2-3.


 どこか、熱に浮かされたように心の足場は不安定で、だけどやみくもに走っている感覚が心地よくもあって、36度8分の微熱が僕の全身を駆動させつづけた。


 非現実が極まったような一か月間はあっという間に過ぎ去り、我が杉並西高校の文化祭が幕開を迎える。

 うちのクラス、一―A組のオリジナル劇『現代に転生したシンデレラ』の初日公演はお昼の一時から二時という体育館枠を与えられていた。午前中は着替えやら最終リハーサルやらに時間をあて、校内を見て回る余裕なんてなかった。舞台に上がる生徒たちはみな、朝からそわそわと落ち着きがない。僕も例に漏れず、昨日はろくすっぽ寝れていなかった。


 いよいよ開演時間が近づき、前の枠の団体が撤収を開始する。舞台袖からチラリと観客席を覗いてみたが、お昼時にぶつかってしまった不運もあってか、満席御礼とはとても言えない客入りだ。だけど水泳部の面々が最前席を埋めてくれているらしく、彼らの心意気に胸がじんと熱くなった。


 幕が上がる。人々のささめきがフェードアウトしていく。

 ファーストシーン。ステージ上に一人立つシンデレラにスポットライトが当たっていた。


 青を基調としたメイド服はあえてダメージ加工が施されており、衣装担当チームが土日を費やしてまで制作にあてたその衣装は中々よくできていた。彼女は目を瞑ったまま腕を組んでいる。


『昔々、シンデレラと呼ばれている美しく心の優しい娘がいました――』

 練習で何度聞いたかもわからないナレーションが流れた。僕は実感する。ついにはじまったんだ。


 彼女は練習通り、威風堂々とシンデレラ役をまっとうしていた。暗がりの中、がらんとした空間で光を一身に浴びる彼女の姿は、どこか神々しくまであった。僕はひとりでに拳をにぎりこむ。僕も、がんばらなきゃ。


 自分の出番がきて、最初のシーンのことはほとんど覚えていない。台詞は間違えなかったと思うけど、頭が真っ白のまま、覚えた台詞を機械のように吐きだすのが精いっぱいだった。二回目の出番の時は少し余裕ができた。目に入った観客席の中に見知った顔が何人かいた。シンと静まり返った大舞台で、多数の目に晒される中、一人大声を張り上げる経験なんて早々ない。少し気持ちよかった。


 大きなトラブルを迎えることなく、舞台はラスト一つ前のシーンまで進行していた。クライマッスは主役二人がお互いに愛の告白をし合い、幕を閉じる。僕と彼女は舞台袖で最後の出番を待っていた。


「なんだか、あっという間だね」


 舞台上を見つめながら、僕の隣に立つ彼女がボソリと呟く。


「そうだね。僕、台詞間違えないようにしなきゃってそれだけ考えてた。ちょっと間違えちゃったけど」

「大丈夫。誰も気づいてないよ。私も一か所、台詞飛ばしちゃった」

「えっ、どこ?」

「ほら、気づかないもんでしょ?」


 僕があっと漏らし、彼女はくすっと笑う。緊張が幾ばくか和らいだ気がした。彼女が舞台上を見つめたまま、再び唇をはがす。


「大変だったけど、楽しかったね。なんか、この一か月は青春してるって感じがした」

「うん。僕もなんだかんだ楽しかったな。って、まだ終わってないし、明日もあるけど」


 感慨深げに目を細める彼女の横顔を見ていたら、錆びついた扉の開く音がした。「僕さ、」自然と口が開いていた。


「実は最初、この役断ろうと思ってたんだよね。日向にはめられて、押し付けられた感じあったし。でもさ」


 彼女の視線が移ろい、僕のそれと交差する。


「癪だけど、アイツの言う通りになった。たまにはらしくないことやっても、悪くないね」


 僕は気持ちをごまかすようにハハッと笑い、後ろ髪をさわった。彼女は表情を動かさず、じっと僕を見つめたままだった。薄くアイシャドーを塗っている彼女の顔は本物のお姫様のようで、僕ごときが直視するのは少々敷居が高い。


「葵くん」


 彼女が僕の名前を呼ぶ。舞台上の照明がパッと消えた。


「葵くん。私、葵くんのこと」

「よっ、ご両人」


 彼女の言葉が遮断され、高揚した忍び声に上書きされた。声がする方に顔を向ける。視界が暗く輪郭が定かではないが、その声の主はきっと銀縁眼鏡の彼女だ。気づけば檀上の演者たちがこそこそと舞台袖に戻ってきていて、僕たちの最後の出番が差し迫っていた。


「いよいよクライマックスシーンね。準備はいい?」

「あ、うん」


 慌てた僕は条件反射で返事をし、隣の彼女もコクンとうなづいていた。


「じゃあ新島さん、いつも通り最高の演技、よろしく! 北上くんは台詞さえ飛ばさなければオッケー」


 銀縁眼鏡の彼女が僕らの肩にポンッと手を置き、暗闇の中で得意げに笑っている気がした。

 ステージ上にシンデレラが赴く。彼女は一度だけこちらを振り向き、でもすぐに前を向き直した。

 空間に再び光が放られる。オープニングシーンと同じ構図、ステージ中央に一人立つシンデレラが、両手を組んで目を瞑っている。

 僕はドキドキしていた。舞台に上がることへの緊張とは別の意味で、僕の意識は一つの疑問にとらわれていた。


 彼女はさっき、僕に何を言いかけたんだろう。

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