第二章二

 夏木は身元が知られないよう、何人もの人物を経由させて毒を手に入れたのだ。

 ──私だけが……私にしかできないこと。清様をお救いする。

 夏木は何度も自身に言い聞かせた。そうすることによって、毒に侵される苦しみを潰そうとするように。

 それから、夏木は臥せっている日が多くなった。顔色も悪く、女房達は宿下がりをして祈祷を受けるよう勧めたものの、夏木がそれに従うことはなかった。

「あら、夏木は今宵も大君様のもとに上がらないのね」

「大君様もあれだけご寵愛されていた夏木の様子がすぐれないのに、何故かお黙りあそばしておいでなのかしら」

「花はいつか必ず枯れるものということではなくて?」

「まあ……それにしても夏木は何の病なのかしら。流行り病でなければいいのだけれど」

 姫君と夏木の変化に不思議がる女房達は思い思いに口にしたが、誰一人として真実に辿り着くものはなかった。

 夏木は、間遠にはなったものの少しでも体の具合がましな日には姫君のもとへ上がった。

 姫君は夏木を衾へいざない、背を撫でてやりながら一緒に寝た。

 安らかに眠れる夜などなかった。

 夏木の青ざめた顔を見るたび、姫君に後悔が押し寄せた。夏木は弱音一つ吐かずに耐え、苦痛についてもらすことはなかった。姫君にとっては、それが何より辛かった。

「夏木、指が……」

 ある夜、褥を共にしながら、ふと姫君が夏木の手をとって気づいた。

「いけません、お触りになっては……!」

 夏木がすぐさま反応して姫君の手を振りほどく。姫君は血の気が引いて、頭から冷たい砂が落ちてゆくがごとく感じた。

 夏木の指は毒で爛れていた。

「使った後はすぐに手を洗うようにしているのですが……危険です」

「夏木……私は……」

「大丈夫です。これからは指に紙を巻いてやります」

 愕然としている姫君に、夏木は何でもないと思わせるために強いて笑みを見せた。指を隠しながら。

 苦悶の時が流れた。何と残酷なことを頼んだのかと、姫君は夏木を見るたびに「もういい」と言いたくなった。

 言わせなかったのは、夏木の意思の強さだ。姫君を自由の身にしたいという思いと、姫君を主上から奪い返したいという願い。

 耐えているうち、体はひどくゆっくりと毒に慣れていった。


 実感すると、夏木は必ず暗い喜びを覚えた。一人きりの局で、口許を歪めて笑った。これでまた一歩近づいた、と。

 そんな日には姫君のもとへ上がり、少しでも元気な姿を見せようとした。痛ましいものを見る姫君の目に、悔いることは何もないと伝えたかった。

「……私はお前に酷いことをさせているわ……」

 ある夜、姫君が堪えきれずに言うと、夏木は姫君に身を寄せて囁いた。

「清様の願いは、清様だけのものではないのです……これは、私の願いでもあります」

「……夏木……」

「私が心から願っているのです……」

 主上を弑し奉ることを。

 姫君は何も言えなかった。夏木はひたすら耐え抜いていった。



 *



 そして、姫君の裳着が秋の日の深夜にとり行われた。

 寝殿の西表、母屋と廂の間にある簾を取り外して放出にし、絢爛な調度品を飾りつけて。

 幄を垂らした張台の向こうには腰結をつとめる主上の姉の内親王がいる。彼女は斎院でもある。

 それに加え、髪上げをつとめるために宮中から退出してきた内侍達。

 腰結は子の刻に行われる。控えめな明かりが女達の影を幽玄に透かし見せる。

 姫君は無表情のまま、儀式を終えた。


 父である左大臣は、その姿を「堂々としたものだ」と感じ入っていた。姫君の真意は知らぬままに。

 その半月後、陰陽のものが吉日だと示した日に姫君は後宮へ入内を果たした。

 賜る殿舎は麗景殿。最初から三位をさずかり、女御となった。

 主上から見た姫君は美しかった。

 表情が固いとも見えるが、それは経験したことのない女御という勤めに対するものによるのだと思えば、逆に初々しく好ましいものと感じられた。微かに憂いを落とす面差しは、主上には見たことのないものだった。当然だ。主上のもとに上がるものは全て、主上に愛されるように振る舞うのだから。姫君は、全く主上に媚びない。それは新鮮だった。

 抱き寄せれば、なよやかに何も言わずに従う。たわわな鴉の濡れ羽色の髪に、真珠のように白く映える肌に口づけてゆくと、今までに聞いたこともない香りが鼻腔をくすぐり、やがて身を包む。

 主上は姫君に対し夢中になった。

 ようやく得た然るべき女御でもある。姫君は毎夜といっていいほど主上のもとへ上がり、昼には主上が麗景殿へお渡りになることさえ度々あった。


 それでも、姫君には常に夏木が付き侍っていた。姫君の後を追うようにして裳着を済ませた夏木は、青白い顔をしてはいたが、昔とは違って周囲の女房達に合わせて話に加わり、ときには笑いもした。

 女御となった姫君は、夏木にさえ愚痴をこぼさずに主上の思うままにさせていた。口数こそ少ないが、それは姫君を慎ましやかにみせていた。

 その姫君が、主上に一つだけ願いを口にした。夜の御殿の傍近くに夏木を侍らすことを許して欲しいと。

「可愛いそなたの望みならば、まろは喜んで叶えよう。ねだる姿もまことに愛らしい」

「ありがとうございます……嬉しゅうございます」

 主上は鷹揚に頷きながら、「そのものは、そなたのお気に入りか?」と問うた。

「彼女が女童の頃より仕えさせておりますので、傍に置いておくと落ち着くのでございます」

「なるほど……先には美しくなりそうでもある。そなたのお気に入りは、まろのお気に入りであると思ってよい」

 このときばかりは姫君もへりくだって頭を下げた。

「主上にそこまで仰せになって頂けるとは……ありがたき幸せにございます」

「堅苦しいことは抜きだ。他にも望むことがあれば言うとよい」

 主上が笑いながら姫君の肩を抱く。姫君は主上に寄り添いつつ、「今で十分でございます」と微笑んだ。そのさまは固い蕾が冬を越えてやっとほころんだように、主上の待ち望んだものだった。それが毒花だとは知らずに。

 夏木は主上から見て、いつも顔色が悪いけれど特に難のない若女房だった。まだ幼さが強いが、顔立ちはよく、数年後には美しく熟すだろうと思っていた。

 夏木はうまく化けていた。姫君を奪った主上にも笑顔をたやさずにすごした。

 しかし、主上のご寵愛が半年ほどかけて更に深まった頃、姫君は麗景殿の几帳の奥から夏木だけを呼んだ。

「夏木……私はどうしたら……」

「清様? いかがなさいましたか? お顔の色が悪うございます……どこかお具合がよろしくないのでは……」

 夏木が見た姫君は憔悴しきっていた。半年以上に渡って自我を殺してきたのだ。疲れも溜まっているだろうと推察したが、姫君は今にも泣き出しそうに顔を歪めて首を振った。

「ないの……月のものが……」

 青ざめた夏木の顔が、表情を失った。

「じきに主上にも知られるわ……そうしたら、もう私は……産むしか……」

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