。カウンターは、北壁と平行に、東西に伸びるようにして設けられていた。レジは、それの東部に一台、西部に一台、設けられていた。

 そして、西レジの所に、若い女性店員が一人、立っていた。胸の名札には「取原」「とりはら」と書かれている。冷めた目つきをして、虚空を睨んでおり、収太郎のほうに目を向けようともしなかった。

「いいや、訊くまでもねえ。おれも見ていたよ、お前がレジで金を支払っていたのはな」

「えっ?」軽い安心感が湧いた。「なんだ、だったら──」

「問題は、その後だ」安心感が霧消した。「お前、もう一度、売り場の駄菓子コーナーに行っただろ?」

「ああ、そうだけど……」曖昧に頷いた。

 テトラチョコを買う前、収太郎は、駄菓子コーナーにて、六次元ドーナツという名前の商品を見かけていた。その時、それのパッケージに描かれているマスコットキャラクターに対して、微小な違和感を覚えたのだ。

 その後、レジにて金を支払っている間に、思いついた。あっ、そうだ、もしかして、あのキャラ、被っている帽子の種類が、数日前に目にした時から変わっているんじゃないか、と。それで、テトラチョコを買った後、駄菓子コーナーに戻り、その予想が当たっているかどうか、確認した。それから退店しようとしたところで、受橋に声をかけられた、というわけだ。

「おれは誤魔化されねえぞ。お前、駄菓子コーナーに行った時、レジ袋に、テトラチョコを何個か追加しただろ。なるほど、上手い手口だな。十数個のテトラチョコが、二個か三個、増えたって、ぱっと見ただけじゃ気づかない。そう、おれみたいに目ざといやつでなければな」

「いや、だから、誤解だって!」思わず声が甲高くなった。「そんなこと、していないよ」

「だったら、証明しろよ」受橋は、ふん、と鼻息を出した。「レシートを見せてみろ。買ったテトラチョコの数が書かれているだろ。それが、レジ袋のテトラチョコの数と合っているなら、放免してやる」

「わかった、わかったよ……」はああ、と大袈裟に溜め息を吐いてみせた。「ええと、レシートは、貰った直後に手放したんだが……」

 再び、受橋よりも後ろのほうに視線を遣った。店舗には、南北に伸びている陳列棚が、北部に四台、南部に四台、並べられており、それらによって、縦横の通路が形成されていた。南北通路は、西壁と一列目棚の間、一列目棚と二列目棚の間、二列目棚と三列目棚の間、三列目棚と四列目棚の間、四列目棚と東壁の間の、合計五本で、東西通路は、カウンターと北部棚の間、北部棚と南部棚の間、南部棚と南壁の間の、合計三本だ。

 収太郎は、西レジのカウンターの通路側に注目した。そこには、不要レシート入れが設けられており、その中には、一枚のレシートが、くしゃくしゃに丸められた状態で突っ込まれていた。あれだ。

「ちょっと待ってくれ、取ってくる」

 そう言うと、収太郎は、カウンター前の通路を、すたすた、と西レジに向かって歩きだした。受橋は、「ふん、逃げ出そうなんて思うなよ」と言うと、イートインスペース──玄関口の横に、長テーブルが一台、東壁に沿うようにして据えられているだけの、非常にシンプルな空間──に置かれている椅子を引っ張り出して、それに腰かけた。

 二つあるレジの間には、長テーブルが、カウンターに沿うようにして配されていた。その上には、なんとかいう漫画のコラボ商品が多数、陳列されていた。魔術師のイラストがラベルに描かれているワイン、侍のイラストが紙パックに描かれている日本酒、サイボーグのイラストが持ち手に描かれているコルク抜き、カウボーイのイラストが底面に描かれているカクテルグラスなどだ。

 数秒後、一列目棚と二列目棚の間あたりに差しかかったところで、ズボンの右ポケットから、ぴろりん、という電子音が聞こえてきた。スマートフォンのメール受信音だ。

(なんだよ、こんな時に……)収太郎は、顔をしかめながら、右手をポケットに突っ込むと、スマートフォンを引っ張り出した。

 乱暴に手を動かしたせいか、同じ所に入れていた財布まで、一緒に出てきた。それは、ポケットから零れ落ちると、床に、どさっ、と着地した。

 間髪入れずに、じゃらんじゃらん、という音が辺りに響き渡った。財布が床に衝突した拍子に、小銭入れの蓋が開いてしまったらしく、各種の硬貨が飛び出したのだ。それらは、四方八方に転がっていった。

(うぐ、面倒な……)

 収太郎は、はあ、と軽い溜め息を吐いた。スマートフォンをポケットに戻すと、小銭を拾い集め始める。

 その後、数分が経過した。彼は、床に落ちていた一円玉を拾うと、財布に戻してから、(ええと、これで全部か?)と心中で呟いた。

 きょろきょろ、と辺りを見回す。ほどなくして、南部の三列目棚と四列目棚の間に、五百円玉が一枚、落ちていることに気づいた。

(おっと、危ない危ない……あんな大金を拾い損ねるところだった)

 そう内心で独白すると、収太郎は、三列目棚と四列目棚の間を、南に向かって進んでいった。しばらくして、目的地に到着したので、五百円玉を回収した。

(よし、これで全部だな。……っていうか、受橋のやつ、やけに静かだな。てっきり、おれが小銭を拾い集めている途中で、「早くしやがれ」とかなんとか、文句をつけてくるかと思っていたんだが……)

 そう考え、収太郎は、ちらり、とイートインスペースに視線を遣った。受橋は、椅子の背にもたれ、腕を組み、脚を開き、目を閉じていた。耳を澄ませたところ、小さないびきまでかいている、とわかった。

(なんだよ、あの野郎、寝ていやがる……しめた、このまま出て行ってやろうか?)

 その案について、収太郎は、考えを巡らせ始めた。その間に、客が一人、入店してきた。赤いジャケットを着た、若い男だ。

(……いや、やめておこう)そう心中で呟いて、首を、ゆるゆる、と左右に振った。(それじゃあ、万引きの誤解をされたままだ……それはよくない。おれは、今後も、このコンビニを利用するつもりだからな。さっさと、レシートを受橋に見せよう)

 そう胸中で呟くと、収太郎は、まず、スマートフォンを取り出し、さきほど受信したメールの内容を確認した。それは、いわゆる迷惑メールの類いだった。顔をしかめると、端末を、元の場所に戻す。

 次に、西レジを目指すのを再開した。南部の三列目棚と四列目棚の間を、北に向かって歩いていく。しばらくして、十字路──北部棚と南部棚との間に形成されている東西通路との交差点──に出たので、左折した。

 直後、左足の爪先が、がっ、と何かに衝突した。ばっ、と一瞬だけ足下に視線を遣る。床の上、南部の三列目棚の横に、かご──店員が商品の出し入れに使用する物──が放置されていた。

(……!)

 体のバランスが崩れ、上半身が前傾した。なんとか、倒れまい、として、右足で、けん、けん、と跳ねる。目の前に、北部の三列目棚の南端に置かれている、冷凍商品の陳列ワゴンが迫ってきた。

(く……!)

 収太郎は、ワゴンの南の縁を左手で、東の縁を右手で、がっ、がっ、と掴んだ。なんとか、アイスクリームの山にダイブする、というような事態は避けられた。

 そう安堵した次の瞬間、股間が、ワゴンの南東角に、ごりゅんっ、と激突した。

(ぐう……!?)

 股間に重苦しい鈍痛が響き渡り、顔から血の気が引いていった。収太郎は、すぐさま、下半身をワゴンの南東角から離すと、苦痛が和らぐのをひたすらに待ち始めた。とうてい立っていられず、その場にしゃがみ込む。西レジのほうから、「スプーン要ります?」「ああ、頼む」という会話が聞こえてきた。

(…………ふう……だいぶマシになった。まったく、とんだ災難だな……)

 収太郎は、そう脳裏で独白しながら、立ち上がり、移動を開始した。二列目棚と三列目ワゴンの間の通路に入ると、そこを、北に向かって進んでいく。最初のうちは、やや内股になっていたが、すぐに、本来の感覚を取り戻し、いつもの姿勢で歩き始めた。

 しばらくしてから、カウンター前の通路との交差点、丁字路のようになっている所に出た。次の瞬間、左半身に、どしっ、という衝撃を受け、耳に、ぐちゃっ、という音が飛び込んできた。西レジのほうから来た赤ジャケット男とぶつかったのだ。彼は右手にレジ袋を提げていた。

 収太郎は即座に謝罪した。「すみません」

「すみません、って、お前なあ……」そう言いながら、赤ジャケット男は、ばっ、とレジ袋の中身を確認した。「クソが……モンブランがぐちゃぐちゃになっていやがる……! 最後の一個だったってのに……!」

「す、すみませ──」

 台詞は、途中で打ち切られ、代わりに、ぐふうっ、という呻き声が口から漏れた。赤ジャケット男が、拳を握った右手で、収太郎の腹を、どぼっ、と殴りつけたのだ。

 収太郎は、床に、どっ、と左膝をつき、カウンター前テーブルの上に、ばっ、と右手をついた。赤ジャケット男の、「喧嘩売ってんのか、この野郎!」という喚き声が聞こえてきた。

「い、いや、そんな──」

 台詞は、またしても途中で打ち切られた。鼻に強烈な衝撃を受け、首から上が後ろへ突き飛ばされたからだ。赤ジャケット男が、収太郎の顔に、どかっ、と膝蹴りを食らわせてきたのだ。

(──)

 収太郎の上半身は、そのまま、後傾していった。数秒と経たないうちに、背が、どしん、と床に激突し、仰向けに転がった。鼻から、だらだら、と血があふれ始め、体内に流れ込んだほうは、喉を刺激しながら下りていき、体外に漏れ出たほうは、口に入り込んで鉄の味に塗れさせたり、衣服を汚したりした。

 彼の右手は、カウンター前テーブルの上から滑り落ち、床に触れていた。テーブル上に陳列されていた商品は、左右に弾き飛ばされていて、ひっくり返ったり床に転がったりしていた。

「ふん……ゴミクズめが」

 そう吐き捨てると、赤ジャケット男は、玄関口に向かい始めた。その途中、収太郎の横を通り過ぎる時に、彼に向かって、ぺっ、と痰の混じった唾を吐いた。それは、収太郎の左頬に、べちゃっ、とへばりついた。

 それからまもなく、赤ジャケット男は退店した。収太郎は、いわゆる放心状態に陥っており、動けなかった。

 数十秒が経過したところで、てれれれん、という、玄関扉の開閉を知らせる電子音が聞こえてきた。

(まさか、赤ジャケット男が戻ってきたのか……!?)

 そんな恐怖に駆られて、がばっ、と上半身を起こし、後ろを振り返った。さいわいにも、抱いた心配は杞憂に終わった。入店してきたのは、黒いジャンパーを着て、肩から黒いボストンバッグを提げた、若い男だった。

 そこで、ようやく、収太郎は、今の自分がなかなか恥ずかしい姿をしていることに気づいた。慌てて、カウンター前テーブルの縁に掴まると、よろりよろり、と立ち上がり始めた。取原は、何も話しかけてはこなかったが、それが逆にありがたかった。黒ジャンパー男は、収太郎には目もくれず、彼の横を通り過ぎると、西レジに向かった。

 収太郎は、しばらくして立ち上がりきると、ふ、と軽く安堵の息を吐いた。同時に、黒ジャンパー男が、西レジの前に立った。彼は、右手を上着のポケットに入れると、そこから拳銃を取り出し、銃口を取原に向けた。

「手を上げろ」

 取原は目を、収太郎は口を全開にした。

「手を上げろっつってんだろっ!」

 そんな黒ジャンパー男の怒鳴り声の直後、取原は、ばっ、と両手を上げた。同時に、じりりりり、というベル音が店内に響き渡り始めた。

「ふん、緊急通報ボタンを押したか……まあいい、そのケースも想定済みだ」

 そう言いながら、黒ジャンパー男は、ボストンバッグを肩から外し、カウンターに、どさっ、と置いた。その時に生じた微風により、収太郎の目当てのレシートが、ふわっ、と動いた。それは、不要レシート入れの縁を越え、外に飛び出すと、カウンターの縁も越えて、床に、ぽてっ、と落ちた。

「この辺は、道路が、かなり入り組んでいるし、最近は、多数の工事が行われていて、あちこちが通行止めになっているからな……警察が来るまで、それなりに時間がある。おらっ、さっさとレジの金を詰めやがれ! てめえを殺して、おれが代わりにやってやってもいいんだぞ!」

 取原は、肩を、びくっ、と震わせ、首を、こくこく、と縦に振った。レジの引き出しを開け、中に入っている各種の紙幣を、両手でわし掴みにする。

(コンビニ強盗だと……!?)

 そう心中で呟いて、唾を、ごく、と飲み込んだ。未だに掴まっていた、カウンター前テーブルの縁から、手を離す。

 その時、かたっ、と小さな音が鳴った。黒ジャンパー男は、一瞬だけ、視線を、さっ、と収太郎に遣り、すぐに取原に戻した。その〇・一秒後、今度は、がばっ、と顔全体を収太郎に向け、睨みつけた。彼の存在をすっかり忘れていたに違いなかった。

 その後、黒ジャンパー男は、体を右に九十度ほど回転させ、収太郎に正対すると、拳銃を突きつけた。「てめえも、大人しくしていやがれ! 妙な真似をしたら、遠慮なくぶっ放すからな!」収太郎のいるほうに向かって、右足を、一歩、差し出した。

 その時、黒ジャンパー男の右足の靴底が、床に落ちている、収太郎の目当てのレシートを踏んづけた。

 右足が、ずるりっ、と前へ滑った。

「わあっ!?」

 黒ジャンパー男は、情けなさすら感じられるような声を出した。その後は、まるで万歳でもするかのように両手を上げつつ、体を後傾させていった。レシートは、ぽーん、と、カウンター前の通路を、東に向かってすっ飛んでいった。

 一秒も経たないうちに、黒ジャンパー男は、どしんっ、と仰向けに倒れた。その時、彼の後頭部は、床に激突する寸前で、どすっ、という音とともに急停止した。

「ぐ──」

 黒ジャンパー男の呻き声は、どおん、という音にかき消された。彼が拳銃のトリガーを引いたのだ。

 直後、取原の眉間に風穴が開いた。彼女は、その場に崩れ落ると、そのまま動かなくなった。前頭部および後頭部に出来た銃創から、血液が、びゅううう、と噴出し始めた。

 拳銃は、発砲の衝撃により、使用者の右手から飛び出した。それは、宙を舞った後、床の上──黒ジャンパー男の左足の手前あたり──に落ち、がしゃん、という音を立てた。

(な…………なんてことだ……)

 収太郎は、呆然として、黒ジャンパー男と取原を交互に眺めた。黒ジャンパー男の首の後ろ、うなじのあたりには、床に落ちているコルク抜きの針が、垂直に突き刺さっていた。それの尖端が、彼の盆の窪を貫き、死に至らしめたに違いなかった。

「んんー……」

 そんな唸り声が、後ろから聞こえてきた。収太郎は、心ここにあらず、といった状態のまま、そちらに体ごと向いて、視線を遣った。目を覚ました受橋が、右手で瞼を擦りつつ、左手を上に伸ばしていた。

 彼は、椅子から、がたり、と立ち上がった。「何だよ、今のでかい音……」などとぼやきつつ、イートインスペースから、のろりのろり、と出る。カウンター前の通路に入ると、収太郎のほうへと歩いてきた。左目は、瞼が三分の一ほどしか開いておらず、右目は、右手で擦られ続けていた。

 受橋が惨状に気づいたのは、収太郎の二メートルほど前にまでやってきた時のことだった。二人とも、体を、相手のほうに向けており、お互いに正対するようになっていた。

 受橋は、第一に、怪訝の表情を浮かべた。「あ……?」第二に、驚愕の表情を浮かべた。「あああ……!?」第三に、恐怖の表情を浮かべた。「うわ、うわ、うわ……!」

(あっ、しまった、このままじゃ変な勘違いをされるかも……!)

 そんな懸念が脳内で湧いたことにより、収太郎は、我を取り戻した。なんて言えば誤解されずに済むだろう、と考えを巡らせ始める。しかし、彼が良案を思いつくよりも前に、受橋が、その場の床に、がばっ、と土下座した。

「助けてくれ。助けて。助」今にも泣き出しそうな調子の声で言った。「お願いします。おねぎゃいしましゅ」じょろじょろじょろ、と排尿し始めた。「ひにたくないれしゅひにたくないれしゅ」ぶぷーっ、という放屁音が鳴った。

「ちょっ、違う、違うって」収太郎は、我にもなく、受橋に近づいた。腰を曲げ、彼の肩に触れようとする。「おれがやったんじゃなくて──」

 収太郎の台詞を遮って、受橋が、「うがあああ──」と絶叫し始めた。彼は、がばっ、と顔や体を上げると、収太郎めがけて飛び出し、タックルを食らわせた。

「ぐほおっ!?」

 回避できるわけもなく、そのまま突き倒された。肩甲骨や広背筋、尻などに、強い衝撃および激しい鈍痛を受け、一瞬だけ息が止まった。ズボンの右ポケットから、スマートフォンだの財布だのが飛び出して、床に落ちた。

 受橋は、収太郎の下腹部の上に乗っかり、マウントポジションをとった。「なめんじゃねえ! なめんじゃねえぞおっ!」ごつい指輪だらけの拳で、収太郎の顔面をぶん殴り始めた。「こちとら元プロレスラーだ! 殺せるもんなら殺してみやがれっ!」どかっ。がすっ。べきっ。ぼこっ。「おりゃあっ! 殺すっ! 先にこっちが殺してやらあっ!」

 顔じゅうが衝撃と鈍痛に塗れ、口の中に血が広がり歯が散らばった。呻き声を上げることすらできなかった。なんとか防御しようとして、手で顔を覆おうとしたが、受橋は、それらを払いのけたり、それらごと殴りつけたりした。

「これでも食らいやがれっ!」

 そう絶叫すると、受橋は、右手の親指・人差し指・中指を、収太郎の左眼窩に突っ込んだ。なんとも形容しがたい鈍痛と感覚が、脳を揺るがした。

 その後、彼は、間髪入れずに、右手を引いた。ぶちぶちっ、べりべりっ、などといった音とともに、左眼球が引っこ抜かれた。

「ひゃひゃひゃひゃひゃ、どうだ、ざまあ見やがれっ!」受橋は、右手を握り締めると、収太郎の左眼球を、ばちゅん、と潰した。「そうだ、やってやる、前から興味あったんだ、どうせ殺されるならやってやるぜ、目ん玉の穴をぶち犯してやるぜっ!」自分が穿いているズボンの、円錐のごとく膨らんでいる股間のファスナーを、じいー、と開き始めた。

 直後、受橋は、ぴたっ、と手を止めた。その表情から推測するに、どうやら、何かに気づいたようだ。彼は、視線を、収太郎の頭よりも後ろのほうに向けていた。

「そうだ、こいつを使って……!」

 そう呟くと、受橋は、収太郎の下腹部から離れた。しかし、収太郎は、とうてい、何かしらの行動を起こす気にはなれなかった。ただただ、放心状態で、床に、仰向けに寝転がり続けた。

 天井には、防犯ミラーが設けられており、そこには、周囲の景色が映り込んでいた。受橋は、床に転がっている、商品であるカクテルグラスの入った箱や収太郎のスマートフォンなどを左右に蹴飛ばしながら、カウンター前の通路を、西に向かって移動していった。

 彼は、ほどなくして、黒ジャンパー男の左足の手前あたりで止まった。そのあたりの床に落ちている拳銃を凝視していた。

「目ん玉の穴の後は、こいつで、お前の額に穴を開けて、脳味噌をぶち犯してやるぜっ!」受橋は、そんなことを喚きながら、拳銃を取った。

 次の瞬間、どおん、という音が辺りに鳴り響いた。受橋が拳銃を掴んだのが、ひどく乱暴だったせいで、トリガーが引かれ、弾丸が発射されてしまったのだ。銃口は、彼の体のほうを向いていた。

「……」

 弾丸は、受橋の背中、肩甲骨の間あたりを突き破って、外に飛び出した。彼は、その場に、ばったり、と俯せに倒れると、そのまま、微動だにしなくなった。その背に開いた風穴から、血が、ごぼごぼごぼっ、と噴き出し始めた。

 拳銃は、発砲の衝撃により、使用者の右手から飛び出した。それは、宙を舞った後、カウンター前テーブルの上、東端付近に落ち、がしゃん、という音を立てた。

「はあー…………はあー…………はあー…………」

 収太郎は、仰向けに寝転がったまま、荒い息を繰り返していた。鼻が潰れてしまっているようで、口呼吸しかできなかった。もはやどんな状態になっているのかもわからないが、顎を閉じられず、口から、血液やら唾液やらが、だらだら、と溢れていっていた。視界は、左目を失ったせいで、平面的になっていた。

 数分が経過したところで、(びょ……病院……一一九番……スマホ……)などと思考できるほどには、体力が回復した。ズボンのポケットに右手を入れる。

 しかし、その中は空っぽだった。(……?)収太郎は、可能な範囲で首を動かして、辺りを見回し、スマートフォンを捜した。

 目当ての物は、大して苦労せずに見つかった。それは、陳列棚と陳列棚の間の通路──ちょうど、収太郎の頭の右横から伸びている──の途中に転がっていた。受橋が、マウントポジションを解除した後、拳銃を入手しようとして移動している最中に、床に落ちていたそれを蹴飛ばしたに違いなかった。

(拾いに行かないと……その前に、とりあえず、立とうか……)

 そう心中で呟くと、収太郎は、全身に渾身の力を込めて、動き始めた。まず、両手を床について、上半身を起こした。次に、体を左にひねり、四つん這いの姿勢をとった。最後に、カウンター前テーブルの縁を掴んで、よろり、よろり、と立ち上がりだした。

 数十秒が経ったところで、ようやく、立つことができた。スマートフォンのほうに視線を遣ろうとして、体を右にターンさせ始める。その途中で、店舗の東部が視界に入った。

 カウンター前の通路の途中、東レジの付近には、収太郎が取りに行こうとしていたレシートが床に落ちていた。黒ジャンパー男や受橋に踏んづけられ、飛ばされたせいで、そこまで移動したに違いなかった。

 その先、東壁は、ガラス張りとなっており、外の様子を確認することができた。いつの間にやら、駐車場には、パトカーが三台、停まっていた。警官が六人、それらの陰に身を隠し、コンビニ内の様子を窺っていた。

(そうか、取原の緊急通報で来てくれたのか……! やったぞ、これで、もう、一一九番通報の必要はなくなった……早く、彼らに助けてもらおう)

 そう心中で呟いた、次の瞬間、警官たちのうちの一人が、「もう、どこにも逃げられないぞ!」と大声で言った。「大人しく、人質を解放して、投降しろ!」

(なっ……おれ、強盗犯だと思われているのか……!?)通常なら、目をみはるなり口を開けるなりするところだが、顔じゅうに重傷を負っているせいで、何のリアクションもとれなかった。(人質なんて、いないんだが……駐車場にいる警官たちにしてみれば、そんなこと、わからないよな。

 とにかく、早く外に出て、投降しよう。初めのうちは、警察の対応は、手荒いかもしれないが……おれが、犯人でないどころか被害者であることは、すぐにわかってくれるはずだ。店の防犯カメラには、この災厄の一部始終が記録されているだろうし)

 そう考えると、収太郎は、よろり、よろり、と玄関口に向かいだした。両手を上げようとしたが、そのたびに肩甲骨あたりが痛むせいで、できなかった。受橋に突き倒され、その部位を床に強打した時、負傷したに違いなかった。

 数分後、彼は、東レジの付近にまで到達した。(これ以上の誤解を防ぐためにも、なんとか、反抗する気がないことをアピールしないと……)そんなことを考えながら、右足を、一歩、差し出した。

 ずるりっ、と靴底が前方へと滑った。同時に、床から、ぽーん、と、何かが前に向かってすっ飛んでいくのが見えた。それは、収太郎が取りに行こうとしていたレシートだった。踏んづけてしまったに違いなかった。

(わっ……!)

 左腕が本能的に動いた。ばっ、と左斜め後ろあたりに突き出す。肩が、ずっきんっ、と強く痛んだ。呻き声を上げることすらできないほどだ。

 〇・五秒後、左掌を、カウンター前テーブルの上、東端付近に、だんっ、とつくことに成功した。しかし、それから間髪入れずに、どおんっ、という轟音に鼓膜をつんざかれた。同時に、左掌が、大きな衝撃を受け、真上へと突き飛ばされた。

(なあ……!?)

 収太郎は、顔を、がばっ、と左手のほうに向けた。その時、宙を舞っていた拳銃が、東レジの清算金額表示ディスプレイに、がしゃっ、とぶつかったところだった。さきほど、左掌をカウンター前テーブルについた時、ちょうどそこに位置していた拳銃を、上から押さえつけてしまったのだろう。その拍子に、トリガーが引かれ、弾丸が発射されてしまったというわけだ。

(く……!)

 さいわいにも、左掌をカウンター前テーブルの上についた直後に、右足を床に下ろすことに成功していため、平衡感覚はだいぶ取り戻せていた。数歩、ととっ、と後退して、体のバランスを完全に回復させる。その最中、前方にて、ぱりん、という音が鳴った。弾丸が東壁を貫通したのだろう。

 数秒後、駐車場のほうから、どかあん、という大きな音が聞こえてきた。同時に、東壁や玄関扉が、がたがたっ、と振動し、外から、ぱあっ、と明るい光が差し込んできた。

(……!?)収太郎は、顔を、がばっ、と前に向けた。

 駐車場に停まっているパトカーのうち一台が、ごうごう、と燃え盛っていた。さきほど収太郎が発射した弾丸が、ガソリンタンクに当たり、そのせいで爆発したのだろう。車両の左横では、警官が一人、仰向けに倒れていて、金属片の突き刺さっている喉仏から、血を、ぴゅううう、と噴き出させていた。右横では、警官が一人、火だるまとなっていて、アスファルト上を、ごろんごろん、とのたうち回っていた。

(そんな……あんな事態を引き起こすつもりなんて、なかったのに……)上唇で下唇を押さえつけた。(これじゃあ、ますます、凶悪犯だと誤解される……とにかく、一刻も早く投降しないと……!)

 そう考え、収太郎は、再び移動を開始した。それから数分が経過したところで、ようやく、玄関マットの上に到達した。扉が左右に開いたので、玄関口に向かって、右足を差し出す。

 爪先が、ぽんっ、と何かを蹴飛ばした。思わず、そちらに視線を遣る。それは、彼が取りに行こうとしていたレシートだった。床から数センチ浮いた状態で、すっ飛んでいった後、駐車場に着地して、ころんころん、と転がった。

 数分後、収太郎は、外に出て、玄関口の前に立った。いつの間にやら、駐車場からは、通常の制服警官はいなくなっていた。代わりに、多数の機動隊員が、店舗を取り囲み、垣根を形成していた。みな、特殊警棒だのライオットシールドだのを構えており、ひどく強い敵意に満ちた眼差しを向けてきていた。

「なんだとっ!?」

 そんな大声が、機動隊員たちによる垣根よりも後ろのほうから聞こえてきた。そこには、機動隊員の制服を着た中年男と、スーツを着た若い男がいた。

「それは本当か!?」中年男が大声を上げた。

「間違いありません!」若い男も大声で返した。二人ともひどく興奮していた。「さきほど、コンビニの防犯カメラのリアルタイム映像を、リモートで確認しました! 今、店内に、人質はいません! あいつ一人だけです!」

「おっしゃあっ!」中年男は、がばっ、と収太郎のほうを向くと、びしいっ、と彼めがけて右手を突き出した。「取り押さえろおっ!」

 機動隊員たちが、いっせいに、収太郎めがけて突進した。

(うおっ……!)

 待ってくれ、と言おうとしたが、言えなかった。げほっ、と咳き込んだり、ぶはっ、と血を吐いたりすることで、精一杯だった。

 数秒後、機動隊員たちの構えているライオットシールドのうち一枚が、収太郎の体に、どかっ、と激突した。

(……)

 もはや呻き声を上げることすらできなかった。収太郎は、きりもみ状態で吹っ飛ばされた後、地面に、どちゃっ、と俯せに倒れた。

 その時、口の中に、何かが、ぐしゃぐしゃっ、と入り込んできた。

(く……!?)

 口の内側の肉および舌により、その物体の形状や触感などを味わった。それは、くしゃくしゃに丸められた紙だった。さきほど、付近の地面に落ちていた、収太郎が取りに行こうとしていたレシートに違いなかった。

 そんなことを考えている間に、体の周囲に、機動隊員たちが、わらわらと集まってきた。彼らは、拘束のためか、収太郎の頭や手足を、ぐい、ぐいっ、と動かし始めた。

(わわっ──)

 収太郎は、そんな声を内心で上げた。その拍子に、知らず知らず、舌や喉に力が入った。ごくん、という音が鳴る。血液や唾液、歯やレシートが、飲み込まれた。

 けれども、それらは、胃袋には入らなかった。咽頭のあたり──食道および気道の手前──において、レシートを先頭として、詰まったのだ。

(な……!?)

 収太郎の顔から、血の気が、さあっ、と引いた。なんとか、口や喉に力を込め、レシートを飲み下すなり吐き出すなりしようとした。

 しかし、いずれも叶わなかった。そもそも、顔じゅう体じゅう、どこもかしこも痛いわ疲れているわで、ろくに力を入れられなかった。

(うぐぐぐぐ……!)

 収太郎は、なんとか、喉に物が詰まっていることを機動隊員たちに知らせようとした。ところが、当然ながら声は出せず、手も足もろくに動かせなかった。顔は、ほとんど地面に押しつけられていて、彼らの視界に入りすらしなかった。

(……)

 心臓の鼓動が、どくんどくんどくん、と、どんどん速くなっていった。顔じゅうが激痛に塗れているにもかかわらず、目を見開き、残った歯を食い縛った。その後も、気が狂いそうになるほどの苦しみは続いたが、数十秒が経ったところで、ようやく意識が途絶えた。


   〈了〉

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レシート不所持の災厄 吟野慶隆 @d7yGcY9i3t

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