第三章三
夏木を刺し、少将が自刃した刀。あの後、研ぎに出してから寺社で邪気を祓ってもらったが、それでもどこか禍々しい雰囲気を放っているように感じられてしまう。
けれど、姫君には今こそ必要なのだ。屋敷内はまだ混乱している。この非常時に姫君の沈黙が通用するほどに。今日は辛うじてごまかせたが、明日以降になれば家族が姫君に中宮としての力を求めて押し掛けるだろう。主上もこのまま黙ってはいないはずだ。
今しかない。
夏木は刀を適当な衣に包み、姫君のもとへ駆けるようにして戻った。
「……清様、お待たせいたしました」
「夏木、外から話し声が聞こえてきていたけれど……」
「お気になさらず……明日までは来ないよう計らいましたので」
「そう……ありがとう。それで、刀は……」
「はい。──こちらに」
夏木は衣から刀を取り出し、姫君に捧げた。姫君は息を詰めながら、ゆっくりと手を伸ばして刀を受け取った。鞘から抜くと、ひどく冴え渡っていて鳥肌がたつようだった。
「清様……どうぞお心のままに。私だけは何がありましても清様に忠誠を誓います」
「ええ、知っているわ……身をもって」
姫君は睫毛が影を落とす瞳を閉じた。夏木はいつでも応えてくれる。姫君の願いを叶えてきてくれた。今もそうだ。一家が崩壊するおそれがあるというのに、姫君の心身を第一に考えてくれている。
「……では、私はここで見守り申し上げております」
夏木の、その一言がありがたかった。
姫君は抜き身の刀を一度置き、長く豊かな黒髪を束ねて持った。長い髪は姫君の歴史だ。後宮での忍耐の日々、夏木との密やかで甘美な日々。全てが髪のなかに織り込まれている。それらを思い返すと、髪の重みが増した。
「……お手伝いいたしましょうか?」
動きを止めていた姫君に、夏木が遠慮がちに問いかける。姫君は改めて左手で髪をまとめ、右手で刀を握った。
「いいえ……お前は見ていてくれさえすればいいわ」
髪に刀をあてる。息を止めて、一気に引いた。
ざり、という音が張りつめた空気を震わせる。肩から下の髪を想いきり切って落とした。左手に、髪の重さが届く。
姫君は、それをじっと見下ろした。
「……ずっと、この髪が重かった……」
「清様……」
「生まれた時から先の中宮として扱われてきたわ……そう教えられ、相応しくあるようにだけ求められて……都の男どもも、噂に踊らされて空虚な恋を身勝手に押しつけてきて……女房どもも次から次にと調子よく文など取り次いで、私の気持ちなど考えもせず返り言をと騒ぎたてて……誰も、誰一人として、生身の剥き出しの私を見てくれようとはしなかった。髪を伸ばし始めた頃から、ずっと……重さは増してゆくばかりで……絶望のしるしだった。──夏木、お前と出逢うまでは」
姫君が血膿を押し出すように言葉を紡ぐ。
でも、それももう終わりでいいのだ。
切ってしまえば、あっけなかった。これでもう何にも脅かされずにいられるという解放感に心が晴れる。主上からも家のしがらみからも逃げおおせることができたのだと思うと、止めていた息を深くつけた。
「清様……刀を」
一部始終を見守っていた夏木が両手を差し出す。
──そうだ、夏木とは一蓮托生なのだ。
「ええ……」
姫君は夏木に刀を手渡した。夏木は恭しく受け取ると、姫君と同じように髪をまとめて迷いなく切った。その勢いに、再び空気が震えた。
外では嵐が本格的に訪れているらしい。庭の木々のざわめきが、二人の行為を責めたてるがごとく苛烈に鳴っている。
「この髪はお前に……」
姫君は身の丈より長い髪を夏木に託した。
「はい、ありがとうございます……清様、では私の髪を……」
「そうね……お前の生は私が預かっているのだもの」
二人は互いの髪を交換し、見下ろした。
姫君の髪は持ちきれないくらい長く重く、まだ生きているかと思えるほど艶やかに波打っている。夏木は姫君の半身を頂いたと同等の感激を覚えた。
夏木の髪は姫君のそれと比べれば短く量も少ないが、少ないのは毒に苛まれてきた証だ。姫君はそれを痛ましく愛おしく見た。
「明日、この嵐がすぎたら……」
「はい……ですが、清様のことは私がお守りいたします。矢面に立つのは私だけでよろしいのでございます。清様にはお心をお平らかになさっていてくださいませ」
明日には、この嵐とは比にならない嵐が屋敷のなかで吹き荒れる。その影響は主上のおわす宮中にまで及ぶ。誰も彼も騒ぎ立てずにはいられないだろう。
中宮が、自らの手で落飾したのだから。
「お前には感謝しているわ……私に悔いはない。……ただ、お前にまで……」
同じ道を歩ませてしまった。姫君が何課を悔やむとしたら、それだけだ。女童の頃から、夏木の人生を全てかけさせてしまった。夏木は姫君のためだけに生きてきた。取り返しのつかない大罪まで共有させて。
しかし、夏木は憑き物が落ちたように穏やかな微笑みを返した。
「よろしいのです。清様にさえ悔いがおありでないのでしたら、私のことではお悔やみになられることなど何もないのです。私は清様と共にあれれば、それで十分なのですから。……そして今、ようやく本物の自由に……」
「夏木……夏木、お前に誓うわ。出家しても、お前だけを愛していると」
「はい……私も、御仏に仕える身となりましても、清様を何より大事に考えてまいります。私が想うのは清様だけでございます」
「……夏木……!」
姫君が夏木の髪を床に置いて、にじり寄る。芳しい両腕で夏木を包んだ。
抱擁は目眩がするくらいに優しく、激しかった。夏木は姫君の髪を膝に落として抱き返した。嵐の轟くなか、背信という罪を重ねて求めあう。家族も主上も裏切って。
「御仏に背いても、お前だけは手離さないわ……」
囁きは熱く湿っていて、嵐の音をかき消し、夏木の耳に木霊する。
「私も同じでございます。同じ罪咎に……どこまでも……」
続きは姫君の唇に吸い込まれた。
翌朝、下男が荒れた庭を手入れするなか、屋敷では蜂の巣をつついたような騒動が起きていた。
「何という浅はかなお振る舞いを……!」
「中宮として揺るぎない地位にあられますお方が、主上にもお断りなく自ら髪を下ろされるなど言語道断でございます。主上には、いかが奏上されるおつもりですか!」
兄弟達は直ちに還俗するよう、かまびすしく言い募ったが、夏木が代弁して姫君の主上へ言った言葉を繰り返した。
「中宮様は時勢というものに従うと仰せでございます。後にはご英断であったとお分かり頂けるものと信じております」
「お前……! 中宮様をお止めしないばかりか、何を賢しげに言っているのだ!」
「何をどう言われましても、中宮様はご判断を誤ってはおりませぬ」
「姉上が中宮の御位にありますことを頼もしく、最後の砦と見ておりましたものを……姉上は私達をお見捨てあそばすのですか!」
兄弟達は憤り、嘆き、口々に喚いた。姫君はその嵐を受けても口をつぐんでいた。
隣には夏木がいた。家族の叫びを、姫君は夏木の手を握ってやり過ごした。
女房達も騒然としていた。足擦りして泣き、後を追って出家すると言い出すものも少なからずいたが、姫君は希望するもの達のうち、古参のものだけに出家を許した。
主上は動揺と傷心のあまり、政もおろそかになってしまった。急ぎ使いを送り、もしかしたら嘘なのではないかと僅かな望みにかけたが、夏木が「これこそが答えだ」といわんばかりに姫君の髪を一房だけ送り返した。文すらない返事に、主上はひどく悲しんだ。
「ただ一人の母上にまで厭われて、まろにはもう誰もいない」
そう泣いて、挙げ句の果てには「まろも出家したい」とまで言う始末だった。これは、余りのお年若による妄言として周囲が苦言を呈してお止めした。主上には、姫君を想うこと以外の意思はまだ芽生えてはおらず、元服の後に娘を後宮に送り込みたいと目論んでいる権力者達に諾々と従うしかなかった。
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