第三章四

 彼らからすれば、主上の生母という目の上の瘤を何も手を下さずして排除できたのだ。表向きは主上の孤独に慰めの意をあらわしても、誰一人として心から同情するものはいなかった。

 男達は次の覇権を争い、姫君は父親の死を悼むあまり、悲観と乱心をして出家したと取り沙汰されても一切取り合わず、故関白の喪に服した後、六条にある別邸にひっそりと身を移した。以降、入道の女院と申し上げられることとなる。

 姫君は尼として仏道の勤めに励み、次第に心は安らいでいった。夏木も同様に励み、二人は常に近しくあれて、幸せなときが流れた。

 宮中では主上が無事に元服を果たし、女御更衣が次々と入内するのを風の便りで聞いた。これで主上のお心も慰められるだろうと姫君は喜ばしく思った。

 主上は女御更衣の地位に合わせたご寵愛をし、次第に懐妊するものも出てきた。姫君にはそのことも御世の栄えとして嬉しかった。

 ──時の流れと共に風化してゆくだろう。中宮だった自身も、主上の想いも。

「……ねえ、夏木」

 ある日、珍しく庭を眺めていた姫君が夏木に声をかけた。

「面白いものね……この庭にも、あの紫の花が咲いているわ」

 夏木が目を凝らすと、小ぶりな木ではあるものの、確かに紫の花をつけていた。

「まあ……本当に」

「懐かしいわね。あの花の味は今でも鮮明に覚えているわ」

 姫君がくつろぎながら花を眺める。ここには姫君を縛るものは何もない。

「一枝取ってまいりましょうか?」

「そうね……命あるものを摘み取るのは、いけないことなのでしょうけれど……花で一息つくのもいいわね」

 地位を捨てて出家してから、よく見せるようになった朗らかな笑顔が夏木を魅了する。姫君が幾重もの枷から解き放たれて本当によかったと夏木はしみじみ思った。

「では、行ってまいります」

 夏木が庭に出ると、強い風が墨染めの衣を煽った。春の嵐の訪れか、と感じながら花に近づく。

 このとき、二人はまだ本当の嵐の訪れに気づいていなかった。向かい合って花を楽しんでいるなかで、知らせがもたらされた。

 ──主上の行幸という嵐の訪れを。



 *



 その春は嵐が多かった。主上が六条を訪れる日も、朝から草木が風に打たれ、悲鳴をあげていた。恐るべきときの前触れのように。

 主上の行幸は、仰々しさを一切排して異例なまでに密やかに行われた。まるで、忍ぶ恋の女のもとへ通うように。

 御使いのものは、多くは語らなかった。語れないだろう。

「夏木、私はどうしたら……」

 主上の急襲に、姫君は哀れなまでにうろたえていた。怯えていたといってもいい。

 夏木は無表情だったが、その目には底知れない何かがある。やがて、口を開いた。

「……主上には私がお相手いたします」

「夏木……けれど、行幸まであそばした主上にそのような失礼を……」

「清様がご対面になられますのは危うくございます。ここは、私にお任せくださいますよう」

「夏木、それは……!」

 姫君は夏木の意図を察したらしい。顔色をなくして、夏木の両肩を掴む。

「私が産んだ子なのよ……!」

 夏木は眉一つ動かさなかった。ただ淡々と言い返す。

「……ですが、主上は清様のことを、ただの母とはお思いになられてはおりませぬ。もし……」

 姫君は絶句して反論も咎める言葉も出せなくなった。既に出家している身に主上は何を迫るのか。想像がつくからこそ、今これほどまでに怯えている。姫君を心底怯えさせるくらいに主上の行幸は不自然で強引だった。

 しかし、それでも我が子だ。成長を見てきた。無心に甘える幼い姿を可愛いものと慈しんだ。父関白が亡くなって後宮を退出したあの日、男としての眼差しを向けられるまでは。

「──主上がお待ちあそばしておられます。何とぞお急ぎくださいませ」

 付き従ってきたものが告げる。姫君はあたりを見回し、小声で夏木に懇願した。

「……毒は用いないで……」

 それは主上のお心次第です。──その一言を押し隠して、夏木は「……では、行ってまいります」とだけ答えた。

 主上は精悍になっていた。雄々しさが増し、かつての先帝を思わせる。夏木だけが現れると、あからさまに落胆の色を見せた。

「何とお心の冷たい……まろが女院にお会いしたのは亡き関白の訃報で退出なされたときが最後だった。その後、女院は何を恐れたのか自ら落飾なされてしまった。まろは宮中に置き去りにされ、あまたの女御更衣を迎えたが、心に染むものはいなかった……女院には還俗のことをお願いいたしたく、無理を通して会いに来たというのに……」

 ああ、やはり、と夏木は内心で溜め息をついた。やはり先帝と同じだ。帝という至高の地位にあり、女達に想われるのを当然と受け入れてきた傲慢で姫君にもそれを求める。

 もはや子ではない。姫君を脅かす一人の男だ。それが、たとえ一途な想いだとしても。

「女院にはお具合が悪くいらっしゃいまして……お会い申し上げたいとお思いのご様子でしたが……ですけれど」

 外では雨が降りだしたらしい。湿った空気が室内にまで籠もる。

 その湿気が、夏木の身から香りをかもし出した。常に姫君の傍らにいる夏木には、既に我がもののように姫君の香りが移っている。主上が気づき、身を乗り出した。

「その香りは……女院の。もっと近くに」

「はい、主上……私は……」

 畏れ多いと見せかけながら、夏木が敢えて僅かに進み出る。主上はもどかしそうにして、更に近づくように促した。夏木は焦らしながら距離を縮めてゆく。狙い通りだ。

「何だ? 女院から何か言付けでも預かっているのか?」

「はい……私は……」

 ──この香りを、しかと聞けばいい。虜になるほどに。

「……私は、女院からの贈り物にてございます」

 主上が息を呑む。

「そなたが、女院からの思し召しと?」

「はい……この度、拝謁のことが叶わなかった代わりにと」

「ふむ……」

 夏木は胸の内で姫君に何度も謝罪しながら嘘をついた。嘘をつくのは、いつからか身にしみついてしまっていた。女房達の目を盗んで毒を手に入れて塗り込める毎日、先帝を弑し奉った夜、姫君の兄弟達を騙したとき。

 几帳の奥深くで、周りのものを欺いて姫君と睦みあってきた日々。

 主上は少し考え込んだ。母を手に入れるつもりでいたが、あては外れてしまった。けれど目の前には恋い慕う母の香りを宿した女がいる。それは母からの心だという。そして夏木の謀略に気づくわけもなく──。

「……よかろう。女院の移り香を愉しむのも、また一興か」

 主上が陥落した瞬間だった。

 もとより、後宮では愛してもいない女御更衣を寵愛することに慣れている。夏木のことなど何とも思ってはいないが、母から贈られた、母のゆかしい香りを届ける女だ。それだけで十分に肉欲をかき立てる。

 主上は、夏木のなかにある姫君を探るように夏木を抱いた。尼であることは気にもとめなかった。加えて夏木はまだ美しく、秘め事に長けていた。言い知れない香りの妙に包まれながら、主上は底のない沼にはまった。

「……改めて使いを送る。次こそは女院からの慶ぶべき返り言を」

 ことを終えて、主上は立ち上がった。乱れた衣を整えさせて、名残り惜しそうに六条を後にする。夏木は急いで尼装束を整えて主上を見送った。

「承りましてございます……必ず」

「期待している。今日こそ久方振りに女院のお声を聞きたかったが……」

「実の御母子でございます。機会はまだおありかと存じます」

「……そうだな。女院とまろには切り離せない絆がある」

 道ならぬ懸想をしておいて噴飯ものだが、逆らわず口を合わせておいた。それが、夏木の耳にした主上の最後の言葉となった。

 夏木が姫君のもとへ戻ると、姫君は放心したように嵐の庭に目をやっていた。夏木の胸が申し訳なさに締め上げられる。

「……主上はご満足して還御あそばされました……」

「……夏木、お下がり」

「……はい……」

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